教育勅語と国家




 久しぶりに悪名高き「教育勅語」を読んでみた。なんて書いてあったのだろう?

「 爾臣民,父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ,朋友相信シ,恭儉己レヲ持シ,博愛衆ニ及ホシ,學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ,徳器ヲ成就シ,進テ公益ヲ廣メ,世務ヲ開キ,常ニ國憲ヲ重シ,國法ニ遵ヒ,一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ.是ノ如キハ,獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン.」.
 
 漢文調で頭が痛くなるが、次のような内容である。

「父母に孝行し、兄弟と仲良くし、夫婦仲は良く、友達を信じて胸襟を開き、社会の人や見知らぬ相手でも親切にし、学問や修業をして自分の能力を発揮し、人格を形成して、社会の役に立ち、皆に評価され、憲法や法律を守り、一旦、国が危なくなったら率先して義勇軍に参加して日本国と天皇を守ろう。日本人はこれまでもずっとそうしてきたのだから、祖先の努力を無駄にしないよう」
 
 実にもっともなことが書いてあり、もしこれが実践できていれば、成人式も正常に営まれるだろう。でも、現在では「日本を戦争の渦に巻き込み悲惨な目に遭わせた悪の権化、それが教育勅語だ」と言われている。

 一方、現在の教育基本法には教育の目的をはっきりと書いてある。こちらはよい子の代表。

「第一条(教育の目的)
 教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない.」

 さすが名文でしかも理想的な教育像のように見える。でも家族とか親兄弟友人という言葉は出てこない。第二次世界大戦の大きな傷がそうさせたのだろう。

 さらに、次の文章はある方が最近、お話になっているものから、出典がわかりにくいように配慮して掲載した。現代の日本の大学教育、特に科学技術系の教育についての「国民的コンセンサス」とも言える内容である。

「大学生の、特に理数系の学力低下は技術立国日本にとっては極めて深刻な事態である。それを解決するための最も効果的な施策は大学の教養課程を廃止し、専門基礎知識を集中的に高めることだと考える。高校教育では、数学、物理、政治経済、日本史、世界史、古文、漢文など幅広い比較的高等な授業を受けるが、これらの幅広い知識が社会人になってから実際に役に立つ可能性は皆無に近い。」
 
 この3つは、教育勅語が明治23年10月30日に発布、それに代わり教育基本法が昭和22(1947)年3月31日に施行、そして最後の文章は2004年時点での教育に関する一般的な考え方である。この歴史的推移と「教育と国家、個人」という事に注目すると、誰が見ても「教育と国家」が直結しているのは2004年版の最後の文章で、教育勅語と教育基本法は個人が中心である。

 なにしろ「技術立国」だから国家のために役立つ技術者を育てろ!教養教育などと詰まらないことを言っていたら、国際的にも負けてしまう。事実、大学はゆとりの教育だとか、人格形成などと寝ぼけたことを言っているし、研究はコストも考えていない。だから、学生の学力は低下しているじゃないか!とのお叱りである。

 これに対して奇妙なことに、国家主義の原点のように言われている教育勅語はそうではない。教育勅語の文章をそのまま読んでみると、まず親、兄弟、夫婦、そして友人、社会、学問、人格、遵法精神ときて、最後に「一旦、国が危うくなったら」、その時は己を捨てろと言っている。この全文を見る限り、別に国家主義というほどのものではない。教育基本法の言う「平和的な国家及び社会の形成者として」というのとほぼ同じである。ただ、戦前は天皇を統治者として日本を運営していたので、最終的に国家とは天皇を指している。

 国家体制は教育、つまり教育勅語の問題ではなく国の体制を一旦決めれば、最終的に国民の合意による国家を保持する目的と合致させる必要がある。だから、「天皇のために巳を捨てろ」という表現は、教育の概念とは一線を画して解釈する必要がある。

 ここまで、戦後の民主教育が「是」とすること、つまり「教育は国家の為ではなく、個人のために行わなければならない」「個人の集合体が国家であって、国家が先に来るのではない」という概念で論を進めてきた。

 しかし、国家が国民のためにあるのか、国民が国家のために奉仕するのかはそれほど簡単な問題ではない。

 近い歴史を振り返ってみても、19世紀以来、ヨーロッパ、アメリカの暴虐は著しく、アジア・アフリカの諸国はほとんど全部が欧米の植民地になった。植民地を免れた国は、風土病が恐れられたエチオピア、外交交渉で半独立を維持したシャム、そして完全に武力で独立していた日本の3カ国だけであった。ヨーロッパ、アメリカはその道徳や文化でアジア・アフリカの諸国を制圧したのではない。軍事力で無理やり植民地にしたのだ。それはガンジーが無抵抗主義でインドを独立に導いた歴史を勉強するとよくわかる。きわめて悪どい悲惨な支配だった。



図 1 20世紀の植民地地図



 そのような時に、民主主義などと言っていたら、忽ち日本はヨーロッパかアメリカの餌食になっていただろう。その選択だったのである。だから、天皇制が正しかったかどうかは、冷静な議論が必要とされる。まして、教育勅語については、「国家のための教育」と言うほどの内容ではない。

 それに対して2004年の一般的論評はなんと言うことだろう?「技術立国」のために優れた技術者を作り、その人達の人格形成などはどうでもよいというのだから、教育勅語どころではない。このような論評は専門大学院でも、日本では今、一番権威のある首相の諮問機関である総合科学技術会議でも同様である。現在は「国家のために教育する時代」である。

