職業としての学問



 この論評はマックスウェーバーの「職業としての学問」に影響されていることを白状しなければならない。そこで題名自体も故意に同じにして私が深くマックスウェーバーに傾注した時期があることを示した。でも、このような「古典を解説する論評」もあって良いと思う。

 ある時に人生を鋭く描写した俳句に出会ったことがあった。その俳句には注釈がついていて、人に対する愛情を解説していた。私は注釈をつけた人に手紙を出し、「大変、感激的な俳句ではあるが、ここに描写されたことはすでにイエスが2000年前に言ったことと同じではないか。なぜ、それを別の形で繰りかえさなければならないのか?」とご質問した。

 その人とはやがて家を訪れる中となり、クリスチャンだった奥さんともお話をすることができた。遠い思い出である。

 聖書が何回も解説されるように私もマックスウェーバーを解説しても良いだろう。ずいぶん、程度の低い解説になるかも知れないが・・・

 人間が「食べるもの、着るもの、住むところ」を求める以外の職業を持つようになったのはそれほど昔ではない。人間が生きるために必要なことは、衣食住とそれに加えて戦争ぐらいであり、そのほかのことは楽しみでやるので、楽しみが職業になるはずもない。

 ギリシャ時代はある意味で理想的な社会と言われるが、アテナイでの貴族はなにもせず、2万人ほどであり、奴隷が50万人ほどいて、生活に必要なことをしたと言われる。生きるために働くのは下品なことだった。それが理想とされる。

 文学や芸術、そして学問もまた楽しみでやるもので、「人間が野獣と同じように生きるだけなら不必要なもの」だった。それでも芸術家や学者も生きていかなければならないので、ギリシャのように暴力(戦争)で奴隷を確保するか、貴族がパトロンになり露命をつないでいたのである。

 近代科学はガリレオ、ニュートン、デカルトなどによって始まったが、彼らは少なくとも労働者ではなかった。しかし20世紀の初頭には学問はすでに職業化し、サラリーマン化していた。貧乏人でそれほどの学問ができない人たちが大学に押し寄せ、狭い教授の席を争う。そうなると、学問は「教授になるための手段」となり、本来の目的を失ってしまった。

 それが進歩か退歩かはここでは議論しない。

 そして私は教授になっても「明細書」というものがついた給与をもらい、恥ずかしいことに「夏期休暇」というものを強制的にとらされる。夏期休暇のところにハンコを押すほど屈辱的なことはない。毎月、いただく俸給はどんなに低くても屈辱ではないが、学問を強制的にやめさせられる「休暇」をとらなければならないなら、私は学問をしない。自分の人生の時間は自分のものだから。

 ところで「サラリーマン学者」が登場し、それが普遍化すると、今度は「サラリーマン化していない学者」は異常者扱いになる。それはちょうど、もともと道路には人が歩いていたのに、いつの間にか車が大きな顔をして走るようになり、人は隅をこそこそと歩き、やがて「歩道」という屈辱的な建設物が登場するのと似ている。さらに最近では「歩道橋」という非人間的作品も登場している。

 私は後から来た自動車に追いやられた「歩行者」のようなものである。学問に「業績」というものが登場し、論文数や発表数がその基準となる。また「立派な論文を発表した人」や「ある研究領域をまとめるマネジメント能力のある人」が偉い学者になる。

 もともと、わたし達、自然科学者は自然を観測し、工学ならそれを人間の福利に応用することを楽しみにする人たちである。わたし達の対象は自然であり、それは共通の財産でもある。だれがそれを明らかにし社会のために役立てたかなどは問題ではない。

 いま、日本の学会は病んでいる。つい最近、日本の最大手に近い学会があまりに発表が少ないことに業を煮やし、「その道の大家を選んでセッションをくみ、指名して発表させる形式」を始めた。いや、時代も変わった物である。

 もともと学会は英語で"Society"と読んでいるように、同好の士が集まって夕刻、ワインを傾けながら自分の研究を語り合うところである。「今日はこんなにおもしろいことがあった」「こんなことに気がついたのだが、どうだろうか?」という具合である。Farady教室もその一つだった。

 ところが今や職業化した学会は発表者がいない。大学人はそれでも学会発表が業績になるから何とか発表するが、会社の技術者は業績にならないからしない。どれもこれも損得と名誉、そしてお金の時代である。学問ではない。

 人間にとってはお金を得ることは人生を楽しく送るための手段であって目的ではない。ただ、人生の楽しみを失った人はお金だけが目的になるのは仕方がないだろう。日本の学者の内、学問が好きで学問だけに気持ちが行ってしまう人は本当に少なくなった。重要な会議をうっかり忘れているとひどく叱られるが、学問が進まなくてもいっこうに文句を言われない時代だから。

 それでも私はがんばる。どんなにドンキホーテでも学問は趣味であり、学会は同好会である。決して商売に使わないで欲しい。企業の技術者もロボットではなく、できれば技術を楽しんでもらいたい。そして自分の名誉などはいっさい考えず、科学に対して真摯であり、研究途中でもおもしろい結果がでたら是非発表をしてもらいたい。



(江崎先生の一枚のグラフ)



 時に学生が「しっかりした発表をしたい」と言うことがある。それ自体は立派なことで、研究成果をまとめて堂々たる発表をすることも必要である。でもその学生が気にしているのは、科学ではなく、自分ではないか、自分の評判を気にして、死ぬような努力をするのに躊躇しているのではないかと思う。

もともと「しっかりした発表」などというのはほとんどまれである。DNAで20世紀最大の業績を残したワトソンとクリックの論文は2ページだったし、江崎玲於奈博士がノーベル物理学賞をとったノートも1枚半、そして対象となったのはその中の1枚のグラフだった。「おもしろい結果」、それがたとえ一枚のグラフでもおもしろければ良い。

 私は職業のための学会はあまり好きではない。ある時に、情報処理学会に論文を投稿したら「この論文はなんの役に立つのか判らない」という査読者のコメントが帰ってきた。まさか個別の学問が「役に立つか」ということで価値が決まることなどないと信じていた私は目の前が真っ暗になった。ガリレオが惑星の観察をしたときガリレオはそれが「役に立つ」ということを強調したのだろうか?