「君は間違っているっ!」
と怒鳴っている人がいる。「君」が「間違っている」と言っているのだから、「自分」は「正しい」ということが前提なのであろう。しかし、本人は自分と相手を区別しているだろうが、第三者にとっては、怒っている人も「君!」と怒鳴られている人も、同じ人間である。区別はできない。つまり、怒っている人は、
「君の考えは私とは違う。どちらが正しいかは不明だが」
と言うべきだった。
もともと「正しいこと」、「何が正しいか?」は誰が決めるのだろうか?
正しいことを決めることのできる第一の人(?)は「神様」だ。神様が「これは正しい」と言えば、その神様を信じている人にとっては無条件に正しい。その通りにやっていれば問題はないし、信者の間には争いは無い。しかし、神様が「正しいこと」を決めるというこの方式には決定的な欠点がある。まず、神様が複数おられることだ。もしこの地上に神様がお一人なら簡単で、正しいことを神様にお聞きすればよい。しかし、よく知られた神様だけでも、お釈迦様(紀元前約600年に生誕)、孔子(道教。紀元前に誕生)、イエス・キリスト(正しくはイエスの父、ユダヤ教なら直接ヤハウェ、紀元0年、ユダヤ教なら紀元前2000年程度)、マホメット(正確にはユダヤ教の分派)などがあり、その他、日本の八百万の神、中央アジアのゾロアスター神など世界中を探訪して数えあげれば神様の数は限りがない。
これらの「複数の神様」が同じことをおっしゃっているなら問題はないが、実に様々である。だから日常的な行動規範を神様にお聞きしても、「正しいこと」自体が違う。そして「どの神様が本当の神様か?」と聞くと、信者は「自分の信じている神様が本物」と言われるので、結局、判らない。最近では「宗教間の融和」ということでキリスト教の司祭と仏教のお坊さんが会議を持ったりしているので、ますます判らない。
もしお釈迦様とイエス様が同一人物なら、是非、両派は宣言をして、仏典と聖書の合本を作ってもらいたいと著者は思う。もし合併しないのなら、議論を中断せずに、どちらの神様が存在し、どちらはいないという結論を出してもらいたい。もしくは、それが出来なければ、信者の方は自分の信念として特定の宗教を信じるのは良いが、他人に強制しないようにした方が良い。
故事であるが、ある時、中国の元のフビライが、マホメットにこう聞いたと言う。
「マホメットよ。おまえは世界中を旅してそれはそれは博学である。そこで余に次のことを教えてもらいたい。余は世界を制覇した。あまりに多くの国を支配したので、余の国には釈迦、キリスト、マホメット、孔子、そして蒙古の神の5人の神様がおられる。余はどの神を信じれば良いだろうか?余がこの世をさって冥界に入ったとき、もし間違った神を信じていたら、きっと酷い罰を受けるに違いない。といって余はどの神が本当の神かがわからないのだ」
著者を含む普通の凡人は、異なる時期に異なることを正しいと言っておられる神様がお二人おられたら、自分でどちらの神様が本当の神様かを決めるのは不可能である。お釈迦様にしてもイエス様にしても、著者より人格も高く、能力も優れている。それは仏典や聖書を読めば一目瞭然である。自分より優れた人がお二人おられるのだから、そのどちらかを選ぶことは著者にはできない。
著者の若い頃、「資本主義と共産主義、アメリカとソ連」が鋭く対立していた。その頃、私はこう考えた。「アメリカにもソ連にも、自分より能力、人格、経験など全ての面にわたって優れた人が、それぞれ100人はいるだろう。それなのにどうして自分が資本主義がよいか、共産主義が良いかを決めることができるだろうか?もし、決めたら、その根拠はなんであろうか?」と悩んだことがある。
まして同じ仏教でも、またキリスト教でもその中にさらに宗派があり、それが歴史的には血を血で洗う争いを繰り返している。そんな状態で、どの神様が正しいと決めることはできない。
そういうことで、神様を頼ることができないので、王様にお願いする。昔は王様が「これをしてはいけない」と決めてくれたので、それを正しいとしていれば良かった。しかしすでに王様の時代は過ぎ、王様の代わりをするのが国会である。そして建前としては国会の議決でできる法律が正しいという事になる。
しかし国会の議決も正しいと信じるには少し無理がある。その原因の一つが「民主主義」である。民主主義は社会を修める一つの方便として成立するが、民主主義が「正しく」機能する為には常に全会一致でなければならない。もし反対者が一人でもいると、「民主主義で決めたことは正しい」は「多数が正しい」ことを認めなければならないからである。多数が正しいという結論を得ることは論理的には困難である。
