約束を守るということと「礼・節・信・義」

 「これをしなさい、あれをしなさい」とあれこれ、押しつけられるのはイヤだ。昔と違って、親に孝行、国に尽くすなどと決まっているわけではない。親に孝行したい人は孝行すれば良いし、自分勝手に生きるべきだと考えている人はそれでよい・・・それが今日の日本で広く受け入れられている「道徳」である。

 このような戦後の教育が適切かどうかは歴史が教えるだろうが、おそらくは、戦後にこのような方向性のない教育が行われた理由ははっきりしている。それは第二次世界大戦の衝撃があまりにも大きかったので、「なにが正しいか」を決めることができなかったことによると思われるのだ。

 しかし、それでは教育の現場は教育というものができない。学校の廊下でたばこを吸っている学生を注意しても、「廊下でたばこをすって何が悪い」ということになるし、「たばこは決まった場所で吸うように掲示しているだろう」と言っても、「そんなことは学校が勝手に決めたのだから」と言う。

なにしろ「何が正しいか?」が決まっていないし、「組織は上司の言うことが正しいという仮定で成立している」という原則も通用せず、「学校は指導を受けることを前提に入学している」ということすら徹底していない。

しかし、言うまでもなく学校は教育基本法の第一条にあるように、学業を教えるより前に人格の形成を第一目的としている。ところが「人を殺してはいけない」ということを道徳としてではなく、「法律的に殺人罪になるから」と説明するしかない状態では人格の教育などできないことは間違いない。学校内のすべての行為を学則や法律で罰する以外に指導ができなければ教育そのものが破壊するからである。

事実、大学では講義が始まって15分もたっているのに、教室のドアーを乱暴にあけて、教室内をうろうろと歩き回り、どさっと荷物を床に置く学生がいるが、その学生に注意すると怪訝な顔をしている。私はそんな学生の襟首をつまんで立ち上がらせ、(と言っても、私よりかなり背が高いのだが)、後ろに立たせる。そうすると学生は怪訝な顔をしてしばらくたっているがそのうちいなくなる。

 教育基本法に忠実な教師は、廊下のたばこも、遅れてきて教室内をうろつくのも注意をしなければならないが、そんなことをまじめにやっていると「そんな面倒なこと、しなくても良いじゃない。どうせ、損するのはその学生なんだから」といって戒められる。

 でもそれはまったく間違っている。

もし消防士が「火事を消すのは面倒だ。どうせ、燃えるのは他人の家だから」とか、警察官が「泥棒を追いかけるのは面倒だ、どうせ、被害を受けるのはオレではない」と言っていたら、社会は成立しない。消防士も警察官も、そして教師もその職務を忠実に実行することが求められる。教師はどんなときでも教育を放棄できない。

 そして、不十分な学生を指導するのが教育なのだから、学校という社会は「少なくとも建前では一人一人が責任を持てる人の集合」でできている一般社会」とは違う。教師はたとえ学生が失敗しても、本人の為にならなければ咎めない。学校を出るときまでにそのような失敗がなくなれば良いのであり、学生の行動の責任を問うようなことはしない。

つまり、学校というところは「未完成であることを自ら認めて教育を希望している学生に対して、その未完成のところを直すことを仕事としている教師」が集合しているところだからである。

そのような学校のもつ本来の役割を考えず、学生が不十分でなにが悪い、注意する学校の方が悪いと騒いでもらったらまじめな先生がやる気を失うのは当然である。マスコミは終始一貫、なぜか学校という存在を認めようとしない。社会一般と同じ状態を学校に求めている。

 そのような教育環境の中で、私の研究室では、定まった価値観を基本方針にすることができないので、「約束を守る」ということを第一の教育方針にしている。約束を守ることができない学生は、いくら学問の成績が良くても合格点を挙げることはできないと私は学生に宣言する。

 この場合の約束を守るというのは具体的にどういうことかというと、
1) 学生本人が自らの意思を行動や書類で示した場合、それを学生自らが守ること
2) 学生本人が自らの意思を言葉で示した場合、それを学生自らが守ること。もし行動や書類で示した意思と言葉での意思が異なる場合には、行動や書類が上位にある
ということである。そしてその意思を守らなくても良い特例が成立するのは、自らの意思を示した時と状況が明らかに変化した場合に限ると教える。

 たとえば、研究室で研究会を行うことになったとする。かくかくしかじかの日の10時からやると決まると、それを決める時に多くの学生に都合を聞いたとしても、2,3の学生は都合が悪いかも知れない。だから、10時から研究会をするのに特に異議を示さなかった学生は10時に遅れると、研究会に参加できない。

 そして、10時に来ることができない学生は、自ら11時とか、1時とかを研究会の幹事に言っておく。そして自分が言った時間に遅れたら、研究会に参加できない。それが私の研究室の規則である。つまり「研究会に参加すべきであるとか、研究会が始まる10時には来ていなければならない」という教育をするのが本筋と思うが、それでは価値観を含むので、なかなか現代の学生を指導することはできない。

