ヨーロッパを真似たくない


 江戸時代の終わりに日本を訪れたスイスの遣日使節団長アンベールはスイスの職人と比較して日本の職人を論評する。

 「(日本では)若干の大商人だけが、莫大な富を持っているくせに更に金儲けに夢中になっているのを除けば、概して人々は生活のできる範囲で働き、生活を楽しむためにのみ生きているのを見た。労働それ自体が最も純粋で激しい情熱をかきてる楽しみとなっていた。そこで、職人は自分の作るものに情熱を傾けた。彼らには、その仕事にどれくらいの日数を要したかは問題ではない。彼らがその作品に商品価値を与えたときではなく、かなり満足できる程度に完成したときに、やっとその仕事から解放されるのである。(渡辺京二「逝きし日の面影」から引用)」

 江戸の職人というのは現代で言えば、会社の技術者や営業マンであるが、実にあっさりして人生そのものを楽しんでいる。生活ができるだけを稼いだら、あとは自分が満足するまでやるだけだ。着ているものは粗末だったが、そんな事もあまり気にしない。本当に生きることを知っていた人たちが私たちの祖先だった。

 明治初期の日本をしばしば訪れたイライザ・シッドモアの手記。

 「日の輝く春の朝、大人の男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し浜砂に拡げて干す。……漁師のむすめ達が臑をまるだしにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布切れをあねさんかぶりにし、背中にカゴを背負っている。子供らは泡立つ白波に立ち向かって利して戯れ、幼児は楽しそうに砂のうえで転げ回る。婦人達は海草の山を選別したり、ぬれねずみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。暖かいお茶とご飯。そしておかずは細かくむしった魚である。こうした光景総てが陽気で美しい。だれも彼もこころ浮き浮きと嬉しそうだ。(同じく渡辺京二さんの本から)」
 ほのぼのとした風景が目に浮かぶ。暖かいお茶とご飯。おかずがむしった魚。とても美味しそうだ。子供が戯れる中でおしゃべりをしながら浮き浮きと楽しく海草を選別する風景、笑い声が聞こえる。現代風に考えると男女に役割分担があるように感じられるので抵抗があるだろうが、当時の考え方をもとにすれば情景は明るい。

 同じ頃のイギリス。それも当時世界で最も進んでいた都市の様子をエンゲルスが「イギリスにおける労働者階級の状態」(1845年)のなかで描写している。

 「貧民には湿っぽい住宅が、即ち床から水があがってくる地下室が、天井から雨水が漏ってくる屋根裏部屋が与えられる。貧民は粗悪で、ぼろぼろになった、あるいはなりかけの衣服と、粗悪で混ぜものをした、消化の悪い食料が与えられる。貧民は野獣のように追い立てられ、休息もやすらかな人生の楽しみも与えられない。貧民は性的享楽と飲酒の他には、いっさいの楽しみを奪われ、そのかわり毎日あらゆる精神力と体力とが完全に披露してしまうまで酷使される。」

 ヨーロッパに比べて日本は素晴らしい国だった。なぜ、ヨーロッパを見習おうとしているのだろうか?もちろんアメリカはもっと酷いけれど。