3. 工学倫理に関係する事例研究
3.1. スペースシャトル・チャレンジャー号
3.1.1. 事故の経過
スペースシャトルは、オービターと燃料タンク、二つの固体ロケットブースターから構成されている。オービターは翼があり、高さ17m、長さ37m、翼の長さは24m、重さは85トン、スペースシャトル全体は高さ23m、長さ56m、総重量約2000トンである。オービターの中央部分は、ペイロードベイで、人工衛星などが打ち上げられる。2基の固体ロケットブースターは燃料タンクの両脇に取り付けられていて、打ち上げ約2分後にシャトルから切り離され、パラシュートで海面に落下。回収後、再利用される。燃料タンクは、打ち上げに必要な酸化剤と燃料、液体酸素と液体水素が収納されており、これらはオービターのメインエンジンで燃焼する。8分後燃料タンクは切り離され、大気圏で燃え尽き再利用されない。オービターは軌道修正後、地球周回軌道に入る。帰還時には、地球の周回軌道を離れて大気との摩擦で減速し、最後はグライダーと同じように滑空して着陸する。
図 2 始めて打ち上げられたスペースシャトル・コロンビア号の準備(左)と打ち上げ(右)
スペースシャトル(コロンビア号)は1981年4月12日にはじめて打ち上げられ、地球周回軌道に到達した。1983年11月11日には実用飛行が可能になり、スペースラブ(宇宙実験室)をはじめて打ち上げるなど宇宙開発の中心技術として順調に進んだ。一方、同じスペースシャトルのチャレンジャー号は1983年4月4日に最初に打ち上げられ、その年の8月30日に夜間打上げ、夜間着陸にも成功した。
悲劇は常に突然やってくるが、1986年1月28日、女性の高校教師、クリスタ・マコーリフさんらを載せたチャレンジャーが打ち上げられ、73秒後に爆発して7人の搭乗員全員が死亡した。この事件はスペースシャトルという最新の技術を駆使した空の事故であり、テレビ生中継され、搭乗員の肉親が現場で目撃するということもあって全世界の注目を集めた。
図 3 爆発したチャレンジャー号(左)と搭乗していた高校教師の家族(右)
事故の1年前、ブースター・ロケットの製造を担当していたモートン・サイオコル(MT)社のボイジョリーは別のシャトル打ち上げ後の検査で、黒くこげた大量の油を見つけた。これはブースターのOリングから燃焼ガスが漏れたことを意味していると考えられ、2次シールからも漏れると燃料タンクに火が付き、爆発すると予想された。ボイジョリーはそのことを上司に報告してから宇宙飛行センターに行き、NASAの担当者に打ち上げ時の気温が低かったためシール効果が低下したのではないかと警告した。NASAはMT社に詳細調査を依頼し、検討の結果、温度が低くなるとシール性が低下することがわかり、さらに4月打ち上げ後の検査でもシールの不良が確認された。そのため、7月の打ち上げに向けてMT社はNASAに試験結果を報告したが、可能性があるという程度と認識し、それよりすでに何回か打ち上げに成功していることを重視したので、問題を基本的に解決する行動はとらなかった。
ボイジョリーは、問題に対処しなければシャトルは爆発するという自分の意見をメモにし、上司のサインをもらった後にMT社技術担当副社長ルンドに送った。


チャレンジャー打ち上げ前日、ボイジョリーは-8℃という天気予報に驚きルンド副社長に会って打ち上げ延期を進言した。副社長は彼の理由を理解しMT社とNASAを結ぶテレビ会議が開かれた。ボイジョリーは自らの考えを述べ12℃以下では打ち上げるべきでないと言った。