 だが、「自分で決めた時間を守れ」というのは、これまで反抗した学生はいない。

そしてさらに、私が厳しくこれを求める理由がある。その一つは、もともとその研究会に出席するメンバーは教官側は博士ばかりであり、学生側も大半は成績優秀で、判断力も抜群の人たちである。だから、研究会の必要性も、研究会はみんなが揃ってディスカッションするのだから、遅れてはいけないということを頭で理解することはできるのである。

 それでも現実には、現代の学生は集合時間一つ守ることができない。普段、講義を遅れ、さぼり・・・そうしていても何も指導を受けないので、それでよいと思っているからである。このことは教育側の責任でもある。

価値観の基準を失った現在、「約束」とは自らがその意思を示すから、自ら示した意思は自らの価値判断に従っているはずであり、それを自ら裏切ってはいけないのは全員が納得するので、それならやっと研究室の教育の基本にできる。

 しかし現実には、学生は自らが約束したことを守ることができない。なぜ、できないかというと
1) 約束を守る習慣がない
2) 約束より自分だけの利益を重視する
3) 人の被害や周囲が自分にしてくれていることを理解できない
4) 学問を修めたので約束を破っても言い訳をする能力がある
ということである。1)はかなり頻繁におこることで、実態はかなり情けない状態にある。そして学生自身も自分が約束を守れないことに苛立ちを感じていることも多いが、自分の意思で修正することはできず、何らかの強制力が欲しいという学生も実際には多い。

 約束を守るということについて、単に時間を守るなどの場合もあるが、私は、教育現場では多少、高度な例を挙げる。

たとえば、電車に乗ったときの「キセル」がそれである。電車に乗るということは、鉄道会社と乗る人の間の約束であることを説明する。運賃を払うから乗せて欲しいと乗客が言い、是非乗ってくださいと会社が言う。そう言う約束である。それなのに、キセルをするというのは自ら示した意思をごまかすということである。

 私は学生に、「運賃を正規に払いたくないなら乗るな」と指導する。キセルをするなということは正しいと思う。しかし「みんながキセルをしているではないか」という反論がある。これに対して私は「社会ではそのような理屈も通るかもしれない。でも教育というのはその時の社会がある妥協をしていても、それに準じることなく、正しいことをそのまま教育することだ」と考えている。

 しかし、約束を守る習慣がないと、すでに自分が意思を表明しているのに、意思を表明していないように権利を主張することがある。たとえば、先の講義の教室に遅れて入ってくる学生のようなものであるが、学生と先生は「履修登録」という手続きでお互いに講義をしたり、聞いたりする約束をする。

 だから履修登録という約束をした学生は時間までに教室に来ている必要がある。もちろん、風邪を引いたとかのように事情が変化すれば別で割るが、眠たかったというような理由は事情の変化とは見なされない。

 また他人の被害を何とも思っていないか、思っていても「自分の為に、迷惑をおかけしてすみません」と謝れば終わりと思っている場合もある。謝るという行為は自分の力ではどうにもならないのに他人に迷惑をかける時に使う言葉であり、自分の力で迷惑をかけないようにできるなら、謝るより迷惑をかけない方法をとれば良いからである。

 しかし、どうして謝るかというと、「自分の利害の方が優先する」からである。自分はなにも損害を出したくない、でも他人は損害を我慢してもらいたい、だから自分が謝っているのだから、それを判ってもらわなければならないという論理構成である。

 この行動はdedication(献身)までは行かないが、人間は利己的なので、「自分が利益を得るのを諦めるか、相手が損害を受けるか」という選択に迫られたとき、「自分の損害は大きいが、他人の損害は小さい」と思い、自分にとっては重要なことだから、他人は少しの損害は我慢するべきであるという結論に達するのである。

 特にこのような思考の傾向は頭脳が優れている人や高学歴の人に多く見られる。私の経験ではそうである。そしてその理由もはっきりしている。もし約束を破って相手から非難されたとしても、頭が良かったり学歴が高いと相手を言い含めることができるという自信があるからと思われる。

 教育がこのような結果を招くとういことを目の当たりにすると、私は教師としての使命感が音を立てて崩れるような喪失感に苛まれる。いったい、わたしは何のために教育に熱意を傾けてきたのか、それは単にずる賢い人材を育成するためだったのか。

 私はやはり「固定された価値観」を指示する。「礼・節・義・・・」どれをとっても立派な人間になるには必要な価値観で、それが日本人の日本人としての素晴らしいところであり、この文化を生んだのである。価値観を持つことができない教育、「自分の約束したことは守る」ということぐらいしか教育できない社会、それは寂しい。

終わり