暴力と正義
ハツカネズミをオス一匹、メス一匹の番(つがい)でカゴの中で飼育する。人間の場合は交尾をしたからといって必ず妊娠するとは限らないが、ハツカネズミでは交尾をすると妊娠する。そこで、ブルース博士が次のような実験をした。
オスと交尾したらすぐメスはカゴの中にそのままにして、オスだけをカゴから出して、別のオスに「入れ替える」。ハツカネズミは普通なら交尾をすればメスは100%妊娠するはずであるが、この場合は子供を産まない。その理由は、メスは新しいオスが現れると受精直後のお腹の子供をおろすからであり、これをブルース効果(第一パターン)という。
もう一つの実験は、オスとメスのつがいを交尾させ、子供が産まれた瞬間に、子供はそのままにしてメスの方を入れ替える。オスは突然、自分の妻が変わり、その妻と自分の子供が一緒にいるという状態になる。そうすると、オスは子供を殺す。本当はメスだけが入れ替わっているのだが、オスはメスが変わったのだからそばにいる子供は自分の子供ではないと思う。さらにこれと反対の実験。交尾をした自分の妻、つまり妊娠して子供を生んだメスはそのままにして、生まれたての子供だけを入れ替える。そうすると、オスは妻が自分の妻であれば、他人の子供でも自分の子供と思って子殺しはしない(ブルース効果の第二パターンと言われる)。
その後の研究の成果もあって、この「子殺し」は次のようなことが原因だと考えられている。
ハツカネズミはメスだけでは力が弱く子供を満足には育てられないので、夫婦ともに協力して子供を育てる。でもそれほど生活力がないので、他人の子供を育てるほど余裕はない。そこでオスとメスの共通の「倫理」は「自分たちの子供だけでも、安全に育て子孫を残す」ということになる。
図 10 ハヌマンラングーン(左)とパタスモンキー(右)
ハヌマンラングーンというサル、これはインドにすむヤセザルの一種で、霊長類は集団性があるので、このサルも集団で生活しハツカネズミのように夫婦単位の生活ではない。サルの共通の掟に従い、オスは激しい戦いの後、その中の一頭のオスが「ボス」になって、多くのメスを伴い、「ハーレム」を作る。ボスの特権はハーレムのメスと交尾し自分の子供を作ること、そして義務は命を賭けて群れにいるメスと子供の安全を守ることである。
しかし、やがて年老い、あるいは怪我をしたりして、ボスの座を奪われる。そのときに驚くべき異変が起こる。新しいボスは群のメスに自分が新しいボスであることを知らせ、メスを従える。次に、群れにいた前のボスの子供を殺しにかかる。母親、つまり群れにいるメスは新しいボスが自分の子供を殺すのを抵抗もしないで見ている。そして前のボスの子供がすべて殺されると、母親は直ちに発情して新しいボスと交尾し、その子供を産む。
次に、「パタスモンキー」というサルは集団を作って生活し、集団はボスザル一頭とそのハーレム、つまり多くのメスザルと、まだ一人立ちできない子供のサルで構成されている。環境の厳しいところに棲むパタスモンキーのボスザルはだいたい平均2年という短じかい期間にその地位を交代する。毎年、群(むれ)に侵入を試みるボスザルは3匹から5匹程度で、大きな集団を持とうとすると、7から8匹程度のオスを撃退しなければならない。しかもパタスモンキーはサルの中でも飛び抜けて発達した犬歯を持っていて、ボスザルの地位をめぐる戦いは生きるか死ぬかの戦いで、戦いに負けたサルは再び立ち上がれないほどの傷を負う。
ボスザルの地位をめぐるこの戦いは、オスだけの宿命で、観戦するメスにとってはいわば「どうでも良い」戦いである。どうせパタスモンキーの世界では数年に一度はボスザルが交代するのだし、どのオスザルがボスになろうともメスにとっては状況は変化しない。「なに、馬鹿なことやってるの?」といった具合で、できるだけ力の強い、判断力のあるオスに勝ってもらいたい、そうすれば、餌も増えるし、群は安全、そして自分が産んだ子供も健やかに育つ。また、メスは自分の子供を産む数が制限されているので、「ボス」になっても自分のDNAを引き継ぐ子供の数は殆ど変わらないが、オスはボスになるかならないかで「子孫大勢」か「なし」の差ができる。オスの戦いは生殖のメカニズムから合理的である。
ハツカネズミのブルース効果と二つのサルの習慣から、生物の二大行動規範(倫理)が判る。一つは「自分の子孫を残すこと」であり、二つ目は「暴力が正義」である。この二つの規範は種の保存という大きな目的を達成する上では全く合理的である。人間以外の生物の規範(倫理)は人間に適応できるのか?もしくは参考になるのか?このことには賛否両論がある。