NASAはMT社ブースター担当副社長キルミンスターに意見を求めた。彼は中止をせざるを得ないと述べ、NASAの多くの責任者はMT社が反対するなら打ち上げないという意見になった。しかしその後、NASAの中に異論がでて、シール性をテストしたデータは打ち上げを中止するほどの決定的なものではないと言うことになった。そこで、キルミンスター副社長はMT社に持ち帰ったが、MT社のメイソン上級副社長は「打ち上げたいと思っているのは俺だけか」と怒鳴り、ルンド技術担当副社長には「技術者の帽子を脱いで経営者の帽子をかぶれ」と叱る。(この瞬間が技術者が専門家か、あるいは雇用人かの分かれ道であった。) 再度、NASAに連絡が取られ、キルミンスター副社長はNASAに打ち上げ準備続行を勧告した。
【技術的概要】
固体ブースタは4つの大きなパーツから構成されているが、巨大な質量と、打ち上げ時に複雑な応力や急激な温度変化が生じるので、パーツ間の継ぎ目部分が歪んで隙間が生じることが予想される。このため合成ゴム製のOリングを継ぎ目に挿入し、歪みはゴムが吸収するように設計されていた。合成ゴムは低温では固くなる。だから、通常の気温では支障はないが寒波が襲来すると、寒風が吹きすさぶ発射台に置かれた機体は冷える。チャレンジャー号の場合、継ぎ目部分の温度は-0.6℃に達していた。この結果、Oリングはシールの能力を失っていた。また合成ゴムの低温特性をカバーする為の構造上の設計はされていなかった。
【政治的状況】
NASAは外部からの政治的圧力で、打ち上げを強行せざるを得ない状態に陥っていた。大統領がその打ち上げの日の夜に年頭の教書を読むはずになっており、その中でチャレンジャー号について言及する予定だった。一方、議会の方では宇宙関係の予算がどんどんカットしており、チャレンジャー号の打ち上げがすでに3回も延期になっていることもあって、NASAは焦っていた。だから、MT社が延期を求めてきても、それにすぐ同意できない。ついに、NASAはMT社に対して「それなら、打ち上げは安全でないということを証明せよ」というような非科学的な要求をするまでに至った。NASAのこの要求を「非科学的」と表現したことについては後に詳しく解説をするが、科学は得られたデータについてなにかを証明することはできず、ある解釈を加えることができるという意味である。
3.1.2. この事件で一般的に工学倫理の領域で問題にされること
このスペースシャトルの事故はその後、工学倫理、技術者倫理の典型的な研究課題として取上げられ、多くの議論がされている。そのうちの代表的なものを示す。
3.1.3. 内部告発はできなかったのか?
(問)ボイジョリーはOリングの問題について公にし、打ち上げを延期せさることはできなかったのか。技術者としてそこまでする義務があったのではないか?
(一般的な答)技術者が社会的責任をはたす上で内部告発は一つの選択肢になるが、それは技術者が属する企業が「非常識に」対応した場合に限定される。この場合は、上司、担当副社長などは十分な理解を示し、企業全体で判断するまでに至っている。一技術者としての行動としては満足すべきである。また、内部告発をするとその技術者は企業の内部で不利な立場にたたされ、企業にも大きな損害を与える。特に、「過去のこと」ではなく、「将来の予測」においては慎重であるべきだ。
3.1.4. アメリカの一般的な倫理基準との関係は?
(機械工学を専門とする者の倫理)
米国機械学会の倫理規定の冒頭には、工学者が「自身の専門的職務の中で、公共の安全、健康、福祉を第一に考えること」を強く求めるとされている。
(一般論としての技術者倫理)
個人の価値観と企業組織、あるいは社会からの要求とが衝突してして葛藤が起こることがある。その時には技術者個人が、自分は究極的には誰のために、何のために働いているかを考え、自らが決断を下す。また、技術者は雇用契約をしている自分の企業に対する忠誠心も必要で、一般的には技術的目的を達成するために全力を尽くすことが望ましい。この時の判断基準は「自らの専門性から判断して、自分の行為が社会に直接的な悪い影響を与えないか?」ということである。MT社のメイソンがルンドに発言した内容はそれ自体で矛盾していないか?
3.1.5. 未知の技術の予測はできるのか?
