神聖な教育を「先輩」の魔の手から守れ!
江戸の職人は朝起きると仕事を始め、終わりは次の2つを基準にしたと言う。
イ) ガキとカカアの飯を稼ぐ
ロ) その後、自分が満足した作品が出来た時
なんと言っても人間はオマンマが第一で、男にとっては家族を養うことが義務だったから、ガキとカカアの飯は確保しなければならない。それができたら、今度は自分の心の満足だから、「よし、これまで」と踏ん切りがつくまで手を動かすのである。それが江戸だった。
それから職人は外に飛び出す。「終業時間」というようなケチなことは考えない。5時のチャイムもない。物作りの人にとっては自分の作品には魂が入る。我が子のように感じることもある。だから作品を仕上げる心は中途半端ではない。
でも、現代の職人さんに怒られるが、やはり「物」を仕上げるより「人」を仕上げる方が真剣で神聖のように思う。教育は人を仕上げるという意味で、本当に神聖な行為である。教師の経験を積むと教育の素晴らしさ、教育の難しさをつくづく感じる。
もし私のもとで教育を受けなければ社会の浮浪児のように生活しただろう彼、彼が苦しみを克服して巣立っていったとき、しばらくフラフラしていると思ったら、立派になって私の前に現れたとき、私は泣く。
だから、
社会は教職に資格と訓練を求める。小学校から高等学校までの教師には大学をでること、教職課程を学ぶこと、そして試験が待っている。次世代を担う子どもたちの教育をどこの馬の骨か判らない者に任せることはできないという社会の決意は頷ける。
大学の教員は無試験である。その代わり、教員としてふさわしい論文を求められる。私は私の研究経験の苦しみとどんな難解な式でも空で書き、直ちに解答を示すことができることを誇りとして学生の前に姿を現す。
これほど神聖で、厳格で、そして十分な経験と資格をもった人だけに与えられる聖職。それが今、「先輩」という名の怪物にその任務を追われようとしている。
「先輩」とはなにか? 高等学校のクラブ活動では1,2年早くクラブに入った生徒で、多少、早く技を磨いたからという理由で、あたかも自分が教えることができると言わんばかりに「後輩」に技を教える。
もちろん、彼には後輩を教えるだけの技量がないのは当然である。1,2年クラブに早く入り、技を少し知ったからと言ってとても教えることなどできない。力の無い教師は人に教えるときに同じことを言う。初学者にとっては分かりやすいし、変わらないので真実に見えるが、真実ではない。技はその人その人の体型や筋肉、そして運動神経などによって違う道筋で覚える物である。でもそれを指導できるのは卓越した教師以外にはない。
つまり、先輩と教師の間には次のような差がある。
1) 先輩はいつも同じように教える。それしか知らないから。
2) 先生はいつも言うことが違う。それは個性と発達段階によって違うから。
このことを少し解説しよう。初学者の頃は「これはこう」「あれはああ」と何事にも正解があるように錯覚する。それは勉学途中の人には仕方がないことだが、またスポーツの試合のなんたるか、学問のなんたるかを知らないから錯覚することである。経験を積んでくると自分の考えていること、自分の知識がどれほど貧弱であるかを骨身にしみて判っている。だから、とても「これが正しい」などとは言えなくなるので、せめて最善を尽くそうというように変わってくる。最善だからそのとき、そのときのベストを考え、指導する。従って、言うことが変わる。このことは初学者にはやはり理解が難しい。
3) 先輩の言うとおりにするとうまくなる。それは自分が変わらないで技だけを知るからだが、すぐ限界がくる。
4) 先生の言うとおりにすると下手になる。それは自分が変わるから一時的にスランプに陥るからである。でも将来は拓ける。
この3)と4)も解説がいるだろう。教育を受けるということは自分を大きくすることだ。大きくというのは現在の自分の外側に広がることだから、そこは未知の世界である。未知というのは普通は「間違った世界」と感じる。人間は中学生にもなれば自分は自分の外側の世界を正確に把握していると錯覚する。そうしないと不安で生きていけない。でも中学生がみている社会は現実のものではなく、そのほんの一部である。中学生が会って話をする人の印象は表面的であるが、それも仕方がない。だから普通の人は「自分は正しい」と思っている。正しいのだが教育を受けると言うことは自分が間違っていることを受け入れることだが、それは普通には意識しない。
先生は自分を変える。変えれば当初はなれないから必ず悪くなる。だから「先生に習ってその通りにしたら返って悪くなったが、先輩の言う通りすると良くなる」ということが起こる。先輩は技巧しか教えないが先生は本人を変えるからである。
大学の研究室には「博士課程の学生」というやっかいな存在がいる。この学生群は、学部生にとっては3年以上先輩で、しかも押しも押されぬ「博士課程」というものに在籍している。博士課程の学生は社会からみれば少しはましな教育課程かも知れないが、学問から言えば初歩の初歩の段階の人が学ぶ課程である。でも本人も自分はいっぱしの研究者になった気でいる。そして、これまで学部と大学院の3年間の研究を積んで、一応、研究のイロハの最初の方を少し知っている。