国会の議決が正しいとは言えない第二の理由は、国会の議論があまりにも低レベルであることが歴史的に証明されているからである。国民に選出された議員が低レベルの議論をする原因は複数考えられるが、歴史的にはすでに証明されている。また朝令暮改の場合もあり、これも社会の運営にはある程度機能するが、個人が「正しい」と決める論拠にはなりにくい。
神様も王様も正しいことを決めることができないなら、「偉人」に決めてもらう方法がある。偉人が決めたものを普通、「道徳」と言っている。典型的な道徳は、「親に孝行」「師を尊敬」などであり、それを聞くと現代の若者はいっせいにイヤな顔をする。そんなことを強制されるなら「正しいこと」なんかは要らないと逃げる。また第二次世界大戦以前には道徳を逆手にとって、自分の利益に為に使った人が現れ、そのために現在では小学校でも道徳を教えることができない状態にまでなっている。
最近、「小学校で道徳を教えるべきだ」という人がいる。確かに、大人にとって見れば、あまりにも見かねるような言動をとる若者に出会うと、そういう気持ちになることも確かだが、道徳と言う名の下に少し前に、酷いことが行われたことも考えなければならない。だから、残念ながら日本では、すでに「道徳」という言葉は汚れてしまった。意図は正しいがもう一度出直しが必要である。
神様、王様、偉人がだめなら、仕方がないから「自分」が決めるしかない。これが「信念」である。神様の「宗教」、王様の「法律」、偉人が決める「道徳」、そして自分が決める「信念」である。自分の信念は自分が決めるのだから簡単。ただ、個人個人が信念を持つので、それを他人に強制すると面倒なことが起こる。自分で決めた信念の及ぶ範囲は自分だけにしておいた方が良い。道徳を教えられなくなった最近の日本の学校では、仕方がないので、生徒に「自分は自分」と教えているらしい。私は大学の教官だが、ほとんどの学生は「私は・・・が正しいと思う」「人が何を正しいとしても良いのではないか」という信念が強い。
この方法は正しいことを決めるために良い方法のように思うが、そうでもない。全ての行動が自分だけで完結するならよいが、他人との関係を生じることがある。その例として「人のものを盗む」ということについて学生にその「善悪」をレポートさせたら、「他人のお金を盗むのは悪いことだ」というものと、「お金を盗まれる方が悪い」というものがあった。そこで、このような場合には100人の内、1人でも「お金は盗まれる方が悪いので、盗む方が悪くない」という考えがあると全員が鍵を掛け、用心をしなければならなくなる。さらに「暴力を振るわれる方が悪い」などに発展すると夜道もおちおち歩けなくなる。
つまり信念で正しいことを決めた場合には、他人は他人で正しいことを決めるので、多くの人が集まると意見が異なり喧嘩が始まる。現実にも、社会の喧嘩のほとんどはこの種のものである。
だから、信念で正しいことを決める場合には、自分の行動だけに限定する必要がある。現代の若い人は小学校からこの方法を教えられているので、「俺が俺のことを決めるのだから何が悪い!」というし、年寄りは「これが正しいのだから、こうしろ」という。だからもめ事ができる。このようなことが起こるのは、この社会には、「自分だけに影響が及ぶ行為」などほとんど無いからである。
著者は大学で教えているので、学生が「僕は僕で決めます」と言うことが多くある。「何で、人のことを考えなければならないのですか!」と言う。そこで私は、次のように答える。
「なぜ、君は森の中で一人で生活しないで、都会で生活をしているのだ?もし、人のことを考えたくないなら、一人で生きた方が良いのじゃないか?」
実は人間は集団性のある動物である。だから、人間が生きていく場合には自分だけに関係する行動はほとんどないと言って良い。いくらでも例を挙げることができるが、男子学生の下宿の部屋でさえ、あまりに汚くすると臭いし、第一、火災の危険性もある。だからあまりこの方法も正しいとは言いにくい。
「正しいこと」を決める最後の手段は「相手に聞く」、もしくは「相手に聞いたらどう言うだろうか?」を考えて行動するという規範があり、それを「倫理」という。倫理の黄金律は、「相手のして欲しくないことはしない(消極的黄金律)」と「相手のして欲しいことをする(積極的黄金律)」がある。「して欲しくないことはしない」、という消極型は東洋型、「して欲しいことをする」、という積極型を西洋型と言っても良い。