この事件は過去が問われていたのではなく、どうなるか?という未知の領域であった。例えば、日本で起きた水俣病(本著第5章)のようにすでに障害者が発生し、そのことが何に原因しているのかという場合とは異なる。特に、先端的な技術の進展に、絶対的確実性を求めることはできず、常にリスクと不確実性が存在する。そして、そのリスクの大きさをあらかじめ確実に知ることはできない。また、リスクの許容範囲も専門家集団に応じて経験的かつ主観的なものである。
その点からチャレンジャー号の事故は予見することができたか?このことは深く事実を調べなければならないが、予見可能であった、というのが一般的な見解である。
3.1.6. より深く考える
1) チャレンジャー号の事故は衝撃的なものだったが、犠牲者は7名で、自然が影響を受けた規模も大きくなかった。技術的な判断ミスで不幸にして事故が起こった場合の倫理を考える上で、一人の犠牲者でも10万人でも同じだろうか?また、大統領が注目したり、議会や関係者が多かったり、またテレビで放映されていたなど「注目されること」と、あまり注目されていない「隠れていること」とは同じ結果でも、倫理的な重みは違うだろうか?報道されない被害者は無視されるのか?
・・・社会全体が受ける影響という点では被害者の数の大小が問題となり、特定の被害者から見ると、一人の苦痛は同じである。基本的には技術者はマスコミが大きく取上げたかどうかなどに因らずに自らの判断をするべきであろう。特に最近ではマスコミの影響が大きいが、技術者はその専門性から判断すべきであり、社会とは一線を画す意識が大切である。
2) 日本の多くの技術者は企業に雇用されている。この場合も、MT社の技術者が「会社内の業務」を行なっていて、任務について誠意を尽くし、危険性について上司に十分に説明している。会社に組織があるのは、このような場合、組織的に判断することが求められているのだから、それで十分ではないか?その技術者は会社との雇用契約の時に、このような場合についてどのような契約をしているのだろうか?また日本のように契約社会では無い場合には、企業の経営陣と雇用者はどのような役割分担を暗黙に認め合っているのだろうか?
・・・上司の命令で業務を行なっている場合、業務遂行に自由が無い場合には、その技術者には専門性が無いと判断される。一方、普段から「私は技術者としてこのように考えます。その件に関しては一歩も譲りません」という発言をして、それを上司が尊重してくれるような風土の場合には、本人の専門性が発揮されているので、倫理的責任も技術者個人に求められる。行為と責任、職業の専門性については本著の後の章にまとめてある。
3) もし、チャレンジャー号がたまたま無事に飛行でき、次の飛行までに不具合の修正が行なわれた場合、ボイジョリーはどうなっていただろうか?事故が起こったから表彰されたが、事故が起こらなければ「つまらないことを言って会社に損害を与えた男」ということになるだろう。
このような事故は確率的に起こる。「飛行の安全確率」が95%以上(20回飛行しても墜落の可能性が低い)とすると、Oリングの破損確率が80%であれば技術者は飛行に反対しなければならないが、それでも5回に4回は無事である。チャレンジャー号を含めて多くの場合、確率を定量的に示すことはできないので、技術者はジレンマに陥ることになる。
つまり、人間の行為はその人の決定に因って決めるか、組織あるいは集団の場合はその人の普段からの信用によって決定される。後の章に整理するように専門性のある行為の判断は個人に委ねられるべきであり、チャレンジャー号のOリングの破損は、それが現実に起こると起こらないとにかかわらず、ボイジョリー個人の判断だけを優先するべきである。
4) スペースシャトルの最初のものはコロンビア号と名付けられ、事故機はチャレンジャー号という名前であった。いずれもアメリカでは「開拓、挑戦」という意味を持っており、危険であるのは承知の上である。事実、2003年にもコロンビア号が耐熱タイルの破損で墜落した。
スペースシャトルが冒険性を持っているとすると、技術的にはどの程度の危険性をもって中止するべきであろうか?もし民間の旅客機ほどの安全性を要求するなら、冒険という名は無くなるし、宇宙飛行士は尊敬されないかも知れない。
【脱線・・・コーヒータイムの話題: 冒険と組織】
1927年、リンドバーグが太平洋単独飛行に成功した時、アメリカはもとより先進国の多くの人は驚喜した。それが当時、大西洋を単独飛行でわたることが未来を開く重要な意義を持っていたと同時に、その行為がとても「危険」であり、それが冒険だったという意味もある。安全な飛行なら感激は薄い。人間のもつ「勇気を称える」ということと「技術的な安全を確保する」というのはどのような関係にあるのだろうか?
