中世のヨーロッパ
16世紀、ヨーロッパの近世はキリスト教の内部の対立の歴史であり、新教徒と旧教徒が絶え間ない戦争と殺戮を行っていた。その代表的な事件が、1572年8月24日、フランスのパリを中心に起こった「バルテルミの虐殺」である。
そのころのフランスは「ヴァロア朝」の時代であった。ヴァロア朝の当主、アンリ二世(1547-1559)は1559年7月、馬上の試合でモンゴメリーの槍を受けて負傷し、急死する。一国の王が闘技会に出場して、槍で倒れるのであるから、現代ではなかなか理解できないことである。そのあとフランソア二世が継ぐがまだ15歳で、おまけに病身でありとても政治は執れない。政治は母后カトリーヌ・ド・メディチが実験を握る。
病身のフランソア二世は翌年にはこの世を去り、そのあとこれも十歳のシャルル九世が王位を継ぐ。フランソワ二世は毒殺ではないかと言われている。当時のフランスで政治上に理由で王様が毒殺になるのはさほど珍しいことではなかったが、その下手人が実の母親でもあったカトリーヌであるとされているところが、これも現代の常識では、なかなか理解できないことである。シャルル九世の肖像画は本当の年齢よりずっと老けて書かれているが、十歳で王位を継ぎ、二十四歳で王位を去っている。
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カトリーヌ・ド・メディチはその名の示すとおりイタリアのフィレンチェからアンリ二世の王妃としてフランスに来た人で、女性としては堂々たる体格を持ち強い性格であったと言われている。それでも「女性」としての性質は強く、歴史上、権力を握った女性の多くがそうであったように、特に肉親に対する感情は強かった。自分の子どものシャルル九世がその妻、マリーの出身であるギュイーズ家に心を寄せることだけで、お姑の怒りに狂っていたのに加えて、ギュイーズ家の関係者である天才コリニー提督に息子が夢中になるに及んで我慢ができなくなった。
シャルル九世は政治力は無かったが、若く、豪放で、勇み肌であったので、当時の軍で信望の厚かったコリニーに引かれたのは当然であった。シャルルはコニリーと組んでスペインを攻略しようと計画していた。カトリーヌはその当時、摂政であり、スペイン攻略などと言う作戦はとても賛成できなかったし、もともと女性としての性質が強かったカトリーヌはフランスがスペインと戦争したら、どんなにフランスの財政が逼迫するか、と心配でならなかった。そのうえ、コリニーは憎い嫁の実家系の人間である。
個人的な感情を押さえることができなかった。まず、カトリーヌは憎らしいコネリー提督の暗殺を計画、フランソアの息子、自分の孫のアンリ・ド・ギュイーズにコリニー提督を狙撃させる。彼の発した火縄銃は提督の腕をかすっただけで、目的は達成されない。絶望とヒステリーの中で、ついにカトリーヌは1572年8月24日、折しも反対派の結婚式でパリに集まってくる新教徒の虐殺を命令する。
24日の深夜1時半、サンージェルマン寺院の鐘の音を合図にいっせいに殺戮が始まる。カトリーヌの軍隊は、あらかじめ用意した「新教徒の家のリスト」を片手に持って、片っ端からその家に乗り込み、子どもであれ、老人であれ、皆殺しにした。この虐殺は歴史的にも有名な虐殺、世界最大級の虐殺で、パリではコネリー提督をはじめ4,000人、フランス全土で10,0000人が一夜にして殺された。
このパルテルミの虐殺はレオナルド・ダ・ビンチの死後、8年目の出来事であり、ヨーロッパが中世から近世に代わる産みの苦しみでもあった。
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現代という枠組みの中で我々は日々、小さなことに呻吟しているが、人間というのはもっと長い歴史の中で辛いことを経験してきている。自分が今、悩んでいることと違う時代に生きた人のことをかいま見るのも解決の一つとなる。