夢
夢をもって人生を歩くことができる。それはどんなに素晴らしいことだろう。そして「こんな夢をもって充実した人生を歩んだ人がいる」という話は飽きるほど、聞いた。でも自分はそういう夢を持つことはできない。所詮、夢なんてものは特別な人がもてるのであって、私には関係がない。
そう思うと、毎日はさらに灰色になる。でも夢というのはそれほど具体的なことではない。夢をもって生きた人の現実の話をそのまま見るのではなく、その話に潜む大切なことに目をつけるのだ。それは同じではなく、少し違う。
私が好きな夢の話。
1970年、メル・フィッシャーは沈没したスペイン船の捜索を開始した。360年前に沈没した「アトーチャ号」は1000億円にもなる財宝を積んだままフロリダ沖で沈没したと記録されている。その財宝を見つけるのが彼の夢だった。
どんなことでも紆余曲折がある。毎日、毎日、フロリダのヨットハーバーから出航し、海に出るのだから事故も起こる。捜索を始めてから5年目の7月20日、最愛の息子を捜索中の事故で失った。夢を追って何かをする途中に、大きな犠牲や不幸が訪れるのもまた良くあることで、まるで神様が夢を求めている人にその人の心の確かさを試すようだ。夢を追うというのはそれほど簡単ではない。
ところで、最愛の息子を失ったミル・フィッシャーはそれでもめげずに数年後から再び沈没船の捜索を始める。毎朝、海図を拡げ、それまでしらみつぶしにやってきた海域のはずれに印を付ける。そこが今日の捜索海域である。
小さなヨットのとも綱をはずし、いよいよ本日の捜索を開始する。その時、ミル・フィッシャーは好きなビールを小さなジョッキについで、こう言う。
「今日こそ、見つけるぞ!」
彼の顔は朝日に輝き、気負うこともなく、意気込んだところもなく、明るく笑いながらジョッキを傾ける。私の生涯で忘れることができない笑顔だった。私が彼のその顔を見たのはいつ頃だったのだろうか?おそらくは捜索を開始して10年程度、息子さんを亡くして5年後ぐらいだと思う。
辛いこともあった、強固な意志の持ち主なのだろう。でもその顔は実に「くったくのない」顔をしていた。今日もやるぞ!今日こそ見つけるぞ!!もう、10年も頑張って、それでも見つからないのに今日こそは!と言いながら笑い、そしてジョッキを傾ける。言っていることはかなり真剣だが、顔は笑っている。
・・・そうだね。自分が10年もやってきて、息子も失っているのに、全然、深刻なところがない。自分の人生をかけたことでもこんなに気軽にできたらよいな。それにしても、よく10年も毎日、毎日、同じようにヨットを出して見つからないのに、よくこんなに気軽で陽気でやることができるものだ・・・
私はフロリダの海岸から出航していくミル・フィッシャーのヨットを見ながらつくづく感心した。この時の情景は今でも鮮明によみがえる。そしてその時の彼の顔が、私が時に失敗して落ち込んだとき、長い間研究が成功しないときに、私を助けてくれた。
彼はその後、6年ほどたってついにスペイン船を発見して、金塊を手に入れた。全部で600億円だった。300年以上前に沈没した船でも、所有者に権利があるらしく、スペイン政府とフィッシャーで300億円ずつ山分けしたらしい。
ミル・フィッシャーは財宝発見後、数年でこの世を去った。今では奥さんが彼と息子のためにフロリダで小さな記念館と土産物屋をやっている。
・ ・・夢、それはどういうものだろうか?
あふれるほどの財宝を手に入れること、それは確かに魅力的であるし、ミルの夢もそのことにも支えられている。でも300億円を手に入れても、それを数年で使い果たすことはできない。どんなに頑張っても人間は一日10万円程度しか使えないから、財宝を発見してから数年間、生きるなら1億円もあればおつりが来る。
でも彼は幸福だった。手に入れたお金の99%使えず、さぞかし残念だっただろうと思うが、そうではない。彼は満足して死んだ。「お金」は使わなければ意味がない。単に金塊が自分の前に山のようにあっても、食欲がなく、美しい服を着ても見てくれる人もなく、外出もできなければ、お金があっても意味がない。使わなければ意味のない財宝を使わないまま、この世を去っても彼は幸福だった。
「夢」というのは「現実」ではない。それは人間の頭の中に生じる一種の幻想であって、現実ではない。だから夢は達成された瞬間に終わるもので、夢から得られるものはないのである。だから現実は夢にならない。獲得してから楽しむことができるものは、これも夢にならない。結婚して一緒に楽しい家庭生活を送ることができる異性は、夢にはならない。結婚することが夢の人と結婚しても家庭生活は楽しくない。人間の頭の幻想とはそういうものである。
でも夢が大切なのは、自分が人間だからだ。人間という動物はむやみに頭が発達したので、「肉体」と「脳」が分裂してしまった。肉体は健全な生活を望んでいる。毎日、働き、汗をかき、そしてご飯を食べて、寝る。私たちの肉体が快適な生を楽しむためには、
体を動かさなければ疲れないから快適な眠りにつくことができない。
汗をかかないと新陳代謝が進まないから、爽快にならない。
体を動かさないとお腹が減らないから、ご飯が美味しくない。
脳は反対だ。体を動かすのは億劫だからできるだけ楽をしようとする。そうすると体は反抗して不眠症になる。汗をかくと洗濯をしなければならないから汗をかかない。そうすると毎日がどんよりしている。体を動かさないからお腹が減らない。だから「美味しいもの」を食べなければ食事が満足できなくなる。脳と体は分離している。
「夢」はそれをつないでくれる。夢自体はなにも意味のないものだが、人生の目標ができ、生活が明るくなる。そして、体を動かし、一所懸命にやるので、体もそれで満足である。でも、夢は夢である。ゆめゆめ、実現することに期待しないことだ。夢は、獲得するために努力することに意味があり、獲得すればそれで終わり、それが幻想であることが判るからである。
人生は無意味である。「たかが人生」であり、生きる意味を見つけるのは不可能だ。でも人生は楽しい。「されど人生」である。人生を「たかが」から「されど」にする道具。その一つの道具が「夢」である。
終わり