仏様を信じられなくなったお坊さん
小さい頃から信心ごころが強く、その思いかなってお坊さんになった人がいたとする。その人がとあることから、他の宗教の神様を信じるようになったり、仏様を信じられなくなった時、そのお坊さんはそれでも説教を続けることができるだろうか?自分が仏様を信じられないのだから、まして他人に仏様を信じなさいと言うことはできない。
私は工学を専攻して、現在、大学の教官である。工学は自然の原理を応用して人類の福利に貢献する学問と信じてこれまで人生を送り、またこれからも送ろうとしている。でも、工学は20世紀にかなり大きな進歩をとげ、その進歩は文学や芸術などとバランスがあわなくなってきている。本当はここで工学の進歩を一息つかないと、社会はひずみそうである。
工学を熱心に進めるためには、今、自分が進めている工学が社会の役に立つという信念が必要であり、信念は自分の心の中に芽生えるので、それを誤魔化すことはできない。考えてみると、第二次世界大戦はそれまでになく多くの人達を犠牲にした。原子爆弾はもちろんであるが、B29によるヨーロッパや日本の都市に対する無差別爆撃など多くの残酷なことが起こった。その原因の一つに工学が大量に殺戮できる機械や爆薬を発明したからである。
良く、化学兵器のような残虐なものと言われるが、犠牲になった人にとっては化学兵器で窒息するのも焼夷弾で焼かれるのも、大きな違いはない。人生の夢も家族もみんな失うのだ。
環境問題が勃発してから、私はどんなに考えても工学を発展させて将来の社会を豊かに維持する解を見いだすことができないでいる。現代の人間が使う物質の9割以上は、発達した人間の精神活動を満足するために使用される。このことを判りやすく言えば、「生きるために必要な時間は10分の1もなく、それ以外は本来は暇で、この暇な時間を何とかしようとモノを大量に使っている」ということになる。
もし、人間がその精神活動を満足させるために、物質ではなく精神活動そのものを使うことができたら、使用するものは10分の1に減り、環境問題は起こらない。
だから、私は仏様を信じられなくなったお坊さんのようなものであり、工学の講義が難しい。