見て見ぬふりの文化


 江戸時代の末期、まだ鎖国は続いていたけれど、徳川幕府は欧米から続々とやってくる青い目の人達の入国を防ぐことはできなくなっていた。その人々の中には政治家や商人ばかりではなく、旅行家、技術者、そして画家や写真家もいて、幕末の風景を残している。当時の残された写真からは、現代の喧噪に満ちた汚れた街に住んでいると一見して貧しい江戸時代末期の民家がそれは美しく、豊に見える。



 写真がカラーであるのが気になる読者が居るだろうが、当時、すでに写真乾板に画像を映し出す技術は発明されていたがもちろん、白黒だった。そこで写真家は常に画家を帯同し、写真ができあがるとすぐ画家が色づけをしたのである。そのために現在の我々でも江戸時代の民家の色、空の色、そしてその当時の風景をカラーで楽しむことができる。
 
 江戸時代にヨーロッパ人が残した写真の他に多くのスケッチ画が知られている。たとえば次の絵は日本人の人夫の姿を描いたものだが、このスケッチを描いた画家は「なんと、日本の男の肉体は美しいのだろう!」と驚嘆したのだ。



  適切な運動と食事、人間の筋肉などの機能を「正しく」使ったこの人夫達は人間本来の素晴らしい肉体を持っていたのだが、それをスケッチしたヨーロッパ人はすでに物質文明病に冒されていて自分たちの肉体をお天道様の前にさらすのに躊躇したのである。

 「我々の肉体はすでに過度の栄養によってぶくぶくと醜く太っており、その姿を他人にさらすことはできない。それから見ると日本人の男の肉体はなんと見事な美しさだろう!」
 
 当時の日本人は簡単な衣服をまとっていた。庶民は単衣物という浴衣のようなものを一枚、羽織っているだけで寝るときにも綿布団ではなく、布のようなものを一枚、掛けて寝たようである。そのように簡素な生活の日本人が、さらにヨーロッパとは全く異なる文化を持っていた。幕末に日本に来たヨーロッパ人の記録を見ると、まず、「日本では街頭で裸の女性が体を洗っている!」という驚きが書いてある。

 当時の日本では街頭でお風呂を沸かし、それに昼間から夕刻にかけて湯浴みをするのが普通だった。その風呂には衝立もなく、時には人が往来する道の横にあった。だから道を通る人、それは男性であれ、女性であれ、裸の女性を見ることができた。




 ヨーロッパ人の最初の反応は、「日本はなんて野蛮な国だろう!」との軽蔑だった。そしてその印象は少しずつ変わっていく。日本人の女性が道ばたで湯浴みをしている・・・その横を男が通る。よく見ていると、その男性はちっとも女性の方を見ようとはしない。時にはチラッと目をやることはあるが、その目は「やれやれ、彼女も大人になったな。」という程度であり、同じように女性の体の線の方にも僅かながら男性の視線を感じた様子がでるが、それがごく自然の流れの中で進んでいくのだ。

 といって、日本の男性に性欲が無い訳ではない。子供は沢山いるし夫婦仲は概して良い。卑猥な内容をもつ俗謡もある。同じ人間であるから動物的な部分は日本人もヨーロッパ人も変わらないにも関わらず、それでもやっぱり違う。

 この日本文化を理解するのにヨーロッパ人はすこし時間がかかった。そして暫くすると、
「ああ!なんと言うことか!なんと高潔な民族なのだ!日本人は。」と感心する。裸の女性が外で湯浴みをしても問題がおこらないのは、
「見てはいけないものは見ず、やってはいけないものはやらない」
という日本文化そのものが現れている一つの例であることを理解し、そしてそれ以降、日本人を尊敬するようになった。

 話がすこし拡散するが、日本の伝統芸能に人形浄瑠璃文楽というのがある。

 人形浄瑠璃が「人形浄瑠璃文楽」と呼ばれるようになったのは明治以来のことで、文楽座での講演で有名になったからで発祥は江戸時代の初期1600年頃である。よく知られているように、太夫、三味線、人形遣いという3役で行い、太夫は一人で全ての登場人物のセリフを語り、情景を示し、三味線はその音色で情景から感情へと昇華させ、そして人形遣いが人形の動きで全体のケリをつける。日本以外の各国でもマリオネット、ギニョール、影絵人形などと呼ばれる人形を用いた舞台があるけれど、やはり特殊な構成と芸術的な奥行きで浄瑠璃は群を抜いている。

 人間浄瑠璃では主役の人形はそれほど大きくはなく、その後ろの人形遣いは大きな男で普通に舞台を見たら人形より人形遣いの方が目立つ。でも日本人は人形遣いを見ない。物語が進むと観客の目は一心に人形の動きに引きつけられ、やがて黒い服を着て背後で人形を操る人形遣いの姿はすっかり見えなくなる。

