地球温暖化について、少し長い時間の変化を調べたついでに、さらに長い時間を見てみたい。
生物が誕生した頃は37億年前で少し遠すぎるので、生物が爆発的に増えたカンブリア紀(古生代)からの気温を下のグラフに示した。増田先生の著述物から頂いた記憶があるが、引用元はあまりハッキリしない(拙著「自然科学の著作権」参照のこと)。
生物は地球が暖かくなると繁殖し、寒くなると絶滅する。今から7億年ほど前、地球は寒かった。ところが6億年前に急に暖かくなり、今の気温より20℃も高かったと考えられている。それが「古生代」の始まりになった。それから2億5千万年ほど暖かい気候が続き、生物は大いに繁栄したが、ついに第一回の氷河時代が来た。それが古生代の終わりを告げる大絶滅となり、時代は変わる。
生物の95%の種が絶滅したという古生代の終わり、すべてはリセットされて新しい生物が誕生して中生代が切りひらかれる。また気温は急上昇して今より15℃も高くなる。そして、恐竜の出現である。恐竜というのはあれほど大きな体をして地球を支配しながら2億年も生きた。生物でも人間でもあまり繁栄すると長くはない。太く短くか、細く長くしか生物は生きることができないようである。
そんな中で恐竜は特別に優れていたのだろう。太く長く生存した。その恐竜はどうも寒くなって滅びたのでは無いらしい。突然、空から巨大隕石が降ってきてそれで滅びた。「巨大」と言っても直径10キロメートルの隕石がメキシコ沖に落ちただけである。
地球の直径が13000キロメートルだから、その1300分の1である。巨大というより「微小な隕石」と言った方が良い。だから地球はびくともしないのだが、あの恐竜は全部、死んでしまう。地球と生物とはそれほど違うのだ。間違っても「地球に優しい」等と傲慢なことを言ってはいけない。
「先生、そんなこと言ったって、われわれの時代に隕石なんか関係ないですよ」
と言うかも知れないがそうでもないのだ。
今から約100年前の1908年、シベリアのツングースカに隕石が落下した。幸い、大きさがそれほど大きくなかったことと、陸上に落下したこと、さらにシベリアというほとんど人の住んでいないところだったこと、という3つの幸運が重なって大事には至らなかった。
でも半径20キロメートル以内の木は全滅していたので、「もし、この隕石が東京の新宿に落ちていてたら・・・」とすると、東は上野から三鷹まで、北は赤羽から川崎までほぼ全滅だ。一説によると爆発力は15ギガトンと言われるが、少し大きめの計算かも知れない。
もっと最近では1975年にアメリカの上空をかなり大きな隕石が通過したが、これはニアミスで遙か上空をかすめて宇宙へ飛んでいってくれた。そんなこともあった。
劇的な衝突があったのは地球ではなく、木星。それは1994年7月のことである。シューメーカー-レヴィ第9と名付けられたこの彗星は木星に向かって突進し、衝突した。かなり大きな隕石だったので、軌道も計算でき、衝突の時間も判っていた。世界の宇宙科学者の見守る中、木星に衝突した。その連続写真が下である。
衝撃は、あの巨大な木星のかなりの部分におよび、それが地球からも見えたのである。木星の直径が14万キロ、それに対して地球が1万キロちょっとだから10倍以上だ。地球から見える木星の衝突の衝撃の大きさはちょうど、地球全体ぐらいだったのだからすごい。この彗星が木星に衝突してくれて、地球に来なかったのが幸いだった。
話が少し脱線してしまったが、ともかく隕石はときどき降ってくる。地球の周りを回っている月は空気が無いから隕石が小さくならずに直接、月に衝突する。だから月の表面には隕石の衝突の後がクレーターになって無数にある。月の表面の写真を見ると隕石というものがいかに多いかがよくわかる。
3億年ごとにやってくる地球寒冷化、そして2600万年ごとに落ちてくる巨大隕石、それは古い生物にとっての最後を意味し、新しい生物には夜明けを与える。
地球温暖化の話も佳境に入ってきた。環境省は「地球温暖化についてあまり議論して欲しくない」ということを言っているが、環境は環境省のものではなく、広く国民のものだから、ドンドン勉強し、いくらでも批判して良い。
ところで、古生代の終わりに地球が寒くなり、ほとんどの生物が絶滅した後、恐竜が出てきて2億年も繁栄したが、やがて隕石が落ちてきて絶滅したところまで話は進んだ。
・・・かくして恐竜は滅びた。そしてその後に我々の祖先である哺乳動物が出現するのだが、私は隕石が降ってこなくても早晩、恐竜は滅びただろうと思っている。
「生物はもともと絶滅する」という原理原則がある。
恐竜は動物の中では2億年近くも生き続けたという点では大変に長寿の種で、その点からなかなか優れた体と習慣を持っていたのだろうと思う。そんな恐竜でも生存競争に勝つためには何かを「改善」していかなければならない。手っ取り早い改善は「体を大きくすること」だ。
この絵は中生代の最初に登場した小さな恐竜から、絶滅寸前の巨大恐竜までの体の大きさを忠実に再現している。時代と共に体は少しずつ大きくなっていっているのがよくわかる。体が大きくなれば、他の動物と戦う時に断然、有利である。だから恐竜が生き延びるためには、体は徐々に大きくならざるを得ない。
でも、体が大きくなるのは良いことだけではない。それだけ食べるものが多くなる。四六時中、食べていなければならないし、大きな体の隅々にまで栄養を行き渡らせようとすると強力な心臓から高い圧力で血液を送らなければならず、そうするとその高い圧力に耐えられるような強固な血管壁がいる。コレステロールなどがたまって動脈が硬化してしまえばひとたまりもない。
かといって、血の流れを緩くすると体の隅の防御システムが崩れてたちまち細菌が繁殖し、組織は壊死する。体の大きい恐竜はそれなりに辛い思いをしていたのである。
この世に「よかれ」と思うことで本当に「良い」というものは無いように思える。1時間だけ良いことは1年後には悪くなるし、1年だけ良いものは一生を考えると害になる。また一人の人の人生にとって良いことはその民族を滅ぼすことになり、そしてそれが最終的には種を絶滅させる。
人も動物も、また自然すらも「今を良くすること」「持続性をもたせること」の二つを同時に満足させることは不可能である。だから、自分の人生観に沿ってどちらかを選択する。「今が良ければよい」と考えれば持続性を放棄せざるを得ないのである。
恐竜は戦いに勝つために体を大きくする。それによって地上を支配した。でもそれは恐竜という種の寿命を短くし、ちょっとした気象の変化にも耐えられなくなっていくのである。
もう一つはさらに深遠な内容を含んでいる。
この世で「同じ事が続く」ということは無い。宇宙は150億年前に誕生して、150億年後に消滅する。太陽系は50億年前に誕生して80億年後に大爆発して終わる。川は小さなせせらぎから始まり、やがて壮年期には大河になるが、川が流れるということは砂を運ぶということであり、砂を運べば川はなだらかになり、やがて老年期を経て死ぬ。生命を持たないと思われる川ですら誕生し、成長し、繁栄し、老化し、そして死ぬのである。
砂を運ばない川が無いように、すべてのことはその活動の中に死を含んでいる。「同じ事」は続かず、永遠の繁栄、永遠の幸福はない。繁栄も幸福も瞬間的にしか与えられない。
それが、種が絶滅する本当の理由である。
つづく