消極型でも積極型でも、相手に「して欲しいこと」を聞くという点では同じなので、相手との関係では「信念」より正確さが増す。しかし、積極型では得てして相手の意志を無視する傾向が生じる。例えば、歴史的にはキリスト教の強引な布教や民主主義の押し売りなどがあり、「キリスト教を布教することは神の命令であり、相手も帰依すればそれが良いはずである」という信念の元に「改宗しなければ殺す」というような場合もあった。またアメリカとイラクとの戦争のように「民主主義が正しいのだから、我々は君たちの解放軍だ」といって相手の国に攻めこむことなどがその一例である。このような行為は「信念」に基づいている場合や、時には自分の利害に関係することを強引にするための「道徳的な理由づけ」になっている場合も多い。だから、このようのことを「倫理的」と呼ぶには少し無理がある。
「倫理」というものの範囲は明確ではないが、「倫」という字が「人間と人間が相対している状態」を示した漢字であることから、倫理を「相手に聞く」ということを中心としてもそれほど間違ってはいないだろう。それに「倫理」とか「道徳」という語感から来る一種のいやらしさは、「自分が正しいのだから、おまえもその通りせよ」という傲慢さが見え隠れするからである。実際、歴史的に見ると、倫理や道徳という名の下に倫理や道徳が行われたことより、それを理由にしてその人の得になることを強制するのに使用されたことが多い。
ここで、まとめを行いたい。
まず「正しい」ことの決め方は次の用にまとめられる。
1. なにが「正しい」かを決めるのは、難しい
2. 誰かが「正しい」と決めないと正しいことは決まらない
3. 「正しい」ことを決める人には、神様、王様、偉人、自分、相手の5つが考えられる。
4. 神様、王様は現代では適切ではなく、偉人はある程度の基準になるがコンセンサスをとることはできない
5. 自分が「正しい」と決めたことは自分だけに止まらなければ他人に迷惑をかける
6. 相手に聞くのが一番良いが、相手の意志を自分が推定すると、自分が決めたのとほとんど同じになる
ところで、多くの場合「正しい」と思うことは、
1. 自分の利益になる
2. 自分の生い立ちや親に習ったことを正しいと思う
3. 相手に対する競争心や嫉妬心の裏側
であり、それを表面に出しにくいので、隠れ蓑として使われる。
もともと、人間は動物だから自己中心的な状態が「自然」である。自然のとおり、素直に行動すればどうしても自己中心的になる。道徳や倫理はそのような人間の自然状態と人間の文明社会の構造が矛盾していることから発生している。だからなかなか自己を正当化しないように冷静になることは難しいが、それでも「なぜ、自分が正しいと思っていることは正しいの?」と自問自答することは役に立つ。そしてその自問自答は自分の心の中や、親しい友人として、その時にはできるだけ心を平静にすることも相手の意見を理解する上で大切であろう。また、相手と自分を入れ替えて考えるのも有効だ。
それでも自分の考えが正しく、相手が間違っていると考えてしまうが、それは、
1. 相手はバカだ、経験がない
2. 相手は情報を知らない
と思うからだ。これを克服するには時間がかかるが仕方がない。1、は仕方がないが、2,は「話せば判る」ことである。
さらに、
1. 相手はもしかすると自分の得だけを考えているのではないか?自分は犠牲的なのに・・・
というのが最後に残る。
人間とはやっかいなものである。自分が可愛い、できれば全てが自分が好きなようになって欲しい。でも、それはできない、だからといって自分一人だけでは生きていけないし、第一、寂しい。人間は自分の意見を強く主張するほどには強くない。
学生や若い人が間違うのは、自分が他人を世話したことがないので、自分は自分だけで完結していると錯覚しがちなことだ。それが若さというものとも言えるが、逆にその若者を苦しめる結果を伴っている。自分はなぜ人間の中で生活をしているのだ?自分はなぜ腹の立つ相手とつきあっているのだ?と自分で質問してみると、少しは回りが見えてくる。
そして、最後の最後は、相手に対する愛情が決め手。愛情を失わなければそれで良い。どうせ、憎い人のいっていることに同意することは難しい。なんのかんのと理屈を述べても、それは相手に対する好き嫌いだけ、という事もある。どうしても心が乱れる時には、静かに仏典か聖書、コーランを紐解くと、そこには最終的な解決を神様が示してくださる。