「見てはいけないものは見えない」

 
 日本の考古学発祥の地と言われる東京の「大森貝塚」を発掘したのは、エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylverster Morse 1838~1925)だ。彼はアメリカ人の動物学者で、腕足類といわれる生物の研究のため明治10年に来日して、研究の途上で大森貝塚を発掘した。この発掘が日本で初めての学問的な遺跡の発掘だったので、この地を日本考古学発祥の地と呼んでいる。


   
   

(肖像画のモースと銅像となったモース)


 そのモースの代表的な著書に「日本、その日その日」があり、そこには当時の日本の文化が記録されている。また同じくモースの「日本人の住まい」には、
「鍵を掛けぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りをしても、触っていけないものは決して手を触れぬ。」
とある。

 私はこの一節がとても好きでいつも自分の講演に使って皆さんに紹介している。私の研究室はほとんど鍵を掛けないのだが、それでいてここ10年間、まったく盗難にあわない。時には千円札を2,3枚、机の上に乗せておくのだが、学生はもちろん「触っていけないもの」に手を触れることはないし、大学というところは学問をするところであり、通りがかりの人も金子を狙うことがない。

 日本にはジュースやビールなどを販売する自動販売機がある。街角という街角に販売機があるので、あまりに酷いじゃないか!と批判の的となる。確かに、自動販売機の中には何とか買わせようと「これでもか!」とばかりけばけばしい装飾をほどこしたものもあり、批判も頷ける。

 しかし日本の街角においてある自動販売機ほど素晴らしい物はない。あれは暴力に対してなんの防御も施さず、ほとんど無防備といっても良い。力のある男性が金槌のようなものを持ってきて破壊しようとしたらビールを取り出すことは簡単だ。事実、海外に輸出する自動販売機は日本に設置される機械よりかなり防御されているし、アメリカなどは元々、自動販売機自体がおけない。その土地の文化が「触れていけないものは触れない」という場所か、「盗まれる方が悪い」という理屈をこねる所かで決まる。

 話が長くなったが、日本の文化は
「見ていけないところは見ない」
「触れていけないことは触れない」
という「建前」が重視される文化である。この文化は実に素晴らしい。女性がお風呂に入るのが「危険」ということになると、風呂を囲うのはもちろん、鍵を掛ける、のぞくことができる隙間は作らない、脱衣所もいる・・・と際限が無くなる。女性がお風呂に入るのは当たり前のことだということになると、どこでもいつでも気楽に入ることができる。なんと、違うことか!

 道路を歩いている人を襲っても良いということになるとする。そうすると、女性や子供は夜、道路を歩くことすらできない。それはその人達の人生の幅を狭くする。女性や子供は腕力が弱いだけで人生の権利は男性と同じだ。男性が暴力が強いといって、それで相手の権利を奪ってはいけない。最近では「盗まれる方が悪い」という理屈を言う人がいるし、民族によっては社会全体がそのような道徳の中で動いている所もある。でも決定的におかしい。

 さて、これまでの話が準備で、これから本題に入る。


 小泉首相が自衛隊をイラクに送った。小泉首相というべきではなく、自民党と公明党と言うべきなのだろうが、小泉首相のような人気が高い首相だから自衛隊を海外派兵できたのだということを考えると、はやり小泉首相が送ったと言って良いだろう。

 もちろん、日本国に憲法があることはみんな知っている。

日本国憲法第9条
 第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。    
 第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 国語の時間に上の文章の「言いたいこと」について次の問に答えなさいという問題がでたとする。
問1 国際紛争を解決する手段として武力による威嚇や行使は許されていますか?
問2 陸海空軍を保持して良いのですか?

 問1の答えとして、「国際協調を守るためにはこの条文は適応されない」「国連の安全保障会議が否決しても、国際協調と言える」「重火器の武器を有する自衛隊のイラク派遣は武力の威嚇や行使ではない」ということを書くと小学生でもペケだろう。現在の日本でイラク派遣の理由とされている「理由」はいずれも点数はもらえない。先生もこのような解答がでたら、いくら点数をあげたくてもあげることはできない。

 国際協調の為には憲法を破っても良いということになると、ある時に一国独裁政治になったり、突然基本的人権が無くなったりしてもそれほどおかしくはない。事実、第一次世界大戦後、ナチスの台頭に至る過程はこのような手続き的な問題もあった。手続き問題をあまり軽視しているともとに戻れないこともある。

