後ろから押すものは?
低血圧の人は朝が辛いと言う。私は最近でこそ、少し血圧が上昇気味だが、昔は上が100を少し超えるぐらいで「低血圧」の部類だった。それでも比較的、朝は強く、学生時代から朝起きるのにそれほど辛いことはなかった。
友達がみんな朝が辛いと言っているのに、なぜ自分が普通に起きることができるのだろうと少し疑問に思ったこともあったが、それはそんなものだ、自分は朝は強いんだと錯覚していたのだった。
そのうち、ビジネスマンになって活躍しだした頃には、自分はずいぶん、意思が強い人間だ、何かをしようと思ったらそれをすることができる強い意志を持っている、そう言う性質なのだ、とまた錯覚していた。でも私は自分の意見をはっきり言うので、いわば「強い人間」であり、周囲もまた自分もそう思っていた。
そんな若い頃の「自分」というものを「自分」で見つめることができるようになったのは、かなり後のことだったが、ある時、気持ちに余裕がでてきて、「自分」というものをじっと見つめることができるようになってきた。今では「先生」という職業をしているが、ときどき、学生のレポートで「先生はご自分を外から見ているのですね」と感想を書かれることがある。でもそれは若い頃はできなかったし、自分を外からみるということ自体が頭に無かったと思う。
ともかく、自分を少し離れて見ることができるようになって間もなく、「辛いからできない」ことと、「辛いけれどできる」と言うことの差が判ったのだ!!
「自分はこれほど意思が強いのに、なぜ、あれはできなかったのだろうか?」というのが最初の疑問だった。そして意思が強いと思っていたのに、案外、できないことが多いのに気がつき、それまで、そんな簡単なことにも気がつかなかったのは、むしろ自分の意思が強いのではなく、性格的に楽天的だったので、辛いからしなかったことをあまり覚えていないだけだったことにも気がついた。
そしてもう一つ、
「辛くてもできた」という場合は「後押し」があり、「辛くてできなかった」というのは「後押し」が無かったことに気がついたのだ!!
「できた」「できない」は「辛いから」ではなく、辛さは同じなのですが、「後押しがあるか無いか」だったのだ。
私はその頃、テニスをやっていた。もちろん下手なテニスだったが、チーム自体は全日本にも出ようとする選手がいて、監督は一流だった。監督は私のことを「学問が良くできる人」ということで尊敬してくれていたので、練習も私が疲れたら「やめましょうか?」などと言ってくれていた。
「後押し」に気がついた私は、監督にこう言った。
「監督、私がへばったら遠慮無く叱ってください」
テニスの練習は辛い。今では10分もやるとへたばるが、当時は1時間程度は連続してできたと思う。それでも辛くなると動きが鈍くなる。追いつける時も一歩が出ないし、特に前後の動きが辛くなる。そうするとついついサボり、諦める。辛くてしかたがないのだ。ハーハーと地面に向かって荒い息をして休む。その間、監督は玉を出すのを待ってくれる。そんなことをしてくれるのは私だけだった。
「武田さん、行きますよ!」
初めて、丁寧だけれど監督の叱咤が飛んだ。私はハッとして顔を上げ、
「お願いします!」
と言ってラケットを構えた。できる!!
いつもなら、まだハーハーと息をして動きを止めているのに、監督の出すボールを追いかけることができるのだ!そしてそれほど辛くない??今まで、何だったのだ??
もちろん、その後、私のテニスの腕は少し上達した。そして、2つのことを学んだ。
1) 自分が辛くてできない時、それは「辛いからできない」のではなく「後押しがないからできない」
2) 辛いからといって甘えていたら、ダメになってしまう。他の人はこれまで監督に叱られるから上達していたのだ
それからというもの、私は自分は意思が強いのではなく、何かの後押しがあれば辛いことでもできることを知り、自分自身で後押しを作るようになった。監督に「叱ってくれ」というのも後押しだったし、今の私は文書を書くのが仕事だから、自分で期限付きの執筆を受けて、それを励みにして論文や随筆を書いている。
私は文書を書くのが好きだ。だから周囲の人は私は後押しなしに書いていると思っているかも知れない。でも気軽に書いてもよい文章だけなら自分の気分でかける。でも論文のように肩の張るものはどうしても遅れる。でも期限という「後押し」があれば、何とか書くことができるのだ。好きなことでも後押しがいる。
人間、後押しが無くても何かをしていける人はいるのだろうか?それほど意思の強い人はいるのだろうか?
中学校時代、一日も休まず遅れず学校に行くことができたのは、親の叱咤激励と、そしてなんと言っても「皆勤賞」があるからだ。それが後押しになっている。風邪も引く、朝、お腹の調子が悪いときもある、もし叱咤激励がなく、皆勤賞がなければ、3年間も持つだろうか?
先生が怒ってくださることも「後押し」、友達の目も「後押し」だ。皆勤賞の表彰では「あなたは、頑張って3年間、無遅刻で学校に通いました。」と表彰されるが、実は自分の力ではないような気もする。皆勤賞を取れたのは「私」であろうか「後押し」だろうか?少しは自分の意思があったかも知れないが、とてもそれだけでは皆勤賞は無理だっただろう。
朝、起きて食事を作るのは実に面倒だ。少しでも長く寝ていたいし、簡単なものですませたい。だから、一人で住んでいて一番、辛いのは朝食だ。どうしてもしっかり作る気にならない。
そんな私でも下宿をしている娘が風邪を引き、たまたま出張の都合で娘のところに寄った時など、前日は遅く、その日は重要な講演があっても、自分の体調が悪くても、娘にハムエッグと暖かいスープを飲ませてやりたいと思うと、普段より早く起き、寒くて暗い中でも慣れぬ手つきで朝ご飯の準備ができる。とても一人ではできない。誰かの為ならできる。
大学生になると自由になる。一緒に住んでいる母親も、その日に講義があるか、何時から講義かを知らない。親からの叱咤激励もないし、サボっても怒られない。講義に遅れて教室に入ることなど高等学校ではあり得なかったのに、今では平気で入る・・・そんな環境で人間は果たして朝、早く大学に行けるだろうか?行ける方が異常で、サボる方が正常のように思われる。
目標がなく、期限がなく、叱られも、むち打たれもしない、それで頑張れる人間はいるだろうか?なにか「後押し」がいる。もしそれが無ければ計画的に自分でそれを作る。その後押しは架空のものでも良い。たとえば「オレは研究室に絶対、8時50分に行くぞ!遅れたからどうってことはないが、もし間に合わなければ走るっ!」と決める。そうすると行くのが楽になる。
「サボったら怒鳴ってください」でも良いし、自分で何かの期限がつくように他人との関係を作っても良い。相手がいたらなおさらよいが、相手がいなくても自分で「後押し」を作ることができる。もしそうしたら、私がテニスで学んだように二つのことが達成できるのだ。
1) その方が楽だ
2) その方がなにかができるようになる
終わり