図 5 リンドバーグが大西洋単独飛行を成功させた映画「翼よ!あれが巴里の灯だ」
かつてアムンゼンが乏しい装備で南極に挑んだとき、世界はその勇気に感嘆した。21世紀、仮に遭難しそうな場合に備えて携帯電話を持ち、救助用ヘリコプターを準備して南極に行っても冒険にはなりにくい。工学はかつての「冒険」を冒険でなくし、新しくチャレンジャー号のような大形の冒険を作り出してきた。このような工学の性質を考え、工学倫理という論理的判断を要する場合、新たな危険な冒険をどう考えるのか?
図 6 アムンゼンと南極に向かう船
工学倫理を勉強するためには、「倫理」と「道徳」「信仰」「信念」などとの関係をよく整理しておく必要がある。「倫理」の「倫」とは人と人が向き合う様子を表している。人間の複雑さ、人生、目的、矛盾・・・など人間とその行動、そして社会を正しく見ることが倫理を深く理解することの基本である。倫理の黄金律が「相手のして欲しいことをする」「相手のして欲しくないことはしない」であることから判るように、相手との関係で判断が変わるものである。絶対的な信念や信仰とは異なる。たとえば、「信仰」は周囲の人がどのように希望しているのかとは無関係に自らの信仰を重んじることができるが、倫理はそうではない。仮にチャレンジャー号が「危険を伴うことを承知で、任務に就き、生還することを目的とする」という性質を持つ行為で、宇宙飛行士やアメリカ国民、政府が「チャレンジャー号の飛行はNASAの上層部の判断に委ねる」ということに同意している場合には、あの事故は工学倫理に無関係な事件であったとも言える。
さて、「冒険」の対極には「組織」がある。
旧約聖書に次のような物語がある。
・・・昔、村人がある人のところにやってきてこう言った。
「私たちは突然、襲ってくる異民族に怯えています。ある時は身ぐるみを剥がされ、ある時は皆殺しにあいます。こんな状態で生活はできません。是非、あなたが王様になって国を作り、私たちを守ってください。」
そういわれた人は、ジッと考えた末、
「イヤ、お断わりする。私が王になったら皆さんの息子を取上げて戦場で殺すことになる。あなた達の娘を取上げて私の後宮に入れる。また私は官吏をやとってあなた達から税金をむしり取るだろう。そうしたら、きっとあなた達はそんなつもりはなかったと言うだろうから」
村人は、
「それでも結構です。いつ殺されるか分からない生活なら、私の息子や娘を差し出し、お金も献上しましょう。」
といった。
人間の集団は何らかの矛盾を孕んでいる。一人二人ならなんということがないことでもやっかいになり、非人間的なことが起こる。それは人間の持っている本質とかかわっているが、それだからといって組織の中で不都合なことが起こってもよいということではない。組織の持つ矛盾をどのようにして個人の努力と勇気で修正するのかが倫理の持つ役割の一つである。組織の目的とそれが持つ矛盾を良く理解し、その上で熟慮を重ね、それでも組織の行動が間違っているという結論に達したら、自らが損害を被っても多くの人々のために勇気をふるわなければならない。それが技術者の覚悟である。
チャレンジャー号の事故は工学倫理を学ぶ者としては知っておく必要があるが、倫理的にそれほど深い意味を持っている事故ではない。未知のことには危険が伴い、将来の予測は人知を超え、そして事前の検討も十分であったからである。次章からの例の中にはより深い問題を含んでいるものもある。それを勉強するときには「組織と個人」を常に意識してもらいたい。
3.1. スペースシャトル・チャレンジャー号
3.1.1. 事故の経過