 今回のイラク派遣の問題は国連の安保理が承認していないアメリカの軍事行動であり、国連の機能が低下する危険性がある。これまで数回の世界大戦などの紛争を経て、国連は各国の利害が対立する場でもあるが、それでも何とか平和維持に大きな貢献をしてきた。日本は第二次世界大戦に敗北し、多くの犠牲者をだし、また戦犯という名の処刑者まで出した。その経験から言うと、国連が不十分であっても、国連がアメリカとヨーロッパの主導権争いの場になっても、あくまで国連主導で国際問題を取り扱うことについて日本が明確な態度を決めておくことが国民の希望でもあるだろう。

 さて、イラクの復興に産業界やボランティアが行かず、自衛隊が行くのは武器を携帯している軍隊だからであり、それこそがアメリカとの協調に必要なことである。もし自衛隊が軍隊ではなければ、せっかく危険を冒して政府の人間やNPOをイラクに派遣してもアメリカの機嫌は良くならない。だから、自衛隊が行く。そして自衛隊は軍隊だから火器を携帯する。火器を携帯するからこそ軍隊であり、アメリカが望むのである。したがって、火器は比較的重火器を準備する。重火器を準備して攻撃されれば応戦する。したがって武器の威嚇と行使に相当するので、憲法違反である。

 さて、再び小学校の国語の問題にかえるとして、問2に進もう。この問いでも、「軍隊でも名称に「軍」と名前が付いてなければ軍ではない」「軍隊を他国に出して攻撃された場合、交戦するのは防衛的であるから交戦ではない」などは点をもらえない。

 自衛隊が軍隊であるどうかは名称によらない。どの国の軍隊もその目的は防衛であり、「他国の攻撃を目的としている軍隊」というのがあればそれ自体が国際法違反であるので、今日では存在自体が許されない。従って、自衛隊は軍隊である。それ故、第二項は最初から憲法違反である。

 自衛隊を日本国土から外に出撃させるのは、さらなる憲法違反である。戦争の多くは祖国防衛を名目として行われる。しかし、国の防衛は国境線ギリギリで守るのは困難で、多少は相手の国に攻め込まなければならない。そこで、自衛権を発動するという名目で他国への侵略が行われるのが歴史の示すところである。しかし、攻め込むと言っても、通常は、隣国、つまり日本で言えば、韓国、北朝鮮、中国、ソ連、そしてアメリカ、フィリッピンが対象で、イラクのような遠方の国に先制攻撃をかけるのは歴史的にも希である。

 でも日本の首相をはじめ、憲法を守る立場の最高裁判所、国会、偉人、文化人など結束して自衛隊を支持している。小学生でも点数をもらえないことをしているのだから、小学生より劣る人達が日本を支配していることになる。また、自衛隊のイラク派遣に反対している人達も多いし、声明なども出しているが迫力がない。ただ「私たちは反対している」というだけでは力にならない。政府も覚悟をして自衛隊のイラク派遣に踏み切ったのだから、もし真剣にそれを止めようと思ったら、同じような力がいる。せっかくの総選挙があったのに、ほとんど運動はなかった。

 なぜ、イラクに自衛隊を送ることに日本人は賛成するのだろうか?

もちろん、国会や、まして小泉首相が憲法に反することはできない。国会は憲法などの枠内で国民の委託を受けて活動する場であって、憲法を無視する権限はない。自衛隊はもちろん軍隊で、イラクという遠い国に派遣するのは「軍事的侵略」以外のなにものでもないのはすでに述べた。

 だからイラク派兵の最初のころには、テレビで盛んに報道が行われているのに、「何のためにイラクに派兵するのか?」という質問に答えることが出来た人はいなかった。小泉首相の国会答弁も論理的という意味では聞くに堪えない、「すり替え、誤魔化し」の類だった。でも、次第次第に本音が語られるようになった。

問1 イラクに自衛隊を派遣することを正確に表現すれば?
(答え) 軍隊を他国に出して侵略することです。

問2 それは憲法違反ですか?
(答え)もちろん、憲法違反です。

問3 なぜ、イラクを侵略しなければならないのですか?
(答え) 次の3つの理由があります。
1) 日本には石油資源が無いので、他国の石油が欲しい。
2) 北朝鮮の原爆保有を止めるのはアメリカの力が要る。日本の国土は日本では守ることができない。
3) アメリカにものを売って日本は生活をしているのだから、アメリカの機嫌を損ねることはできない。

 私が教えているある大学で、「日本でこれまで「平和が大切だ」といってきた多くの人が今度のイラク戦争で侵略行動を支持したが、その理由について述べよ」、という問題を出したところ、学生の8割が「日本はアメリカの属国だから」という解答だった。学生は案外、正確に物事を見ている。

そしてその根底には現代日本をむしばむ病が感じられる。それは次のようなものである。

1) 「かけがえのない平和」というのは、日本が平和であることを言い、他国が戦場になるのは問題がない、もしくはそれほど考えなくても良い。

2) 「平和を守る」というのは、何も紛争や利害関係が無い場合で、利害関係があれば経済活動の方を優先し、戦争をしても良いと変更するのが前提である。この「平和時の平和主義」というのはかなりの人が賛成している。

