誠実と屍


 「惚れてよ,可愛い,いとしいものなら,何故命がけになって貰わない.・・・・・・可愛い女房の親じゃないか.自分にも親なんだぜ,余裕があったら勿論貢ぐんだ.無ければ断る.が,人情なら三杯食ふ飯を一杯づつ分けるんだ.」(泉鏡花,「婦系図」,明治41年)

 泉鏡花の文学は、西洋の俗物主義に日本の義理人情で対抗しているとされています。そして、この見事な文章のなかに現代の環境問題が凝集しているように感じられます。しかし、現在の大量生産、大量消費に結びついた西洋の俗物主義は近代とともに訪れたのであって、ギリシャ、ローマとは別の文明体系であったゲルマンはそうでは無かったようです。

 「不名誉な者として判定された者が、たとい財宝をもっていても、そんな財宝は社会的にはなんの価値も認められない、また所有主である本人自身が一人前の人間としては通用しないのであって、社会的には全く「生けるしかばね」以上の何物でもない・・・あらゆる名誉は誠実に由来する。」

と淡野安太郎さんはその著書の中にまとめています。そして、このように誠実を重んじるゲルマンの文化は我が国でも同じであったとされています。その例として借金証文をあげます。

 「万一、拝借した金子をお返ししえないような節は、拙宅の前に来てお笑いくださっても構いません。」
 つまり、少し前までは、誠実を失うことは生きていくことを拒否されるという規範は洋の東西に因らなかったのです。著者は科学者なので、近代科学が人間から誠実さを奪ったと考えたくないのですが、歴史はそういっているように思えます。

 よく、衣食足りて礼節を知ると言います。確かに人間は衣食住という生きるために必要な最低のものもなければ野獣のように浅ましくなる可能性があります。逆に、衣食住が満ち足りていれば心に余裕がでて礼節も知るようになると予想されます。しかし、現代の日本人を見ると、古くからのこの格言が幻想であったことが判ります。特に、学問を積み、自分の衣食住は十二分に足りている指導層の中に礼節を知った言動とはかけ離れた人達がいることが残念です。

 私たちは学問を修め、科学を発達させたことを、人間性の向上に結びつけることが出来るでしょうか。松本道介さんがお書きのように「反学問のすすめ」が正しいのではないかと思います。