- 塗り込めるか、引き出すか -
個人的な好みは別にして、世界の料理に順位をつけると、一にフランス料理、二に中華料理、三が無くて四がイタリア料理、五が日本料理、というところだろうか。もちろん、わたしは日本人なのでこの順序に不満はあるが、こんなところだろうと思う。
フランス料理は肉か魚がメインで、オードブル、スープ、そしてデザートの後に、チーズと葉巻が付くことがある。中華料理もおおよそ似ていて前菜のクラゲ、フカヒレスープ、豚肉か鶏肉、それに杏仁豆腐と饅頭というところだろう。焼きそばやチャーハンも悪くはない。
日本料理となると、付け出し、お吸い物、煮物、お刺身、天ぷら、ご飯、みそ汁、そして香の物というようになる。おかしら付きの鯛の焼き物が入ることもある。フランス、中国、そして日本、それぞれにずいぶん料理法は違うが、順序にそれほどの違いは無い。
食欲を刺激し、お腹を整え、カロリーを取り、少しお腹を膨らまし、そして最後の仕上げをするという順序だ。お腹もそれを待っている。
ところが、フランス料理と日本料理とは料理法としては全く違う。どういう表現が適当か判らないが、一言で言えば「塗り込める料理と引き出す料理」と言えるだろう。
大学の生協が運営している食堂は面白いもので、昼休みになると教室から学生が湧いて出てくるように一度にどっと食堂へ突進する。その胃袋を満足させるのだから、生協もそれなりの覚悟がある。それは「フランス料理風」である。
生協食堂はすべてを「甘酸っぱく」塗り込める。ある時、わたしの目の前にはベージュ色のプラスチックの皿に、少し長細い物体が二つ並んでいた。わたしはその一つを箸で取って口に入れてみると、少し弾力性があり、甘酸っぱく、歯ごたえはそこそこだった。次にその横の物体に箸をつけて口にした。少し弾力性があり、甘酸っぱく、歯ごたえもそこそこだった。
「これ、なんだろうね?」
とわたしが言うと、
「えっ、どっちですか?」
と同席していた助手が聞き返してくれた。わたしが口にした一つはナス、一つはトリ肉だった。確かにそう言われてみると、そんな気がしたけれど区別ができなかったというのが正直なところだ。
もともとブロイラーというのはトリ肉の一種とは思うが、味はない。歯ごたえも「地鶏」などと比べたら天と地である。どうしてあんなに味のない肉を作れるのかと感心してしまう。それと同じ茄子(なすび)もあったのだとその時、感じ入った。
生協の食堂は徹底的に塗り込める。季節によって少し違うが、主力は「甘酸っぱさ」である。それによって食材の味を徹底的に消し、常にある一定の品質を保つ。そうしないと貧乏学生でもあのブロイラーやナスの味ではノドを通らないからだ。
フランス料理は塗り込む。それは食材の味を出すための工夫であり、味を消す技術ではない。何重にも塗り込められた素材からほんの少しのエッセンスを感じ取ることができる。繊細なヨーロッパ貴族の文化である。
しかし、日本料理は違う。できるだけ簡素に何も加えず、食材そのものの味を引き出そうとする。だから、高い日本料理を食べる機会に恵まれると、「切っただけの刺身、カツオブシと煮ただけの野菜」に、もう少し安くても・・・とつい生まれ育ちが出てしまう。
日本文化というのは、建築にしろ、建具、服飾、刀剣・・・料理も含めてそのほとんどが「引き出す文化」である。自然そのものから採れる素材の中に閉じこめられているもの、それを引き出して美しく、繊細で、高度なものを創り出すのが日本である。
だから、無理はしない。自然の流れに沿い、我を控える。相手に合わせるので、すべては曖昧になるが、それは相手を尊重した結果であって、決していい加減な心から来るものではない。逆に、引き出すためには厳しい修行とすべてを切り捨てた澄み切った空気が必要である。
ヨーロッパの教育論に「人間の三極」というのがある。
個人が本質的に持っている才、人類が獲得してきた学、それに「技」が三極である。才は引き出さなければならない、学は伝達しなければならない、そして技はひたすら訓練によって身につけることができる。
日本の伝統的な教育は、第一に才と技であり、そこに芸を創り出した。ヨーロッパは階級制だったから、芸と知とは異なる人種が担当した。そして明治維新、日本に圧倒的な量のヨーロッパの「学」が輸入された。その結果、日本の教育は「才」を引き出すという日本文化の中心を捨て、「学」を伝達することにその中心を移した。
その結果、日本人は知識と技がたくみになり、意志のない追従型人間というそれまでの日本人とはまったく違う人種を作り続けたのである。それが「科学技術立国日本」という名に変貌し、お金儲けだけを目指した技術で繁栄する貧相な国家になったのだとわたしは思う。
教育の基本は「才」であり、それは引き出す物であって、伝達をもって塗り込めるものではない。世界でも希なこの優れた文化をもう一度、教育界にも取り戻したいものである。
つづく