人生の過ごし方

― 散歩と通勤 ―



 哲学者カントは1724年、東プロシアのケーニヒスベルクに生まれた。父は馬具匠で母も学歴はなかったが、敬虔なキリスト教信者で、知識としての学問はなくても真理に対する謙虚な気持ちは持っていた。それが後にカントの性格や学問に影響を与えたと言われている。

 さて、今日の話題はカントの散歩から入りたい。

 哲学者カントは、毎日の生活を、規則正しく、それも夏冬を問わず、生涯にわたって続けた。毎朝5時に起床すると、コーヒーを飲んで朝食をとり、著作をし、講義をし、食事をし、散歩する。まことに厳格な生活だった。

 散歩の時には、決まってグレーのフロックコートに、杖を使い、菩提樹の生えた小さな道・・・後に「哲学者の道」と言われるが・・・そこを通った。近所の人はまったく変らないカントの生活を見て時計代わりに使ったという。特に散歩は寸分違わなかったので、カントが散歩にでると、それは3時半であることを意味していた。

 そして、菩提樹の道を8回往復し、夕方の6時に散歩を切り上げ、食事をし、読書をし、10時に床に就く毎日だった。

 息が詰まると言えばそうも言えるし、厳格で見事な人生と言えばそうも言える。ともかく、毎日2時間半、散歩をしていた。

 カントというとその墓碑銘の言葉を思い出してしまう。
「それを考えることしばしばにして、かつ長ければ長いほど、常に新たに増し来る感嘆と畏敬の念をもって心をみたすものが二つある。わが上なる星きらめく天空とわが内なる道徳法則、これである。」

・ ・・der bestirnte Himmel uber mir und das moralische Gesetz in mir・・・

 いや、実に厳しい人である。

 映画「メリーポピンズ」といえばジェリー・アンドリュースを思い出すが、この映画でもメリー・ポピンズが家庭教師をした家の主人の銀行家は毎日、毎日、正確に6時に帰宅する。6時の時報とともに家の玄関を開けるほどであるから、誤差は10秒より小さい。物語とはいえ、イギリスの銀行家は驚くべきほど固い。

 ところで、人生の時間の使い方には2通りがある。

 一つは「目標の為に時間を使う方法」
もう一つは「時間を過ごすために時間を使う方法」

 最初の時間の使い方で現代人は人生を送る。
・ ・・学校に着くために登校する。登校途中の桜が咲いているかはわからない。
・ ・・会社に行くために電車に乗る。だから電車に乗れば眠りたい。
・ ・・単位を取るために授業をうける。だからできるだけ授業中は眠りたい。
・ ・・時間を作るために時間を過ごす。だからできるだけ時間を節約する。
・ ・・一緒に食事をしたい人とは卓を囲まない。仕事に役立つ人と食べる。

 全ては目標の為であり、毎日の人生の時間は「空っぽ」である。

 到着時間を気にする移動は空白の時間になる。
 目標を達成するために努力する時間は空白の時間である。

 2番目の時間の使い方は古代人のものだった。
・ ・・目標はない。そよ風が吹く。ポカポカと太陽の光が柔らかい。
・ ・・焼き芋を頬張ると、ポクポクとした感じが口の中に拡がる。
・ ・・景色と四季を楽しみながら、なんとなく足を運んでいると、家についた。
・ ・・文字を覚えたいので寺小屋に通う。もちろん居眠りなどしない。
・ ・・友がひょっこり訪ねてきた。盃を重ね、楽しい夜を過ごす。

 時間の中に人生がある。そのような人生はいっそう長く楽しい。トルストイは20世紀の初め、まだ蒸気機関車がトコトコとロシアの草原を走っているとき、次のようにいった。
「A地点からB地点にできるだけ早く行こうとすることは、何の意味もないことである。やがて、あまりにもバカらしいということで忘れられるだろう」
といっている。現代は、時間を惜しみ、時間を使わず、時間を空けるためにあくせくと時間を過ごす。

 旅は旅の時間自身に意味があり、目的地に着くことに意味があるわけではない。
人生は人生の時間を過ごすこと自体に意味があり、人生が終わって死ぬために過ごすのではない。
授業の時間に眠ればそれだけ寿命は短くなる。
現代の80才の寿命はほとんど空白の時間で埋まっている。
・・・と私は思う。

 同じ歩く時間、散歩は人生の時間、通勤は空白の時間。

 最後にすこし付け足したいことがある・・・・
私はカントが「人間はこのようなものだ」「人間はこのように生きるべきだ」という話にあまり同調しないようにしている。確かに、カントは偉いが、大酒飲みで大食漢、そして辛い人と一緒に苦しんだイエス・キリストがもっと偉い。人間は大酒飲みで大食漢、涙もろくなければまずは人間ではないような気がするからである。