2. 環境とはなにか (正しいこと)
第二章は、作品と環境を考える場合に、快適な環境とはその中にいる人が正しいと思う環境であり、間違っていると思う環境は悪い環境であると仮定してみたいと思う。誰でもそうだが、自分が「正しい」と思うことが周囲で行われていると気持ちが良いし、自分が「間違っている」と思うことなら嫌であり、時には腹が立つ。
だから「環境」は、地球が温暖化するとか、空気がきれいだとかゴミが少ないということ以外に、「自分が正しいと思っていることが周囲にどのぐらいあるか」も決め手になる。そこでこの章では「正しいということはどういうことなのか」について考え、それを通じて「クライアントの快適な環境」について思いを巡らせたい。
2.1. 成功している人の考え
まず「正しい」ということを正確に知っているので、その結果として作品が広く世に受け入れられて成功したという人の例を見てみたい。その人は、辻 真先さんで、非常に有名な脚本家だから多くの学生が知っていると思うが、彼は漫画や小説などで圧倒的な実績を上げている。では、彼は果して「正しい」ということをどのように考えているのだろうか?
私が把握している辻さんの活動は1963年頃からだから、今から40年前にさかのぼる。その頃の彼の作品としては、例えば、エイトマン、鉄腕アトム、おばけのQ太郎。ジャングル大帝、巨人の星、サイボーグ009、ゲゲゲの鬼太郎、魔法使いサリー、パーマン、忍者ハットリくん、サザエさんなどだ。
どれをとっても、日本社会全体に影響を及ぼしたと言っても良いようなアニメや漫画ばかりである。
辻さんの活動は1970年代になっても盛んで、ど根性ガエル、天才バカボン、デビルマン、勇者ライディーン、一休さん、ユニコ、うる星やつらなどが有名である。
このような活躍をした辻さんの人生哲学の第一は、「大人を信じちゃいけない」というものだった。辻さんは太平洋戦争の時にちょうど中学生だったが、ある社会科の先生が辻さんたちに「日本は負ける」と教えた。それまで、戦争に負けるなどと考えてはいけないと教えられてきた中学生達はその先生を「非国民、殺す」と息巻いたそうだ。
それからしばらくして日本が本当に戦争に負けると、その良心的な先生は「今まで間違ったことを教えていた」ことを詫びて学校をお辞めになり百姓になった。しかしその他の先生はみんなそのまま学校に残ったそうだ。
戦争中に、中学生に特攻隊へ志願するように勧めてきた先生方は、多くの教え子を特攻で失ったにもかかわらず、ほとんどの人が天寿を全うした。そのことに辻さんはたいへん大きなショックを受けたという。
この経験が辻さんの最初の人生訓になる。大人というのはこんなもんだ、偉そうなことを言っている人ほどいい加減であるということを知ったのである。
大人がすべていい加減であるということではないが、辻さんがそのように思っていたことが後の作品に色濃く出てきたことも確かである。多くの人は、戦争中には「特攻に行け」と言い、戦争が終われば翌日から「平和が尊い」と言う。素早く変身できるのだ。
ところが、魂のある人はなかなかその変身が難しい。普段から自分の言葉で表現し、自分の意見を言っているので、それを直ちには変えられないのである。
辻さんが大成功を収めた裏には、一つ一つのことを自分の目で見て、自分の頭で考えていたことがあったのだろう。そして、社会科の先生の行動に対する辻さんの感受性もあるだろう。
その辻さんは、正義というものについて次のように言っている。
「ブッシュもビンラディンもどちらも正義なんだろうし、どちらも悪なのだ。声の大きい方とか自分の耳に届く方だけを正義と思うのが普通だけれどそれは間違いだ。そんな当たり前のことは当然だけども、なかなか学校で教えてくれない。つまり世の中に表と裏があるということ自体を教えてくれないのだ。それが正義というものを見間違う原因になる。」
辻さんは「デビルマン」という作品の中で、日本の陸軍上等兵が中国の南京攻略に行った時、一人の中国人の娘に惚れて日本を裏切るという物語を書いている。文章で表現すると悪い人でも、アニメという社会ならこのことを通じて子供達に人間の社会の持つ表と裏を教えることができる。
芥川龍之介が「侏儒の言葉」という格言集の中で、「道徳とは左側通行のようなものだ」と表現している。辻さんもこの言葉を引用して「正義というのは左側通行だから」と言っている。では芥川龍之介や辻さんが言っている「正義というのは左側通行だ」というのはどういう意味だろうか、それを次の節から考えていく。
そしてもう一つ頭に入れておいて欲しい。それは「正義が多様である」「正義に基づかないと良い環境ができない」という矛盾した状態を解消できるかという点である。つまり、人間は自分が正しいという環境に居なければ居心地は良くない。かといって、人によって正義が違うのだから、万人に気持ちの良い環境を提供することは不可能である。
そうすると「公共施設で良いデザインはできない」ということになる。これは本当だろうか?
つづく