人間の生き方には次の3つがあると時々学生と話します。
1. 弱肉強食で生きる
2. 曖昧に生きる
3. 信念に生きる
1.の場合は目的を達成するのに苦労し、最初の目的を達成したらさらに高い目的がでるので、何時までも満足感が得られないということが昔から言われ続けています。その原因は人間は頭で考えるので動物と異なり、欲望に限界が無くなることによると考えられています。動物は「十分な食事と自分の子孫」があれば、それで肉体の欲求は完全に満足しますが、人間の頭脳の欲望は際限がないからです。ある財界の幹部は90才で275億円を残して死にました。その人が100才まで生きるか、もしくは元気でお金を使えるとすると、あと3650日、1日に753万円使い続けなければなりません。毎日毎日そんなことはできるはずもなく、その人は財界の幹部なのにそんな計算もできないのかというとそれが人間の欲望だからという訳です。戦争などでも同じ事が繰り返され「弱肉強食」に生きた人は悲惨な結末を迎えるのが普通です。
3.の場合はイエス、ガンジーなどがそうですが、イエスは3年で絞首刑になりましたし、ガンジーも暗殺されました。社会は信念をもって生きることを許さないのです。このことも繰り返し言われていますが、その原因ははっきりしていません。人間という種を保つための何らかの防御機構と考えられます。
そこで、多くの人は1や3をある程度頭に入れながら、2の生活をすることになります。学生にときどきこの話をした後、
「信念を貫けば(自分の心を満足させれば)、寿命は3年。絞首刑にならなければ意地悪をされるか、なにか損害はある」
と言っています。個人の心の満足に社会はなにか代償を求めるのでしょう。
しかし、人間はそれでも心の満足を求めるもので、自らのこころを偽って生きる人生は苦しいものです。多くのサラリーマンの苦しそうな肩がそれを示しています。
私は若い人に次のようにアドバイスしたいと思います。
1. 生きる必要があるから、生活の糧を得る手段を確保する
2. なぜ、生きるか?は問わない
3. なぜ生きるかは自分が自然に死ぬときに考える
4. 生きるための毎日の中で自分の魂を忘れない
5. そのうち、機会が来る
6. その時からが自分の人生が始る
7. 一番、運が悪くても定年後にそれが来る
8. それまでに人生はどういう物かを知ることができる
翻って自分の人生を考えると、高度成長期に育ったので、それほどの社会的矛盾の中にはいませんでしたが、それでも学生時代は自殺しようと悩んだこともありました。32才になって突然、「悟り」を開くことができ、その後は「人に期待に添いながら、自分の好きなことに全力を挙げる」ことができるようになりました。つまりdedication(献身)できるようになったのです。若い頃の私は「人の期待にそう」ということで1.と3.の両方を満足していたように感じられます。
40才終わりに私の大学への移動が突然、行なわれました。私の心は「そんなものかな」ということでした。「なぜ、会社から大学に移ったのか?」と言われても明確には答えられなかったのは事実です。「どちらでもあまり変わりはない。期待される方に行こう」という感じでした。こうして両方を経験してみると確かに大学の方が自分の魂を満足させることができるような気もしますが、それは大学は教授という地位でしか経験していないというつまらないことが原因しているかも知れません。
1. 弱肉強食で生きる
2. 曖昧に生きる
3. 信念に生きる
1.の場合は目的を達成するのに苦労し、最初の目的を達成したらさらに高い目的がでるので、何時までも満足感が得られないということが昔から言われ続けています。その原因は人間は頭で考えるので動物と異なり、欲望に限界が無くなることによると考えられています。動物は「十分な食事と自分の子孫」があれば、それで肉体の欲求は完全に満足しますが、人間の頭脳の欲望は際限がないからです。ある財界の幹部は90才で275億円を残して死にました。その人が100才まで生きるか、もしくは元気でお金を使えるとすると、あと3650日、1日に753万円使い続けなければなりません。毎日毎日そんなことはできるはずもなく、その人は財界の幹部なのにそんな計算もできないのかというとそれが人間の欲望だからという訳です。戦争などでも同じ事が繰り返され「弱肉強食」に生きた人は悲惨な結末を迎えるのが普通です。
3.の場合はイエス、ガンジーなどがそうですが、イエスは3年で絞首刑になりましたし、ガンジーも暗殺されました。社会は信念をもって生きることを許さないのです。このことも繰り返し言われていますが、その原因ははっきりしていません。人間という種を保つための何らかの防御機構と考えられます。
そこで、多くの人は1や3をある程度頭に入れながら、2の生活をすることになります。学生にときどきこの話をした後、
「信念を貫けば(自分の心を満足させれば)、寿命は3年。絞首刑にならなければ意地悪をされるか、なにか損害はある」
と言っています。個人の心の満足に社会はなにか代償を求めるのでしょう。
しかし、人間はそれでも心の満足を求めるもので、自らのこころを偽って生きる人生は苦しいものです。多くのサラリーマンの苦しそうな肩がそれを示しています。
私は若い人に次のようにアドバイスしたいと思います。
1. 生きる必要があるから、生活の糧を得る手段を確保する
2. なぜ、生きるか?は問わない
3. なぜ生きるかは自分が自然に死ぬときに考える
4. 生きるための毎日の中で自分の魂を忘れない
5. そのうち、機会が来る
6. その時からが自分の人生が始る
7. 一番、運が悪くても定年後にそれが来る
8. それまでに人生はどういう物かを知ることができる
翻って自分の人生を考えると、高度成長期に育ったので、それほどの社会的矛盾の中にはいませんでしたが、それでも学生時代は自殺しようと悩んだこともありました。32才になって突然、「悟り」を開くことができ、その後は「人に期待に添いながら、自分の好きなことに全力を挙げる」ことができるようになりました。つまりdedication(献身)できるようになったのです。若い頃の私は「人の期待にそう」ということで1.と3.の両方を満足していたように感じられます。
40才終わりに私の大学への移動が突然、行なわれました。私の心は「そんなものかな」ということでした。「なぜ、会社から大学に移ったのか?」と言われても明確には答えられなかったのは事実です。「どちらでもあまり変わりはない。期待される方に行こう」という感じでした。こうして両方を経験してみると確かに大学の方が自分の魂を満足させることができるような気もしますが、それは大学は教授という地位でしか経験していないというつまらないことが原因しているかも知れません。