スペースシャトルは、オービターと燃料タンク、二つの固体ロケットブースターから構成されている。オービターは翼があり、高さ17m、長さ37m、翼の長さは24m、重さは85トン、スペースシャトル全体は高さ23m、長さ56m、総重量約2000トンである。オービターの中央部分は、ペイロードベイで、人工衛星などが打ち上げられる。2基の固体ロケットブースターは燃料タンクの両脇に取り付けられていて、打ち上げ約2分後にシャトルから切り離され、パラシュートで海面に落下。回収後、再利用される。燃料タンクは、打ち上げに必要な酸化剤と燃料、液体酸素と液体水素が収納されており、これらはオービターのメインエンジンで燃焼する。8分後燃料タンクは切り離され、大気圏で燃え尽き再利用されない。オービターは軌道修正後、地球周回軌道に入る。帰還時には、地球の周回軌道を離れて大気との摩擦で減速し、最後はグライダーと同じように滑空して着陸する。


スペースシャトル(コロンビア号)は1981年4月12日にはじめて打ち上げられ、地球周回軌道に到達した。1983年11月11日には実用飛行が可能になり、スペースラブ(宇宙実験室)をはじめて打ち上げるなど宇宙開発の中心技術として順調に進んだ。一方、同じスペースシャトルのチャレンジャー号は1983年4月4日に最初に打ち上げられ、その年の8月30日に夜間打上げ、夜間着陸にも成功した。
悲劇は常に突然やってくるが、1986年1月28日、女性の高校教師、クリスタ・マコーリフさんらを載せたチャレンジャーが打ち上げられ、73秒後に爆発して7人の搭乗員全員が死亡した。この事件はスペースシャトルという最新の技術を駆使した空の事故であり、テレビ生中継され、搭乗員の肉親が現場で目撃するということもあって全世界の注目を集めた。


事故の1年前、ブースター・ロケットの製造を担当していたモートン・サイオコル(MT)社のボイジョリーは別のシャトル打ち上げ後の検査で、黒くこげた大量の油を見つけた。これはブースターのOリングから燃焼ガスが漏れたことを意味していると考えられ、2次シールからも漏れると燃料タンクに火が付き、爆発すると予想された。ボイジョリーはそのことを上司に報告してから宇宙飛行センターに行き、NASAの担当者に打ち上げ時の気温が低かったためシール効果が低下したのではないかと警告した。NASAはMT社に詳細調査を依頼し、検討の結果、温度が低くなるとシール性が低下することがわかり、さらに4月打ち上げ後の検査でもシールの不良が確認された。そのため、7月の打ち上げに向けてMT社はNASAに試験結果を報告したが、可能性があるという程度と認識し、それよりすでに何回か打ち上げに成功していることを重視したので、問題を基本的に解決する行動はとらなかった。
ボイジョリーは、問題に対処しなければシャトルは爆発するという自分の意見をメモにし、上司のサインをもらった後にMT社技術担当副社長ルンドに送った。


チャレンジャー打ち上げ前日、ボイジョリーは-8℃という天気予報に驚きルンド副社長に会って打ち上げ延期を進言した。副社長は彼の理由を理解しMT社とNASAを結ぶテレビ会議が開かれた。ボイジョリーは自らの考えを述べ12℃以下では打ち上げるべきでないと言った。
NASAはMT社ブースター担当副社長キルミンスターに意見を求めた。彼は中止をせざるを得ないと述べ、NASAの多くの責任者はMT社が反対するなら打ち上げないという意見になった。しかしその後、NASAの中に異論がでて、シール性をテストしたデータは打ち上げを中止するほどの決定的なものではないと言うことになった。そこで、キルミンスター副社長はMT社に持ち帰ったが、MT社のメイソン上級副社長は「打ち上げたいと思っているのは俺だけか」と怒鳴り、ルンド技術担当副社長には「技術者の帽子を脱いで経営者の帽子をかぶれ」と叱る。(この瞬間が技術者が専門家か、あるいは雇用人かの分かれ道であった。) 再度、NASAに連絡が取られ、キルミンスター副社長はNASAに打ち上げ準備続行を勧告した。