10年ほど前、湾岸戦争というのが起こった。この戦争はイラクのフセイン大統領という、アメリカ嫌いで暴力好きな大統領が起こした戦争と言われている。フセイン大統領の言い分は「もともとクエートという国はイラクのものだった、それを昔、欧米人がきて暴力で占領し、クエートと言う国を作ったのだ」というものである。それはそれで一理あるが、軍隊という名の暴力集団を持つアメリカは「多国籍軍」という組織を作って戦った。日本ではイラクの暴力は悪い暴力であり、アメリカの暴力は「正しい暴力」と考えるのが一般的で、アメリカ兵が死ぬと問題になりイラクの兵士が戦死しても知らん顔だった。アメリカの暴力が正義の暴力であるのは、アメリカがイラクより強いからである。つまり、アメリカが勝つことは「正義は必ず勝つ」と言う信念を満足させる。しかし、正義が勝つのではなく、腕力の強い方が勝ち、腕力の強い方を正義と定義していると考えるべきだろう。
このように人間社会の倫理も「暴力」を基盤にしている場合が多い。また自分自身の行動を反省しても動物としての自分が顔を出していることも認めざるを得ない。
1925年にアメリカ・テネシー州デイトンで起こった「スコープス事件」は有名な事件である。当時学校の教師であったジョン・スコープス(John T. Scopes1900-70)が授業中にダーウィンの「進化論」を生徒に教えたかどで訴えられた。日本の常識ではダーウィンの進化論は「学説」であり、しかもヒトがサルから進化したという考え方は正しいものとされている。
図 11 スコープス事件の被告スコープス
この事件は当事者達が最初から仕組んでいたこともあるが、テネシー州ばかりでなくアメリカ全土で話題になり、その年の7月10日から20日に裁判が開かれ、教師のスコープスは、「進化論を学校で教えたかどで有罪」という判決を受けた。アメリカの中南部ではキリスト教の信仰が厚く、今でも法律で進化論を教えることを禁止している町が多く、つい最近のレーガン大統領の時代にも「生物の授業で進化論を教えるなら、キリスト教の創造紀も同時に教えるべきだ」と言う運動が盛んに行われたことも知られている。たしかに創世記に従えば神がこの様を作られたのは「紀元前4,004年10月23日の午前9時」とはっきりと判っている。
図 12 機関車を正面衝突させた瞬間
進化論の争いはスコープス事件以来も続き、論争に疲れ果ててしまったアメリカでは、リノイ州オーロラ市で中央博覧会が行われたのを機会に「進化論と反進化論の決闘」をすることになった。中央博覧会の会場に線路を引き、その上に大きな機関車「進化号」と「非進化号」を据え、この二両の汽車にそれぞれ二両の客車をつけてお互いの方向へ走らせた。このときの機関車の時速は48キロ。お互いの速度は96キロであった。衝突して脱線したほうが負けで、負けの方の説が誤っているという決め方である。つまり「正義は勝つ」「暴力は正義」という判断基準である。
実際は衝突直後に両方の汽車が脱線して勝負はお預けになった。
「この世の中は神が支配しており、神は正しい方に味方するはずだ」、つまり正義は勝つと言う考えに基づけば、決闘をすれば神は正しい方を助けるに違いない、人間の考えなどは神様に比べれば、浅はかなものなのだから、考えたり議論したりするより、決闘して神様に聞けばよいじゃないか、と言うわけだ。
トルストイの「戦争と平和」にも決闘場面が出てくる。ピストルが数段巧いごろつきに、ピストルを初めて握る平和主義者で「正義」のピエールが決闘を挑むシーン。トルストイはピストルを握ったこともないピエールが勝つ筋書きを作り、読者も「正義」のピエールが「暴力主義のごろつき」と決闘した勇気と「暴力」でやっつけたことで、喝采する。
先ほどのイラク戦争の場合でもそうである。「強い方が正義」というのを現代風の理由付けをすれば「強いと言うことは結局みんなの支持を得ていることであるので、それが正しい」と言うことになる。第二次世界大戦で日本が負けたのは日本が「悪い」からであって「弱い」からではない。日本人は深く反省して、天皇制を止め、軍を解散し、ひたすら経済のみを追求すべきである。それに対して「勝った」アメリカは「強い」から勝ったり、「資源が豊富で科学技術が上だから」勝ったりしたのではない。神様が「正義のアメリカ」を勝たせたのであるから、勝ったほうのアメリカは戦争をし、原子爆弾を落としても大統領が虐殺罪で銃殺になったりしない。
私たちも暴力が正義として行動していないだろうか?「倫理」が「暴力を正義」を基礎にしていないだろうか?人間は生物の中でも「頭脳の叡智」によって暴力から脱離できる種なのか、あるいは暴力を正当化する言語を有しているだけか?物事を一面的に見てその日、その日を暮らすことはできるし、多くの場合、私たちの生活はそのように送られる。その中で何回かは深く生命倫理や人間の叡智に考えを到らせることは、それだけ人生を豊かにするものだ。