システムと信念
現代の日本には正義があるだろうか?
正義がなくても子ども達はすくすくと育つことができるだろうか?
正義がなくても正義が通るだろうか?
正義が無くても社会は暗くならないだろうか?
我々の最後の砦、野党や新聞はなぜ体制側になびくのだろうか?
ヨーロッパ近代が夜明けを迎えようとしていた1632年。ガリレオは20年ほど前にリッペルスハイが発明した望遠鏡で天体をくまなく観察し、「天文対話」を著した。宗教界は直ちにこれに反発、ガリレオは宗教裁判にかけられることになる。
自然は神の摂理を体現している。自然を観察することは第二の聖書を読むことだというガリレオの主張は入れられない。
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宗教界はなぜ、ガリレオの研究を支持しなかったのだろうか?それは天体を観測したということが気にくわなかったのではなく、その結果、体制の維持に不都合だから
ダーウィンが「進化論」を発表したあと、社会から猛然と反発がきた。人間がサルのような下等なものから生まれてきたとはどうしても思いたく無かったのである。それに対してダーウィンは、
「人間は真実を信じるのではなく、信じたいものを信じる」
と述懐している。
日本の国立大学は「法人化」した。理由は大学も能率を考えて儲ける為である。
いま、日本の科学技術は、内閣府の「科学技術総合会議」が全体の方向の決定権を持っている。首相の諮問機関である。そこが「日本にとって何が大切」ということを決めると、それにそって研究資金がでる。研究資金が多ければ研究者が増える。
でも、この総合会議は政府の機関であり、学問を決めるところではない。現在の学問の結果から、できるだけ能率的に日本が繁栄するための方法を決めるところである。そこで、「ナノ、情報、バイオ、循環」と決まると、それに反する学問にはお金がでない。項目にない学問ならまだ良いが、「循環してはいけない」「バイオをすると人工的な生物ができる」など政府方針に反対する学問には一銭も出なくなる。当たり前である。
ガリレオやダーウィンの例でもわかるように、学問は「今の価値観を覆す」のが主要な役割である。だから、現在の政治体制や社会体制とは相容れない。
科学技術総合会議は名称を変更し、「産業技術方針会議」にして、産業界からの技術系重役で構成するべきである。学者は現在の認識を覆したり、新しいことを見いだすのが社会での任務である。
ところで、環境もそうであるが、学問も「長いものに巻かれる」のが一番よい。長いものは現世を支配しているから権力をもちお金を持っている。だから、長いものにまかれて産業界の役に立った方が居心地がよい。でも、少なくともこれまで社会が学問として求めてきたものは、長いものではない。
学問は能率の悪いものであるし、何かといえば批判的である。だから「グズグズ」している。学者は「いったい、何をやっているのか!国立大学は税金を使っているのに!」と言われるが、それが正解である。
なぜかというと、学者は今を覆そうとするので、ハッキリとものを言えない。そして今を覆すのだから批判的である。そしてその批判的な学者に教育されるから次世代は批判的になり、それ故に新しい社会を次世代が築く。それが結局、日本のためになるので、これまでそう言う体制が支持されてきた。
もう一つ、学者は身分が保証されている。上司がいない。だから勝手なことを言える。ガリレオが地動説を唱えても学問の社会では許されるのである。「方針に反するのではないか!」と叱られれば「それが私の任務です」と開き直れるのが学者である。
もし社会システムからの締め付けが強く、自由な学問が出来なくても、そうだからといって体制になびかない学問的信念を持つことが学者としての第一の要件であり、システムを尊重する社会と、システムより信念を重視する学問とは違う。違うから併存できる。
私は環境の研究をやっていた。国は「循環型社会」に舵をきった。従って、「循環型社会は成立しない」という私の研究はすべてお金がつかない。当たり前で「循環型社会を成立させる方向の良い研究に資金を出す」といっている応募に「循環型社会は成立しないから、自己修復材料を・・・」などと提案して通る方がおかしい。国は国、学問は学問である。恨みはない。でもお金はこない。
工学にとって資金源をたたれるということは、殆どそのまま研究の死を意味する。会社も国の方針に反するには勇気がいるだろうが、それは学者も同じである。でも、私は信念に従う。
正義というのはなんだろうか?これまで長い人類の歴史の中で正義の為に身を捧げた多くの人がいる。その人達はただ自分が正しいと思う意見を主張しただけなのだろうか?
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私は正義というのは「みんなの前で言えること」だと思う。実はだれでも何が正義かはよく知っている。でも自分の心の中にある利己と相容れない時がある。でも人間は他人の間で利己を出すことができない。それはおそらく人間というものが集団性を持ち、その集団性を保つために他人の前で利己を出すことをためらうのだろう。
科学技術総合会議も独立法人化も冷静に議論すれば、だれも反対だろう。でもそこには正義に反する「力」が働く。それに人間は押し流される。正義という義を貫くには、礼誠勇仁がいる。