【技術的概要】
固体ブースタは4つの大きなパーツから構成されているが、巨大な質量と、打ち上げ時に複雑な応力や急激な温度変化が生じるので、パーツ間の継ぎ目部分が歪んで隙間が生じることが予想される。このため合成ゴム製のOリングを継ぎ目に挿入し、歪みはゴムが吸収するように設計されていた。合成ゴムは低温では固くなる。だから、通常の気温では支障はないが寒波が襲来すると、寒風が吹きすさぶ発射台に置かれた機体は冷える。チャレンジャー号の場合、継ぎ目部分の温度は-0.6℃に達していた。この結果、Oリングはシールの能力を失っていた。また合成ゴムの低温特性をカバーする為の構造上の設計はされていなかった。
【政治的状況】
NASAは外部からの政治的圧力で、打ち上げを強行せざるを得ない状態に陥っていた。大統領がその打ち上げの日の夜に年頭の教書を読むはずになっており、その中でチャレンジャー号について言及する予定だった。一方、議会の方では宇宙関係の予算がどんどんカットしており、チャレンジャー号の打ち上げがすでに3回も延期になっていることもあって、NASAは焦っていた。だから、MT社が延期を求めてきても、それにすぐ同意できない。ついに、NASAはMT社に対して「それなら、打ち上げは安全でないということを証明せよ」というような非科学的な要求をするまでに至った。NASAのこの要求を「非科学的」と表現したことについては後に詳しく解説をするが、科学は得られたデータについてなにかを証明することはできず、ある解釈を加えることができるという意味である。
3.1.2. この事件で一般的に工学倫理の領域で問題にされること
このスペースシャトルの事故はその後、工学倫理、技術者倫理の典型的な研究課題として取上げられ、多くの議論がされている。そのうちの代表的なものを示す。
3.1.3. 内部告発はできなかったのか?
(問)ボイジョリーはOリングの問題について公にし、打ち上げを延期せさることはできなかったのか。技術者としてそこまでする義務があったのではないか?
(一般的な答)技術者が社会的責任をはたす上で内部告発は一つの選択肢になるが、それは技術者が属する企業が「非常識に」対応した場合に限定される。この場合は、上司、担当副社長などは十分な理解を示し、企業全体で判断するまでに至っている。一技術者としての行動としては満足すべきである。また、内部告発をするとその技術者は企業の内部で不利な立場にたたされ、企業にも大きな損害を与える。特に、「過去のこと」ではなく、「将来の予測」においては慎重であるべきだ。
3.1.4. アメリカの一般的な倫理基準との関係は?
(機械工学を専門とする者の倫理)
米国機械学会の倫理規定の冒頭には、工学者が「自身の専門的職務の中で、公共の安全、健康、福祉を第一に考えること」を強く求めるとされている。
(一般論としての技術者倫理)
個人の価値観と企業組織、あるいは社会からの要求とが衝突してして葛藤が起こることがある。その時には技術者個人が、自分は究極的には誰のために、何のために働いているかを考え、自らが決断を下す。また、技術者は雇用契約をしている自分の企業に対する忠誠心も必要で、一般的には技術的目的を達成するために全力を尽くすことが望ましい。この時の判断基準は「自らの専門性から判断して、自分の行為が社会に直接的な悪い影響を与えないか?」ということである。MT社のメイソンがルンドに発言した内容はそれ自体で矛盾していないか?
3.1.5. 未知の技術の予測はできるのか?
