「法(刑法)と倫理」・・・形式論として


 平野龍一「刑法の基礎」から、次の点を明らかにしなければならない。

 まず、刑法で規定している条文の根拠には3種類あり、

1. 善悪とは無関係に社会の秩序を保つための罰則
2. 善悪と社会秩序の両方を満足する罰則
3. 社会秩序上は無関係であるが善悪の感覚を満足させるための罰則

である。

 倫理についても3種類ある。

1. 倫理とは個人個人の心の問題である
2. 倫理とは個人の心の認識が多くの人の共有となった時に倫理として実効性をもつものである
3. 倫理とは多数の人の共通認識になっているもので社会的に決まったものを指す

である。

 ミル、デヴリン、フォイエルバッハ、ウオルフォンデン、ハートらの見解、およびパターナリズム、リーガル・モラリズムなどの主義については多くの議論があるが、これらはいずれもこの3つずつの組み合わせを論じているとできる。

 この組み合わせの内、極論同士を組み合わせた2例を挙げると、まず「法とは善悪とは無関係に社会の秩序を保つために作られる。従って倫理とは別である。もともと倫理とは個人個人の心の問題だからである」とする。そうすると、他人に迷惑をかけなければ社会の秩序を乱さないので、全く個人に属することや当人同士の了解があるものについては犯罪を形成しない。

 これはミルに代表される解釈である。
 
 この種の例題として適切である売春をとると、「歌舞伎町の風俗は屈託がない」というルポ、「単身赴任の時、押さえきれない性欲をどうするのですか?」という質問についての有効な反論はない。もともと売春とは貧困家庭で売買された娘が都市で強制的に働くから禁止する必要があるという考え方は、「娘を売買する」「強制的に働かせる」という両方が罰せられなければ成立するが、売春自体を問題としているわけではない。また、住宅地に売春の立て看板を賑わしく立てて営業することは不快であるという事に対しては、売春の営業とその宣伝の方法を規制すれば済むことである。このような制限は社会秩序を守るために規定されることであり、その例は多い。
 
 反対の極には、「法は倫理の体現そのものである。そして倫理とは多様性を持つものではなく、決定されているものである」という考えがある。この場合は被害者がいなくても大多数の人の倫理観で法律の条文ができて、それによって罰せられる。このような考え方は保守主義に多く認められ、それなりの意味があるが、その延長線上には「暗い社会」が想定される。この場合、社会に「複数の政党」の存在を認め、政党が国会で法律を作る権限を得るとすると、「複数の倫理」の存在を認めることになり、「多数の倫理観」が強制される結果をもたらす。「ユダヤ人は悪であるから殺す」と決めれば、被害者を出さないユダヤ人も殺されることになる。

 「背任罪」を広義にとれば、「他人の事務を司る職業の人はその職業に科せられている任務を遂行するにあたり、任務を誠実に行わなければならない」という事になり、それに反すると罰せられる。この背任罪の存在は「誠実を失えば屍」というゲルマンの掟と類似しており、現在の日本で議論されている「倫理問題」の多くは解決する。

 このほかに法と倫理の問題では、「警察力を充実させるのには社会的負担が大きいので、倫理観を育てて警察力の負担を軽減する」という実学的な考えがある。刑法と背任罪があればほとんどの共通倫理は守られると考えられるが、実際に警察力がそれを監視しているわけにはいかないので、倫理を強化して法が犯される絶対数を減少させようとするものである。

 また、経済活動やその他のさまざまな社会活動は「信用」「誠実」の程度によって活発になる。従って実務的にも倫理が強調されている方が活動が盛んになる。そしてこの場合の「倫理」とは法律(刑法)に決まっている内容を「倫理」とする。従って、倫理の勉強は刑法の勉強と同一となるし、警察に逮捕されなくても法律を守ると言うことが倫理の基本になり、倫理的には行為そのものは限定されないことになる。むしろ現代の日本で問題となっているのは、刑法を守らないという意味での倫理が叫ばれている可能性が高い。
 
 倫理が法律と同一になるのは両方の持つ社会的意義を損傷する可能性が高い。法律の基本は「約束」と見るべきであり、多くの不完全な人間が互いに快適に生活をするために最低の制限を設けるとする。一方、倫理は「影の行為の制約」とすることができ、法律に違反しない範囲でも「決してしては行けない行為」を人の心に期待して制約することを意味する。

 手術の最期の段階にさしかかり、血管の縫合にあたって医師が面倒であるということを唯一の理由にして不完全な縫合をしても法で罰せられることはない。しかし、最期までその職務に忠実に行動するという倫理には反する。人間の活動がこのような例を日常的に有していることを考えると倫理の持つ意味は大きく、抽象論になることをさけなければならないし、また法律との混同を戒める必要もある。

 公務員倫理法という内容の法律があるが、この法律は法として公務員の執務を制限しているのか、あるいは倫理の一部を法としているのかが不明瞭である。また名称自身が適切ではない。


 (著者の考え)
 著者はこのような法と倫理に関するやや形式的な議論の有効性を認めるが、それでも倫理はさらに高度な文明的な要素を含んでおり、ヨーロッパ流のこのような論理的議論によって倫理の研究が進むとは考えていない。倫理はより情緒的、人生論的である。