― 茶髪主義 (5) 宗教というもの ―
明治のはじめ、日本には大量のヨーロッパの学問や思想、生活様式が入ってきた。まさに
「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」
ということだった。
その中に「信教の自由」という概念があり、それはもちろんヨーロッパの「信教」とヨーロッパの「自由」という考え方から成り立っていた。第二次大戦後、日本国憲法はヨーロッパ文化の考え方をそのまま受け入れて条文を作った。
日本国憲法第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
「信教の自由」という用語を日本のインテリは
「ヨーロッパの文化は正しいので、日本の伝統的な意味での「信教」がどういうものかは吟味する必要がない。我々は茶髪主義(白人の方が偉い)なのだから」
ということで、
「信教の自由を守らないといけない。首相の靖国参拝は憲法違反だ」
というような論理になってしまった。
日本文化の中における「宗教」にはヨーロッパの「血なまぐさい宗教」という概念は、まったくない。ヨーロッパの宗教というのは一言で言えば次の情景で代表される。
16世紀、ヨーロッパの近世はキリスト教の内部対立の歴史であり、新教徒と旧教徒が絶え間ない戦争と殺戮を行っていた。その代表的な事件が、1572年8月24日、フランスのパリを中心に起こった「サン・バルテルミの虐殺」である。
そのころのフランスは「ヴァロア朝」の時代であった。ヴァロア朝の当主、アンリ二世は1559年7月、馬上の試合でモンゴメリーの槍を受けて負傷し、急死する。一国の王が闘技会に出場して、槍で倒れるのであるから、現代ではなかなか理解できないことである。
そのあとフランソワ二世が継ぐがまだ15歳で、おまけに病身でありとても政治は執れない。政治は母后カトリーヌ・ド・メディチが実権を握る。その病身のフランソワ二世は翌年にはこの世を去り、そのあとまだ10歳のシャルル九世が王位を継ぐ。
フランソワ二世は毒殺ではないかと言われている。当時のフランスで政治上の理由で王様が毒殺されるのはさほど珍しいことではなかったが、その下手人が実の母親であるカトリーヌであるとされているところが、これも理解できないことである。シャルル九世の肖像画は本当の年齢よりずっと老けて書かれているが、10歳で王位を継ぎ、24歳で王位を去っている。
カトリーヌ・ド・メディチはその名の示すとおりイタリアのフィレンツェからアンリ二世の王妃としてフランスに来た人で、女性としては堂々たる体格を持ち強い性格であったと言われている。それでも「女性」としての性質は強く、歴史上、権力を握った女性がすべてそうであったように、特に肉親に対する感情は強かった。
自分の子どものシャルル九世がその妻、マリーの出身であるギュイーズ家に心を寄せることだけで、お姑の怒りに狂っていたのに加えて、ギュイーズ家の関係者である天才コリニー提督に息子が夢中になるに及んで我慢ができなくなった。
シャルル九世には政治力は無かったが、若く、豪放で、勇み肌であったので、当時の軍で信望の厚かったコリニー提督に惹かれたのは当然であった。シャルルはコリニー提督と組んでスペインを攻略しようと計画していた。
カトリーヌはその当時、摂政であり、スペイン攻略などという作戦にはとても賛成できなかったし、もともと女性としての性質が強かったカトリーヌはフランスがスペインと戦争したら、どんなにフランスの財政が逼迫するか、と心配でならなかった。そのうえ、コリニー提督は憎い嫁の実家系の人間である。
彼女は個人的な感情を抑えることができなかった。まず、カトリーヌは憎らしいコリニー提督の暗殺を計画、フランソワの息子、自分の孫のアンリ・ド・ギュイーズにコリニー提督を狙撃させる。彼の発した火縄銃は提督の腕をかすっただけで、目的は達成されない。
絶望とヒステリーの中で、ついにカトリーヌは1572年8月24日、折しも反対派の結婚式でパリに集まってくる新教徒の虐殺を命令したのだった。
24日の深夜1時半、サン-ジェルマン寺院の鐘の音を合図にいっせいに殺戮が始まる。カトリーヌの軍隊は、あらかじめ用意した「新教徒の家のリスト」を片手に持って、片っ端からその家に乗り込み、子どもであれ、老人であれ、皆殺しにした。
この虐殺は歴史的にも有名な虐殺、世界最大級の虐殺で、パリではコリニー提督をはじめ4000人、フランス全土で1万人が一夜にして殺された。
日本国憲法で定める「宗教」とはこういう宗教である。なぜなら、ヨーロッパの宗教の自由はこのような事件を繰り返した反省から作られたものだからだ。
日本にはこのような宗教は無かった。日本人の宗教観は私たち自身が日本人なのでよく知っているが、神様、仏様、孔子様、イエス様はみんな同じだ。もしイスラム教が日本に早く入っていたらマホメット様も同じく日本人は尊敬するだろう。
日本人はヨーロッパ人のような宗教観を持っていない。偉い人はみんな偉い人であって、神様、仏様、イエス様、孔子様、そしてマホメット様がお互いに喧嘩するとか、どちらかがウソでどちらかが本当などと自分で判断するほど傲慢ではない。
その証拠を二つ挙げる。
明治維新になるまで、神社とお寺の区別はなかった。お寺には神社があり、神社には仏様が祀ってあった。証拠は山ほどあるがその一例を写真で示しておく。お寺の正面が鳥居の写真である。
現代でもそうである。私たちは12月24日には、神棚の横の仏壇の横にクリスマスツリーを飾り、ピアノの音と共に「清しこの夜」を唱い、その日だけは十字を切る。12月26日になるとお正月の準備を始め、神棚を綺麗にしてしめ縄を張り、12月31日には初詣に出かける。
元旦。日本人はまず神棚に参拝し、その隣の仏壇にお参りしてご先祖様にお線香を上げる。違和感なし。でも、これはヨーロッパ人に言わせると宗教ではない。
その通り。日本にはヨーロッパで言うような「血なまぐさい宗教」は無い。だから日本国憲法で定める「信教の自由」というのはヨーロッパ流で解釈するのではなく、別の解釈が必要なのである。日本は日本の概念で信教の自由を決めるべきである。
つづく