この事件は過去が問われていたのではなく、どうなるか?という未知の領域であった。例えば、日本で起きた水俣病(本著第5章)のようにすでに障害者が発生し、そのことが何に原因しているのかという場合とは異なる。特に、先端的な技術の進展に、絶対的確実性を求めることはできず、常にリスクと不確実性が存在する。そして、そのリスクの大きさをあらかじめ確実に知ることはできない。また、リスクの許容範囲も専門家集団に応じて経験的かつ主観的なものである。
その点からチャレンジャー号の事故は予見することができたか?このことは深く事実を調べなければならないが、予見可能であった、というのが一般的な見解である。
3.1.6. より深く考える
1) チャレンジャー号の事故は衝撃的なものだったが、犠牲者は7名で、自然が影響を受けた規模も大きくなかった。技術的な判断ミスで不幸にして事故が起こった場合の倫理を考える上で、一人の犠牲者でも10万人でも同じだろうか?また、大統領が注目したり、議会や関係者が多かったり、またテレビで放映されていたなど「注目されること」と、あまり注目されていない「隠れていること」とは同じ結果でも、倫理的な重みは違うだろうか?報道されない被害者は無視されるのか?
・・・社会全体が受ける影響という点では被害者の数の大小が問題となり、特定の被害者から見ると、一人の苦痛は同じである。基本的には技術者はマスコミが大きく取上げたかどうかなどに因らずに自らの判断をするべきであろう。特に最近ではマスコミの影響が大きいが、技術者はその専門性から判断すべきであり、社会とは一線を画す意識が大切である。
2) 日本の多くの技術者は企業に雇用されている。この場合も、MT社の技術者が「会社内の業務」を行なっていて、任務について誠意を尽くし、危険性について上司に十分に説明している。会社に組織があるのは、このような場合、組織的に判断することが求められているのだから、それで十分ではないか?その技術者は会社との雇用契約の時に、このような場合についてどのような契約をしているのだろうか?また日本のように契約社会では無い場合には、企業の経営陣と雇用者はどのような役割分担を暗黙に認め合っているのだろうか?
・・・上司の命令で業務を行なっている場合、業務遂行に自由が無い場合には、その技術者には専門性が無いと判断される。一方、普段から「私は技術者としてこのように考えます。その件に関しては一歩も譲りません」という発言をして、それを上司が尊重してくれるような風土の場合には、本人の専門性が発揮されているので、倫理的責任も技術者個人に求められる。行為と責任、職業の専門性については本著の後の章にまとめてある。
3) もし、チャレンジャー号がたまたま無事に飛行でき、次の飛行までに不具合の修正が行なわれた場合、ボイジョリーはどうなっていただろうか?事故が起こったから表彰されたが、事故が起こらなければ「つまらないことを言って会社に損害を与えた男」ということになるだろう。
このような事故は確率的に起こる。「飛行の安全確率」が95%以上(20回飛行しても墜落の可能性が低い)とすると、Oリングの破損確率が80%であれば技術者は飛行に反対しなければならないが、それでも5回に4回は無事である。チャレンジャー号を含めて多くの場合、確率を定量的に示すことはできないので、技術者はジレンマに陥ることになる。
つまり、人間の行為はその人の決定に因って決めるか、組織あるいは集団の場合はその人の普段からの信用によって決定される。後の章に整理するように専門性のある行為の判断は個人に委ねられるべきであり、チャレンジャー号のOリングの破損は、それが現実に起こると起こらないとにかかわらず、ボイジョリー個人の判断だけを優先するべきである。
4) スペースシャトルの最初のものはコロンビア号と名付けられ、事故機はチャレンジャー号という名前であった。いずれもアメリカでは「開拓、挑戦」という意味を持っており、危険であるのは承知の上である。事実、2003年にもコロンビア号が耐熱タイルの破損で墜落した。
スペースシャトルが冒険性を持っているとすると、技術的にはどの程度の危険性をもって中止するべきであろうか?もし民間の旅客機ほどの安全性を要求するなら、冒険という名は無くなるし、宇宙飛行士は尊敬されないかも知れない。
【脱線・・・コーヒータイムの話題: 冒険と組織】
1927年、リンドバーグが太平洋単独飛行に成功した時、アメリカはもとより先進国の多くの人は驚喜した。それが当時、大西洋を単独飛行でわたることが未来を開く重要な意義を持っていたと同時に、その行為がとても「危険」であり、それが冒険だったという意味もある。安全な飛行なら感激は薄い。人間のもつ「勇気を称える」ということと「技術的な安全を確保する」というのはどのような関係にあるのだろうか?