3) もともと平和憲法擁護などというのは自分の立場を強くするための方便であって、自己の信念として平和を求めているのではない。もともと平和を第一としていた社会党は村山富市が首相になると自衛隊の観艦式に出席した。社会党にとって自衛隊反対は野党という立場の問題であって、与党になれば賛成する。

という状況にあるからである。

 これらのことを優柔不断とか、変わり身が早いなどと非難しても仕方がない。おそらくはこの現象は日本文化の基本部分に触れるからである。まず表面的に考えてみよう。

 日本人は見かけ上、何が正しいかということは単なる見かけに過ぎず、本当に大切なことを判断する傾向がある。それは女性の風呂でも自動販売機と似ている。そのように二面性があるとすると、日本人は今回のイラクへの自衛隊派遣については、次のように判断していると考えられる。

1) 平和憲法は大切だ。これが無くなると歯止めが効かなくなる。もし軍隊を持って良いということになると、政府はすぐ傲慢になるので、軍事費が高くなり、軍事研究にお金がかかり、なにか理由があると戦争をするだろう。その時、ともかく現在の第九条のような規定があると、さすがに軍事行動は制限される。つまり、本来は軍隊が必要と判っているが、それを規定にすると軍が暴走するので、軍は持たないようにし、自衛隊と言う名前も変えず、いつも憲法違反の状態にしておくという二面性が日本人の第一の結論となっている。

2) 平和が大切であるのは間違いないが、いくら平和でも石油が無くなったり、アメリカに工業製品を輸出できず、その結果、石油や鉄鉱石などが輸入できなくなるのは問題である。環境問題でも同じだ。平和や環境はとても大切だが、もっと大切なのは豊かな生活、具体的には給与が減ることは困るということである。「武士は食わねど高楊枝」といったのは支配階級の武士の魂であって庶民は江戸時代からもっと現実的である。

3) イラクに派兵するのは、日本もアジア人だし、イラクを攻撃したのはアメリカ人だから本当はイヤだ。イラクが危険かどうかという議論をしているが、あれは建前の議論で本音ではない。ともかくイラクに派兵するのはイヤだ。でも、もし少しでもイラクの復興に役立ったり、イラクの人がなんとか納得してくれるのなら、そうして欲しい。どうせ、人間社会というのはそれほど割り切った存在ではない。だから、アメリカに形ばかり協力することをイラク人は認めてくれるだろう。

4) 「イラクの人達、すみません。私たちはすでに物質文明病に陥って、少しでも給与が減るのがイヤなのです。私たちのこの切ない気持ちを察して許して下さい」と日本人は心の中で謝る。日本文化の一つの特徴は「謝ればこれまでの事は無くなる」ということであり、今回のイラク派兵がイラクの人の希望に則さず、ご迷惑を掛けることは先刻承知である。心は痛い。だから何とかイラクの人達がフセイン政権に反対だったという証拠を掴んで、自分の心をなだめようとしている。曖昧こそが日本人の行動規範である。

 私はこの日本人の態度、とりわけ、あまりにも醜かった小泉首相の国会答弁を暗黙の内に認める、"ある偉さ"を感じる。小泉首相は非論理的な答弁を繰り返しながら、「日本人はイラクで戦争があっても良いじゃないですか。それよりアメリカにテレビや自動車が売れたり、北朝鮮問題が解決した方が良いでしょう?」と繰り返し言外に言っていた。論理から言えば憲法違反であり、アメリカの単独軍事行動が国際協調でないことも判っている、だけれども野党の皆さん、あなたも村山元首相のように本心は違うのでしょう?と言っていた。

 日本文化というのは不思議なものである。目の前にある一つ一つのことはどうでもよい。全体として調和が採れていればそれが良いと判断する。それは世界でも類い希に
1) 一人の国民が首相のように全体を見渡して判断できる力を持っていること、
2) 日本は温帯の島国でどうなっても生きる事ぐらいはできると感覚的に感じていること
によると私は思う。

 西洋の文明は優れているようで、人間の論理的な能力より高くはならない制限がある。その点、直感を大切にする東洋、そして日本の文化は論理の力を超えて正しい方向へと進むことができる。

 さて、最後に西洋の論理を学んだ著者はどうかというと、著者は、日本は自衛の為の軍隊を持ち、かなり具体的に軍事行動範囲を限定するのが良いと思っている。

著者の修正憲法第九条
 第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。                  
 第2項 前項の目的を達するため、自衛の為の陸海空軍を保持するが、他国への先制攻撃、他国への軍隊の派遣、他国への軍事物質の供与は予防的措置を含めてあらゆる場合にもこれらを放棄する。