本音トークと質問の勇気

 人はさまざまな思いを心に抱き、襞を持っている。その多くは悲しみであり、藻掻きでもある。それが判るから友は素晴らしい。それは長い間、同じ境遇、同じ時代の中で生きてきたからである。

 不思議なことに友の心の襞は、今では遠くに離れているのに判る。何かちょっとした便りがあれば、それがどんなに複雑なことでも、友の気持ちは手に取るように判るから不思議である。

 ところで、日本人は質問をしない。相手の顔を見てニコリと笑い、それですべてを理解する。外国人から見ると日本人の笑顔は不気味に見えると言われるが、それは相手がその瞬間に自分のすべてを見られるように思うのに、自分はさっぱり相手が何を考えているのか判らないからであろう。

 日本人のこの特質が優れたものか、あるいは日本の後進性そのものであるかは見方による。もちろんヨーロッパ流の部分主義、論理主義からは実に不合理なことと解釈される。

 確かに、直感的に心でわかるというコミュニケーションの方法は仲間を作るのには良いが、知らぬ人との間やそれまでの環境が違う人との交際にはあまり良い方法ではない。

 日本は島国で単一民族、そして隣村との間には厳しい峠が交流を阻んできたから人生の大半は顔見知りの人とのつき合いであった。会津の山は深い。町から1日ほど南に歩くと厳しい峠と鬱蒼とした森に覆われた部落に出る。江戸時代はむろんのこと明治大正でもその部落の女性で一生の内、一度でも峠を越えて町にでることができた人は少なかった。

 そのような生活の中では外から来た人には、その人がどんな人かは別にして、最大限の歓待をして珍しい様子を観察することに終始したのである。山間の人にとっては、所詮、時間的にも人間的にも言語でコミュニケーションすることは不可能だった。好奇心が旺盛で直感力の優れた日本人としては異人との最善の接触方法であった。

現代の日本の文化はヨーロッパをその発祥の地にして生まれて来たものは多い。江戸時代まで続いてきた日本文化が全滅したわけではないが、すでに日本文化よりヨーロッパ文化の方が数の上では多くなっている。

そしてヨーロッパは異民族の争いと交流の中で文化を発達させてきた。だから争いと論理の世界である。あの狭いヨーロッパにトルコ人、ギリシャ人、イタリア人、スペイン人、フランス人、ドイツ人、北ヨーロッパの国々の人、そしてハンガリー、ルーマニアも民族は違う。

 アルプスやピレネーなどはあるけれど、おおよそは平らで一つの国の中ばかりではなく異民族の間にも山や川はない。そんな中での生活には防衛、自己、論理、コミュニケーションが発達したのも無理はない。

 最近、「本音トーク」というのがはやっている。本音トークと言うのはどういうものだろうか?とインターネットを見てみたら膨大な活動が行われている。その内の一つに「本音トークで守るべきこと」というものがあった。

1. ここで話されたことは決して口外しないこと
2. 自分の考えていることはどんなことでも、どんな言い方でも話して良い
3. 1人の人が話し始めたら最後まで聞く

 この規則の3番目は話をする時の基本的な礼儀だから本音トークとは関係がないけれど、コミュニケーションに慣れていない人には念を押しておいた方が良いし、話す方も全体の時間を考えて、自分が使える時の限界をよく知らなければならないので、案外、守るのは難しい。

 2番目が本音トークの神髄なのだが、「どんなことでも」「どんな言い方でも」というのは、コミュニケーションのルールとしては適当ではない。

 人間はそれがたとえ本音であっても、どんなことでも言って良いことと、言ってはいけないことがある。相手を脅迫すること、出生、性別、信条などに関わることで話すことに無関係のものも口にしてはいけない。相手を侮辱することも嫌われるが、それはやや倫理的な制限で、論理として禁止されるのは、「脅迫」と「相手の出生などによる差別」である。

 でも、脅迫がいけないのは当然であるが、出生、性別、信条などはそれを言わないと本音にはならないことが多い。 「あの県の出身者はどうも」とか「女はとかく・・・」と言わないと本音トークにならない場合もあるからやっかいである。

 だからこの本音トークでは「何でも良い」「どんな言い方でも良い」というように決めているのだろう。確かに「女だから」と言われたら、それに対して冷静に反論した方がコミュニケーションの実をあげることもできる。だからこのような規則をおいているのであろう。

