― 宗教と日本人 ―
世界にはユダヤ教、キリスト教、仏教、イスラム教の四大宗教の他に、ある地方や民族に固有の宗教が無数にあります。
ユダヤ教にはモーセがエジプトを出た後、山の上でイスラエルの民の神ヤハウェから戒律を授かる伝承があります。その有名な十戒は次のようなものです。
(1) お前には私以外に神があってはならぬ。(2) お前は偶像を彫ってはならぬ、 拝んでもならぬ。(3) お前の神ヤハウェの名をみだりに唱えてはならぬ。 (4) 安息日を忘れず、聖く保て。(5) 父母を敬え。(6) 殺すなかれ。(7) 姦淫するなかれ。(8) 盗むなかれ。(9) 隣人に対して偽証するなかれ。 (10) 隣人のものを欲しがるなかれ。
素晴らしい戒律ですが、同時にとても厳しいものです。ユダヤの神はイスラエルの民が絶対に守らなければならない正しいことをこうして授けたのです。
世の中に「正しいこと」を決める決め方は4つあります。
(1) 神が決める。
(2) 偉人が決める。
(3) 相手が決める。
(4) 法律で決まっている。
時に「自分で正しいことを決める」という人もいますが、それは論理的にもおかしな事で、一人一人の人間が自分勝手に正しいことを決めると大混乱してしまいます。そこは、なにか絶対的な権威、できれば神様に決めていただいた方がしっかりします。
神様が「敵を愛せ」と言えば愛し、偉人が「父母を敬え」と言えば敬い、相手が「それはイヤ!」と言えばしない・・・それで社会の秩序は保たれるという訳です。
でもユダヤの神、キリストの神、お釈迦さん、そしてイスラムのアラー、その人達がまったく同じ人で、同じ教えを述べてくれると単純なのですが、神様が複数おられるので、混乱します。
ある人はある神様を信じ、別の人は別の神様を信じているのでどうしても折り合いがつきません。そこで「信教の自由」という概念を作ってそれぞれの人が指針としている「正しいこと」を守ろうというのが、憲法の第二十条です。
第二十条
一 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
二 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
「信教」とは「教えを信じること」です。つまり憲法二十条は「教えを信じること」の自由を保証していて、その教えとは「宗教ごとに違う教えで、ひとつの宗教を信じている人は違う宗教の教えをそのまま受け入れることは出来ない」という前提があります。
そうすると、日本人のほとんどはこの条文には関係がありません。日本の暮れから正月にかけての伝統は次のように進むからです。
12月24日、クリスマス・イブにはケーキを買い、子供がいればクリスマスツリーを飾り、1月1日の元旦にはお供え餅を神棚に供えて一家揃って柏手を打ってから神社に初詣に行き、その帰りにご先祖様のお墓があるお寺さんで手を合わせた後、ありがたいお坊さんのお説教を聴く・・・それは日本では何も不思議では無いのです。
これが宗教であるはずはありません。だから日本の「普通の」キリスト教、仏教、神道は「宗教」ではないことが判ります。もちろん、日本でも「真面目にひとつの宗教を信じている人」はおられるし、また尊敬できる方が多いのですが、数から言えば少数派です。
こんな国は世界でもそれほど多くはありません。宗教を信じる心が強い民族から見ると信じられないでしょう。でも、日本人には日本人の理屈があるのです。それは、
「神様はみな、偉い人だから、自分のようなつまらない人間が神様を選ぶことは出来ない」
ということなのです。
目の前に四大宗教があり、そのうち、どれかを選びなさいと言われると、とても困ります。それぞれの神様はとても偉く、自分がキリストが良いとか、お釈迦様にしようと決めることは到底出来ないので、ともかくクリスマスが来たらキリスト様、正月には八百万の神様、そしてお彼岸にはお釈迦様とするしかないのです。
「曖昧日本」の面目躍如といったところです。
ところで私は「日本の神道は宗教ではない」と思っています。神道の方には怒られるかも知れませんが、神道には「明確な教え」がないというのが、その第一の理由です。ユダヤ教のモーセの十戒や、イエス・キリストの山上の垂訓などのように、宗教には「教え」が必要です。
第二の理由は、神社とお寺は一体になっているからです。おそらく昔の偉い人がよくよく考えられてしたことですから、おそらく正しいのでしょう。もし、神道が「宗教」なら教えの違う「仏教」と一緒になることは出来ないはずです。
(鳥居の向こうに仏壇!?どれでも結構、何でも結構)
神道を「神教」と呼ばずに「道」を付けているのは、柔道、武道、茶道などと同じで生活の中のある行為の抽象的概念に過ぎないのでしょう。それを欧米流に「信教の自由」などというので、まったく見当はずれの議論になるのです。
時折、キリスト教の信者の方が「神社に参拝するのはイヤだ」と言われます。気持ちはわかるのですが、神社というのは「宗教ではない神」の社ですから、その中に仏教でもキリスト教でもイスラム教が入っても問題はないのです。
私たち日本人は宗教感覚がルーズなことを自嘲気味に、そして謙虚に受け止めています。「おそらくは一つの宗教を信じ、教えを守るのが正しいのだけれど・・・」と心では思っています。ですから、宗教を信じている人を日本人は尊敬し、そして自分は曖昧なのです。
でも私は日本人の方が正しいと思います。一つ一つの宗教が発生した理由はさまざまですが、自分が生まれた時にはすでに、キリスト教も、仏教も、イスラム教もありました。そして「イエス様、お釈迦様、マホメット様のうち、誰を選ぶ?」と言われても、そんな不遜なことは出来ないというのが正直なところなのです。
自分の力で神様を選べなければ、全部、受け入れざるを得ません。だから日本には宗教はない、従って、憲法第二十条は次のように表現を改めたら良いでしょう。
修正憲法第二十条
・・・特定の宗教を信じていなくても、どこでもお祈り、参拝をしてもかまわない。日本の神社は国民が宗教と思っていないので宗教施設ではない。
つづく