-皆勤賞の頃は輝いていた-
カゼで熱があった日もあった。お母さんは「大丈夫?」と言ってくれたけれどそれを振り切るように学校に行った。だって、もう少し頑張れば皆勤賞を取れるのだから・・・
あの頃の自分は輝いていた。学校が楽しく、毎日は忙しかった。勉強も今よりしていたけれど、勉強をすること自体もイヤではなかった。今から考えると学校も勉強もゲームのようなものだった。
それなのに最近の自分はダルだ。大学へ行くのも一種の惰性で、楽しいから行くわけではない。講義も退屈だし、第一、何のためにこんなことを勉強しなければならないかも判らない。将来が少しは不安だけれど、だからといって体の中からファイトが出てくるわけでもない。
あの頃が懐かしい。何であんなに純真で、しかも今より決断力もあったような気がする。それに今は悪いことも少しはするけれど、あの頃はこれっぽっちも悪いことはしなかったし、授業中に先生が話をされている時に友達と私語したりしなかったし、もちろん、寝ることなんかなかった。
自分はどうしたのだろう? 何でこんなにダメな自分になってしまったのだろう?
この世に誕生し、子供から大人へと成長していくと人間はある時期に「行為」から「目標」に生活の目的が変わる。この変わったことに気がつかない人が立ち上がれないダルに苦しむ。
「行為」という目的と「目標」という目的はどこが違うのだろうか? 具体的な例から話を始めたい。
ある講義でレポートの提出を言われたとしよう。まず気になるのはレポートの提出期限だ。もし1ヶ月もあればしばらくは放っておいても良いし、もし1週間ならすぐにでも取りかからなければならない。学生はそう考える。ここにダルを生む原因が潜んでいる。
もし自分の生活の時間が自分のものであり、自分の「目標」のものでなければ、レポートを出すか出さないか、いつレポートを書くかは自分の好き勝手であり、期限が長くても短くても関係がない。自分がレポートを書きたければ書けばよいし、書きたくなければ放っておけばよい。
でも学生は「目標」を持っている。「この講義の単位を取らなければならないから、レポートは提出しなければならず、従って期限を知らなければならない」というのが心理の動きである。
講義に出席するのも単位を取るため、単位を取るのは大学を卒業するため、良い成績が欲しいのは良い企業に就職したいため・・・どんなことも目標があってそのために行動している。そんな生活習慣が大学受験の時に見に染みついてしまい、今では目標が無ければ毎日を過ごすことができない。だからレポートも自分がレポートを書きたいから書くのではなく、目標を達成するために書くのだから期限は必要だし義務で書くことになるのでイヤになる。
小学校の頃、毎日、学校に行く目的は「学校に行くこと」であって、単位を取るためでも、卒業するためでも無かった。おそらく中学校まではそうだったかも知れない。目的は「行為」そのものであって、「目標」ではなかった。それが物心ついてから「行為」に「目標」が必要になった。そうなった途端、勉強をするのが億劫になったような気がする。だって、心のどこかで「こんな勉強して何になるのだろうか?」という疑問が消えない。
もし、人生の目標があり、それが最終的に達成されることを目指したら、100人中99人は挫折するだろう。なぜなら、目標には競争相手がいて自分が一番、優れているということは無いから、目標を達成することは難しい。だから100人中99人が挫折する。
この良い例が全国高校野球大会、つまり甲子園である。何千人もの球児が参加して優勝はたった一校。後は全部、挫折する。もし野球をやる目的が「優勝すること」という目標を置いたら、100人中99人は何のために野球をするのかが判らなくなる。なぜならば、悔しい思いをするために頑張るのだから。
甲子園ならその程度ですむ。これが人生となるともっと厳しい。自分の人生の目標を立て、頑張って目標を達成しても、早晩、人間は老いて死ぬ。生きている間、目標を達成するように時間を過ごすと、自分の人生は「自分のもの」ではなく「目標のためのもの」として過ぎていく。そして時間だけを失い、老いて死ぬ。そこに、人生の意義を見つけることはできない。
だから目標を置いた人生は100人が100人とも挫折する。社長になればなるほど空しい。社長になるまでの時間は「目標のための時間」として過ぎていき、社長になると「目標を失った毎日」を送ることになるからである。
本当の人生とはどういうものだろうか?野球をするのは野球が好きだからだ。だから一所懸命ボールを追いかけるし、監督に叱られても苦にならない。だって、自分が好きでやっている野球だ。監督のためにやっているのではない。もちろん勝負だから勝った方が嬉しいが、それは「懸命にやった結果」であって、勝つことを目的としている訳ではない。
一球入魂して投球し、無心に打席に立ったから、結果として勝ったのであって、勝とうと思ったら邪念が入って苦しいし、かえってヘマをする。
実は人生には「目標」はない。「行為」そのものを目的とするのが人生なのである。毎日学校に行くのが当たり前だった頃、授業では一所懸命、先生の言われることを聞くのが当たり前だった頃、あの頃、何に無心だったのだろうか?
それは「目標」が無かったからだ。「やること」そのものが生きている証であり、「やること」に「全力を注ぐ」ことが唯一の目的だった。その結果として来るものはあちらから来るのであって、自分が求めたものではなかった。
大人になってそんなことができるだろうか?・・・もちろん、できる。ただ、大人になると周囲が見えるようになるので、錯覚するのだ。それでも自分の周りに見える幻想にとらわれず、行為に目標を置かず、行為が自分の得になることを考えない。できれば少し自分が損をすることに全力をあげる。そうすると毎日は輝き、心の底からファイトが沸いてくる。
人間とは不思議なものだ。自分が一番、可愛いのに、自分のために行為をしても満足は得られない。人のための行為なら満足が得られる。
そして、行為そのものを目的にすると「失敗」が無くなる。大学で言えば、講義に出るということ自体が目的であって、単位を取ることが目的ではないので、失敗がないのだ。単位は先生がつけるものであり、自分が取るものではない。自分は講義に出るという行為だけが目的である。
このような考え方は現代の日本の標準的な人生の考え方とかなり違う。だからこれを読んだ学生がいくら頭が柔らかいと言っても、俄には賛成しかねるだろう。でも、君がもし毎日がダルで辛かったら、是非、1ヶ月でも君がいま持っている目標を捨て、行為自身を目的にして毎日を過ごしてみることを勧める。
講義に出たらその講義の内容が自分にとって役に立つかどうかなどは考えない。講義に出席し、講義を聴くことに全力を注ぐ。単位などはその結果として来るものだから気にしない。そんな生活をしてみれば、君は確実に今までには見えなかったものが見えるだろう。
終わり
(ここでは最初に「皆勤賞」という目標を書いた。小さい頃のこの目標は今の自分の目標とは違う内容を持っていることを感じてもらいたい。また、もし君の目的が「行為」ならレポートは期限にかかわらずすぐやってしまうだろう。だって、「レポートをすぐやる」という行為に目的をおけばよいのだから。そして君がすぐレポートを書いても期限に間に合わないとすれば、それは期限を聞いても間に合わないのだ。)