2.2.  「正しいこと」を知る基礎の基礎

 人間社会には「正しい事」を決める方法が5つある。

 第1番は神様が決める方法、第2番目は偉人、第3番目は「相手」が決める方法だ。そして、第4番目が社会、最後に、あまり決めるというのが適当かどうかは分からないが、「自分で決める」という方法である。

 神様は人間より偉いから、人間が正しい事を決めるより神様に決めていただいた方が良いと考えるのはごく自然である。そこで、イエス・キリストやお釈迦様がお話しになったことを「正しい」とする。

 神様がお話しになったことが自分では違っているように感じられても、神様が言われたのだからと納得する。つまり自分の判断を入れない。

 しかし、実際には神様がお話しになったことをそのまま聴けるわけではないので、神様の言葉をある人間が聖書や教典に書いて後世に残す。だから本当に神様がその通りおっしゃったのか、それとも違っているのか議論になることもある。

 次に、昔から「道徳」と言われているもののほとんどは偉人が言ったものから取られている。神様がおられるかどうか判らないし、宗教が違うと、なかなか「正しいこと」を統一できない。そこで、「この人は偉い」とみんなが共通して思う人が言ったことを正しいとする。これが道徳である。

 例えば、親に孝行しなさいとか、学校では一生懸命勉強しなさいとか、他人に迷惑をかけてはいけません、というような基本的な道徳はだいたい偉人が決めてきた。

 最近まで、この決め方でほとんど問題無いと思われていたが、悪用する人も出てきたので最近では「道徳」という言葉自体があまり好まれなくなった。ただ人間社会にとっては「道徳」が社会を安全な状態にしてきたという歴史的な事実がある。

 3番目は「倫理」である。「倫理」とは何かというのは難しく、いろいろな議論があるが、ここでは頭の中をすっきりさせるために、「倫理とは正しい事を相手が決めるもの」と定義をして話を進めて行く。

 正しいことを神様が決めるのが宗教で、偉人が決めるのが道徳、相手が決めるのが倫理とすると整理がしやすい。倫理には黄金律というものがある。
1) 相手がして欲しいことをしなさい
2) 相手がして欲しくないことはしてはいけない
という二つであるが、いずれも「相手に聞く」行為が含まれている。

 「約束を守る」というのも倫理の一つである。約束というのは相手と自分の間で合意したことだから、あらかじめ相手に聞いたことをすることになるので倫理の中に入れるのが良いだろう。

 4番目は単に法律で決めていくということである。実はこれが芥川龍之介の言う「左側通行」である。

 学校で一生懸命勉強しなさいとか、人に迷惑をかけてはいけないと言うのは、道徳のようでもあるし倫理ともいえる。このような道徳は時代を越え、人種を越えて普遍的だと思うけれど、そうではない。例えばギリシャ時代は哲学や倫理が盛んで、また進歩したが、市民の多くは奴隷だった。

 奴隷というのは殺しても生かしても良いし、第一、人間として取り扱かわれないのだから、現代では道徳的にも倫理的にも許されない。ギリシャで正しいことが現在では間違っているのだ。

 このことから、正しいということはもともと相対的なもので、時代を越えたり地域を越えたりして通用するものではないと考えることができる。これが芥川龍之介の「道徳は左側通行」という意味である。

 そこで社会の混乱を避けるために、「これをしてはいけない」ということを決めておこうというのが法律である。例えば、人を殺してはいけない、人を騙してはいけない、ということを決める。法律で決めておけば、人を殺すことが良いことかどうか、人を騙すことは良いかではなく、殺人罪、詐欺罪になるだけで、それで社会の安全を保つ。

 そうなると、法律と道徳との関係が問題になる。

 ある人は、「その社会で道徳的に正しいと思っていることが法律になるから、道徳と法律は同じだ」と言うし、全く反対に、「法律というのは単なる決まり事であって、正しいということとは関係が無い」という説もある。

 一般的には、法律は「正しいか間違っているか」ではなく、社会での生活をトラブル無く進めるために仮に決めたという考えが主流である。例えば、右側通行でも左側通行でも良いのだが、一応左側通行と決めておけば、自動車の正面衝突を避けられるというただそれだけの事になる。

 ところが、最近、もう一つ方法が出現してきた。それは「自分で正しいことを決める」という方法である。その典型的な発言が「お前は間違っている」というものだ。

 「お前は間違っている」と言う限りは、相手と考え方が違うということだから、相手も「お前は間違っている」と言うだろう。つまり、お互いに正しく、お互いに間違っていることになる。

 自分が正しい事を決めるということはこのように矛盾を生じるので、歴史的にはあまり使われなかった。でも、最近では多用される。その原因は二つあると考えられる。

 一つはオルテガ・ガセットが著書「大衆の反逆」で書いているように、近代科学が多くの人たちに豊かさを与え、その結果、自信をつけた大衆がそれぞれ自分が正しいと主張するようになったということである。

 もう一つは、宗教が衰退し、道徳が権威を失い、倫理がはっきりしなくなった社会では、法律で決めること以外は自分で決めなければならなくなったとも考えられる。

 そうすると正義の数は人口の数だけ存在するという奇妙なことになる。そしてそれを実行に移すことも社会現象になる。現代社会の混乱の一つにこのことを考えなければならないだろう。

つづく