 事実、大学の教養教育はほぼ全滅である。教養課程の放棄、低学年からの専門科目の教育、専門科目履修最優先の卒業制度など、大学は人格形成から職業訓練校に変貌している。学生もまた、職業のために大学に入ってくる。

 ・・・いや、著者は、カッカとなってしまった。少し冷静になって一歩下がってみよう。

 旧約聖書には国家の始まりについて次のように記録している。
 幾つかの村の男達がある村の長のところに出向いて言った。
「お願いですから、王様になってください。そうしないと、わっしらはいつも異民族の襲撃で皆殺しになったり、収穫が台無しになったりするのを我慢しなければなりません」
 それを聞いてその長。
「いや、お断りする。儂が王様になったら皆の衆の家族も収穫も安全になるとお思いだろうが、良いことだけではない。儂は皆の衆の息子を取り上げて兵隊にする。その兵隊は異国で死ぬだろう。皆の衆の娘を後宮に呼び、儂の妾にするだろう。そして官吏を雇い皆の衆から税金を取ることになる。そうしたら、皆の衆は儂を恨むだろう。」
 それを聞いてみんなはこう言った。
「承知しております。息子も娘も差し上げます。わっしらにはそれしかないのです。」

 国家とはそういうものだった。今でも政情が安定していないとアフガニスタンのようにアメリカ軍の爆撃を喰う。それは昔も今も同じであり、日本の明治時代のようにアジア・アフリカでただ一カ国だけが独立しているという状態では軍事に重点を置かざるを得ない。犠牲はあったが、私は明治の体制を支持する。

 ところで現代はどうだろうか?日本が高度成長に入る前、日本の国富は30兆円だった。それが今は100倍の3000兆円。世界でも一人当たりの所得は1,2を争い、平均寿命は世界一である。それでも「技術立国だから、若者に歴史を教えずに、技術だけ教えろ」というのだから、一体、どういう社会を「目標」としているのだろうか?

 40年前、国富が30兆円の時、日本人の目標は何兆円だったのだろうか?「所得倍増」というなら60兆円で打ち止めであるし、もし10倍なら300兆円であるが、現在は3000兆円である。

・ ・・ここまで快速で論を進めてきたが、少し掘り下げてみたい。

 今、心の時代という。環境が大切、自然との共生とも言う。確かに3000兆円の国富の威力で私たちの生活はほぼ目標とするところまで来ている。日本社会は現在、未曾有の不景気の中にいるが衣食住はほぼ満足すべき状態にあり、趣味や教育なども満足である。もちろん、日本人、一人一人が王侯貴族の生活はできないが、質の高い人生を送ることはできる。

 でも貧弱である。なにが貧弱かというと、まずテレビが面白くない。新聞が自説を面に出し過ぎる。若者を見ても頼もしく思えない。街は乱雑にビルが建ち並び、作り物の「憩いの街」が作られている。歩く人は眉間にしわを寄せて足早に過ぎ、むこうから人が来ても決してよけるようなことはしない。

 お金はあるが質は低い・・・簡単に言えば、国富を100倍にして私たちが手に入れたものはそういうものだった。なぜ、そうなったのか?個人の教育が疎かになり、書物一つで10時間、コーヒー一杯で2時間という豊かな時間を過ごすだけの教養が身に付かなかった。

 貧乏なころ、ゲーテを読んだ。判らないなりにあれこれと議論し友情を深めた。昔を懐かしむのではない、今の学生もそれを望んでいる。著者は現役の大学の教官で、学生の希望はよく把握している。現代の学生が文化を語れないのは、本人の問題ではない。私たちの年配の指導層が大学から教養課程を無くし、テレビゲームを供給し、叱る先生を追放したからに他ならない。

 人類が誕生してから600万年、四大文明のそうめい期から1万年。人間はずっと「お金」を軽蔑してきた。もちろん誰もが、そして昔も今も物質が豊富にある方が豊だ。でもそれより大切なものがあることを知っていた。それはお金を軽蔑し、お金を稼ぐ人を馬鹿にすることである。それは一見、努力を尊ぶことと相反するように見えるが、実はそうではない。

 私たちは「教育は国家のためではなく、個人だ」と固く信じているのに、「技術立国のために教養課程をなくす」ことに賛成している。いや、賛成していない人も時代に流されている。生産に熱中しなければならないことを知っていて増産に汗を流す。私たちの魂はそこまで来ているのだ。

 教育勅語の時代、あの時代はヨーロッパとアメリカの暴力に怯え、貧乏だった。それでも第一に親兄弟夫婦、第二に友人社会学問だった。

 著者は思う・・・遅くはない。日本という風土はそれほど捨てたものでもない。一国も早く「お金」を馬鹿にしよう!「お金持ち」を軽蔑しよう!それが何より的を得た解決策だと信じる。

 スポーツ選手の年俸を報道するのは止めたい。この風習が始まったのも最近である。高い年俸の選手を馬鹿にしよう!テレビは値段の高いが故に報道する料理番組を取り下げて欲しい。お金を持つことは恥ずかしいことだ、高い食事や装飾品は心の貧しさを示すとはっきりした方向を向こう!

 それの先頭はもちろん、貧乏な大学教授から。