それに対して新しく研究室に入ってくる4年生はまったく研究というものをしたことがない。あるいは体験研究などの授業でままごとのような研究体験を積んでいるが、現実にシナリオのない世界を歩いたことはない。
そこで、博士過程の学生が「指導」に乗り出す。もともと研究経験が浅く、学識も不十分で教師の資格の無い学生が大学生を教えようということだけでもおかしいのだが本人も4年生も気が付かない。もちろん、研究室の鍵がどこに閉まってあるとか、コピーをするときには帳面につけるといったことを教えるのはちょうど良いが、実験の方法やましてどの論文を読んだらよいか、機械はどうすれば良いかなど適切な指導ができないのは当たり前である。
もともと工学系大学の教師は博士号がいる。単に博士号を要求しているのではなく、博士ぐらいは悠々とれる力がなければ神聖な教育を担当させることはできないからである。それが博士号を取得するために四苦八苦している学生が教育を担当できるはずもない。そんな非論理的なことは学問の世界では許されない。
でも4年生には博士課程の学生の指導が歓迎される。
先に説明したように、教育とは自らを高めることであるが、高めるには今の自分を捨てなければならない。捨てるということは苦痛を伴う。奇妙なことであるが、教育を受けるということは自ら辛い訓練を受けることを意味する。
普通の人は教育を受けて立派になりたいが、自分を変えるような苦しい体験はしたくないと思うのが人情である。そこで「技と要領」で卒論を書こうとする。つまりその場しのぎである。それには博士の学生の指導がうってつけである。紋切り型の教え、自分と力が似ているので言っていることも分かりやすい。そして第一、煙たい先生ではない。
それに対して先生はうるさい。自分を変えに来る。辛い研究もさせるし、第一、博士課程の学生に従っておけば先輩後輩でうまく先生にも取りなしてくれるし、親分子分の関係にもなる。それに対して先生は年代も違うしどうにもならない。何とか博士課程の学生に「指導」と称して楽な大学生活を送りたいと思うのもまた頷けるのである。
しかし根は深い。
ほとんどの日本の大学生は大学卒業の免状をもらいたいのであって、決して自分がどのような技術者になりたいかという目標をもって勉学に励んでいる訳ではない。だから、休講は喜ぶことであり、大学に行かなければ損をするのではなく得である。自分が授業料を払っている大学に行かない方が得、という異常な環境の中で、学生の判断が鈍るのは当然だろう。
ところで、最初の話に戻ろうと思う。
教育とは神聖なものである。教師と学生が正面から対峙し、教師は学生の要望にそって学生を指導する。その指導は学生の夢を果たす指導であるから厳しい。先生の言うことをほとんど学生は理解できないだろう。教育とは自分が今立っているところより高いところに行くことだから、自分とレベルの違う先生の言うことを納得することはできない。
ここもまた少しの説明がいるかも知れない。最近の日本の教育では「教育を受ける本人が納得する」ということが言われる。そういう人は少しはルッソーの著述でも読んでからにして欲しいが、現実はそうであるし、学生の多くは納得したがる。
私が「教育を受けるときは私の言う通りにやればよい」というと、「先生は独裁だ」と変な返事が返ってくる。教育を受ける途中に自分が考えた意見を述べるのは構わないが、それは間違っているという認識が必要である。もし教育を受けている途中に正しいことを言えるのなら、教育は終わっているからである。
本人の納得が得られないことを教えるのだから、教育は一つの間違いも許されない。一人一人の学生がそれぞれ違う個性で私の前に現れる。その学生に一人一人違う目標を考え、成長の段階を考慮して研究課題を与える。時には装置を自分で習得する必要がある時もしばしばであるし、失敗すると予想される実験をやるように言うこともある。会社の研究では絶対そういうことはない。
会社の研究は「完成した研究者」が「報酬をもらって研究する」ということだから間違いは最小にする。それに対して大学では「未完成な学生が自らの成長のために研究する」のだから、間違いが予想されても本人の成長のためなら指示することもある。
このようなことは社会では普通に行われる。たとえば「体を鍛えるためにテニスをする」「将来、ウィンブルドンに出たい若い選手を鍛える」というのと「ウィンブルドンにでるためにプロのテニスプレーヤーが練習する」という状態はまったく別の様相を呈する。それと同じである。
そして、大学で錯覚しやすいことが教育と研究とが違うのに同じように思うことだ。研究は成果を求める物であるが、教育は成長を求めるからである。それをすっかり錯覚している学生が私の言うことを「先生、そんなこと無駄です」という場合がある。この場合の無駄とは「研究を進めるには無駄」という意味である。時にはさらに「効率的に研究をやりたい」という学生もいる。
その学生は少しでも早くデータを出して論文を書いてしまいたい、自分がどの程度成長するかとは別と勘違いしているからである。
そして、もちろん世界を驚かせる成果を得た研究より、一人の人間を成長させる教育の方がずっと重たい。
博士課程の学生諸君、決して後輩を指導してはいけない。もし聞かれたら「先生は私にはこのように指導したが、君はどう言われるか判らないから、先生に聞け」と言うべきだろう。それほど教育は繊細で精密なものである。