かつてアムンゼンが乏しい装備で南極に挑んだとき、世界はその勇気に感嘆した。21世紀、仮に遭難しそうな場合に備えて携帯電話を持ち、救助用ヘリコプターを準備して南極に行っても冒険にはなりにくい。工学はかつての「冒険」を冒険でなくし、新しくチャレンジャー号のような大形の冒険を作り出してきた。このような工学の性質を考え、工学倫理という論理的判断を要する場合、新たな危険な冒険をどう考えるのか?


工学倫理を勉強するためには、「倫理」と「道徳」「信仰」「信念」などとの関係をよく整理しておく必要がある。「倫理」の「倫」とは人と人が向き合う様子を表している。人間の複雑さ、人生、目的、矛盾・・・など人間とその行動、そして社会を正しく見ることが倫理を深く理解することの基本である。倫理の黄金律が「相手のして欲しいことをする」「相手のして欲しくないことはしない」であることから判るように、相手との関係で判断が変わるものである。絶対的な信念や信仰とは異なる。たとえば、「信仰」は周囲の人がどのように希望しているのかとは無関係に自らの信仰を重んじることができるが、倫理はそうではない。仮にチャレンジャー号が「危険を伴うことを承知で、任務に就き、生還することを目的とする」という性質を持つ行為で、宇宙飛行士やアメリカ国民、政府が「チャレンジャー号の飛行はNASAの上層部の判断に委ねる」ということに同意している場合には、あの事故は工学倫理に無関係な事件であったとも言える。
さて、「冒険」の対極には「組織」がある。
旧約聖書に次のような物語がある。
・・・昔、村人がある人のところにやってきてこう言った。
「私たちは突然、襲ってくる異民族に怯えています。ある時は身ぐるみを剥がされ、ある時は皆殺しにあいます。こんな状態で生活はできません。是非、あなたが王様になって国を作り、私たちを守ってください。」
そういわれた人は、ジッと考えた末、
「イヤ、お断わりする。私が王になったら皆さんの息子を取上げて戦場で殺すことになる。あなた達の娘を取上げて私の後宮に入れる。また私は官吏をやとってあなた達から税金をむしり取るだろう。そうしたら、きっとあなた達はそんなつもりはなかったと言うだろうから」
村人は、
「それでも結構です。いつ殺されるか分からない生活なら、私の息子や娘を差し出し、お金も献上しましょう。」
といった。
人間の集団は何らかの矛盾を孕んでいる。一人二人ならなんということがないことでもやっかいになり、非人間的なことが起こる。それは人間の持っている本質とかかわっているが、それだからといって組織の中で不都合なことが起こってもよいということではない。組織の持つ矛盾をどのようにして個人の努力と勇気で修正するのかが倫理の持つ役割の一つである。組織の目的とそれが持つ矛盾を良く理解し、その上で熟慮を重ね、それでも組織の行動が間違っているという結論に達したら、自らが損害を被っても多くの人々のために勇気をふるわなければならない。それが技術者の覚悟である。
チャレンジャー号の事故は工学倫理を学ぶ者としては知っておく必要があるが、倫理的にそれほど深い意味を持っている事故ではない。未知のことには危険が伴い、将来の予測は人知を超え、そして事前の検討も十分であったからである。次章からの例の中にはより深い問題を含んでいるものもある。それを勉強するときには「組織と個人」を常に意識してもらいたい。