 そして1番目の規則「ここで話されたことは口外しない」というのも難しい。本音トークにでる出席者が人格者で人を傷つけたり興味本位で話をしないと決まっているならこのような規則はいらないが、そのようなメンバーだけで本音トークをすることはほとんどないだろう。

 多くの場合は真剣な話し合いでも外に漏れるものである。それも話し合いの経過や結果がそのまま正確に伝わるなら別だが、多くは正確ではない。 むしろ人間の性質には難しいところがあり、話し合いのことを微妙に変えて伝えながら憎らしい人を陥れようとしたり、自分が有利になろうとするものである。特にその議論が「勝ち負け」になったときには、負けた人はほとんど間違いなく会議の様子を少し違えて表現するに相違ないからである。

 人間らしいといえば人間らしい。そこで1番のような規則も有益となる。本音トークの規則は3つとも合理的で理屈に合っていることがわかる。

 でも、私はこのような本音トークについて次のように考えている。

 本当は「本音トーク」というものは特別な時をのぞいてあまりやらない方が良いと思う。本音というのは普段は表面に出せないことであるから、理屈に合わないとか、感情の要素がかなり高いものである。そのようなものを他人と話すとろくなことはない。多くは喧嘩になるだけである。

 でも現代の日本で「本音」といっているのは、実は「本音」ではなく「習慣、ルール、勇気などが無いために質問ができない人たちの間で誤解が生じた心」であることがほとんどである。

 もし疑問が起こったらその場で質問する習慣が存在し、その質問がルールに沿っており、そして質問する人も答える人も自己が確立していて深刻なことを聞かれても心が乱れない習慣や胆力を持っているなら「本音」というものの幅は問題にならないほど小さくなるだろう。

 でも現実には「相手を傷つけてはいけない」「こんなことを聞くのは失礼だ」「聞かなくてもたぶん、こんなことだろう」ということを積み重ねて引き返すことができないほど拗(こじ)れていることがほとんどだからである。

 そして事実として怖いことは、言葉のアヤだけで相手が感情的に反発し、意外な方向に行くことが多いからである。つまり論理的な訓練を受けていない人の場合、相手の言葉の意味より、そこから伝わってくる微妙なニュアンスの方をむしろ重視するからである。これを「勘ぐり」という。

 私は日本が好きで日本人的であるが、それでいてアメリカ人から「アメリカ人よりアメリカ人」と言われるほどドライなところも持っている。だから議論を避けて直感でわかるということはあまり好きではない。できれば丁寧に質問して相手の考えていることを理解したいと思う。

 そして私の特徴はというと「相手が見かけ上、どんな人でも言ったことだけで判断する」という信念で生きてきた。私の人生の中では「あの人はソンなことを言っていますが、あれは嘘ですよ」と私に忠告してくれる人もおられたし、そのように私に忠告してくれる人の多くは私の見方だった。

 でも、結局、この歳になるまで「相手の言ったこと通りに信じる」ということだけを守って人生を送ってきた。私は「その人の行動が一番、二番が口に出したこと」としたいからである。相手の言ったことを信じるという原則を変える場合はその人が口で言ったことと行動が違う時だけにしている。

 ところで私は科学者だが、本音を言わず、質問をしない科学というのはあり得るだろうか?本音を言えず、質問ができない科学者などありえるだろうか?日本人は科学者になれるのだろうか?

 私と接する多くの学生は、明治からかなりの時間を経たのに、論理とコミュニケーションより、直感と笑顔を優先する。それは大学3年までの強力な日本式教育によって学生の心に確固たる判断基準、つまりその人の言語から伝わる確固たる論理より、その人の言葉の中に潜むわずかな心理的兆候の方が真実を多く含むという経験から来る確信ができているからである。

 社会から「本音トーク」がなくなり「建前と本音」という日本式社交術が無くなる日が来るだろうか?小さいグループ内での暗黙の約束、グループの外には判らない数多くのしきたり、それは日本社会の深流として大きな流れを作り出している。

 一生かけても行けなかった会津の町にクーラーの効いた車で快適に一時間ほど走れば都会に行けるようになった時代。そろそろ、「本音トーク」というものを止める勇気がいるだろう。

(終わり)