2.3. 「正しいこと」は衝突する
第二章の最初に、人間は自分の周囲が「正しいと思う状態」になっていると心地良い。だから「正しい」という状態を創り出すことは環境デザインの一つであると言った。そして、例えば美術なら「美しい」というのは人を惹きつけ気持ち良くさせるから、結果的に「環境に良い」。
それは「真・善・美」というように、真実、正しさ、そして美しさは人間にとって根源的なものであるため、魅力を感じるからだ。
しかし、正しいということが人によって違うと、どのようにデザインが受け入れられるかが決まらなくなる。ある宗教を信じている人にとっては、その宗教を認めるようなデザインが良いし、偉人を尊敬して道徳的に厳しい人は、そのような空間が望ましい。しかし、昔と異なり宗教や道徳が一致しない社会では、「心地良いデザイン」を決めるのは難しい。
ところで「正しさを決める方法」が5つ(神、偉人、相手、社会、自分)もあるので、時にはそれが非常に厳しい形で対立することがある。歴史的に有名な事件である「ソクラテスの毒杯」の例を考えてみよう。
ギリシャの哲学者の中でもひときわ偉いとされているソクラテスは、「人心をまどわした」という罪で裁判所から死刑を言い渡される。でも、ギリシャ社会はソクラテスのような立派な人を死刑にするのがイヤで、彼の監獄の鍵をいつも開けておいた。
ところがソクラテスは、法律で決められた正しさは自分の信念と違ってもそれに従わなければいけないと考えていた。今まで人にそう説いていたのだから自分がその立場になっても信念を守りたいと思ったのだ。さすがにソクラテスは偉い。
ソクラテスは鍵が開いている監獄から逃げずに、そのまま毒杯を飲んで死んだ。それを悲しむ弟子の姿は有名な絵画となって人の心を打つ。
ソクラテスが毒杯を受ける絵を見ると「正しさ」がいかに難しいかを感じることができる。絵画とは素晴らしいものだ。長い文章でも表現できないことを見ただけで瞬時に感じることができる。
もう少し具体的な話まで踏み込んでおきたい。
正しいということを決めることは難しいし、また個人で勝手に正しいということを決めると社会が混乱するから、日常的な社会では二つの決め方をするのが特徴である。多くの人は、次の2つが本当の「正しさ」と錯覚するが、これは「仮の正しさ」である。
一つは法律で決める。これは先ほど述べたように本当の正義ではないが、仮に正義を決めて社会全体の活動を進めるという方式である。そして、もう一つは正しさを「役割で決める」ことである。役割で決めるというのは、社会が組織化していなければ必要は無いが、組織的な社会では必要だと認められている。
例えば、会社で社長さんと社員の意見が対立すると社長さんの言うことに従う。これは一応役割で決めておく一つの方法である。時間が無限にあれば社長と社員で十分に議論して、どっちが正しいかを決められれば良いが、そんなことをしていると時間がかかって商売にならないので、能率を重視して正しいことを仮決めするという方法である。
社長の責任の方が重いと言われることがあるが、その解釈は不十分である。社長は毎日、ゴルフをして失敗しても損害は少ないが、社員はバルブ一つ間違うと大事故になるような工場の運転をしている場合もある。むしろ、「役割で決まっている」と考えた方が紛れがない。
会社に入ったばかりのサラリーマンには錯覚している人が多い。会社が終わって飲みに行き、同僚とあの上司が言うことはおかしい、間違っている、と口角泡を飛ばして怒っている人を見かけるが、仕事上のことであれば意見が対立する時に社長や上司の言うことを「仮に正しい」と決める約束なのだから仕方がない。
このように「環境」を「正しい雰囲気」とした時に、意外にそれが難しいことが判ると思う。辻さんが言われているように「良い状態を追求する」ためには「社会の表と裏」を知っていることが大切である。それは、自分が間違っていると思うことに腹を立てていたりすると視野の狭い人間となり、自分と同じ考えを持った人しか受け入れてくれないという結果になるからである。
しかし、ここに実は環境というものの持つ根源的な矛盾も潜んでいる。正しいことは時代によって替わり、地域によって変化し、世代の差が喧嘩の原因になり、役割を決めなければ決まらない・・・それが「正義」だからである。
人間は「自分」が「正しい」と思っていることが行われる環境が良い環境である。そして、人によって「正義」は違う。それなのになぜ「辻さんのテレビアニメ」は多くの人に受け入れられたのだろうか?そこに作品を作る側の注目点がある。
つづく