補助金と人格
1 エミールと教育基本法
「貧乏であろうと金持ちであろうと、私は自由でしょう。あの国、この国にいるときだけ自由だというのではなく、地上のどこに行っても自由でしょう。私にとっては、意見のあらゆる鎖は断ち切られており、私は必然の鎖しか知りません。私は人間であるからです。」(ルソー「エミール」(この部分は、安岡 直「発言者」2004年2月号p.92-97より引用)
エミールという人物はルソーが創造した架空の人であるが、彼は小さい頃からルソーによって職業教育でも国民教育でもない、「人間そのものの教育」を受ける。著者は若い頃、ルソーの「エミール」に触れて大いに触発されたものである。当時、日本は高度成長期にあったこともあり、私は教育とは職業教育であり、人格はその過程で形成される副次的なものと思っていたからである。
自由な人格を形成するという近大教育の概念はエミールを出発点としているが、でも教育に対するルソーの考えはルソーが初めてでもないし、ヨーロッパに独自なものでもない。ただ、このような概念を整理し、かつ全世界的に普及したのがエミールであった。
論理がしっかりしていて言葉数が多く、従って多くの人の賛同を得て普及するということから考えると、ヨーロッパの思想は優れている。すこし横道にそれるが、ルソーのような偉大で優れた思想を多く生み出したヨーロッパが、行動においては全世界を相手に暴力を振るい、300年に亘ってアジア・アフリカの多くの国を植民地として苦しめたことも事実である。著者はいつもヨーロッパの思想に触れると、その矛盾が頭を離れない。思想とは言動不一致でもよいのだろうか??
ところで、話を教育に戻したい。
日本の教育基本法は第二次世界大戦の敗戦から生まれたこともあり、思想基盤としては、エミールを出発点にしている。そして教育基本法第一条には日本における教育の目的が次のように示されている。
「第一条(教育の目的)
教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない.」
ところが、21世紀を迎えんとしている今日、ほとんどの教育機関、特に大学や大学院の教育は教育基本法第一条をすっかり忘れている。教育をしている大学の教授のほとんども、そして教育を受ける学生も、大学は、「専門知識をつけたり、学士や修士という資格を獲得するところ」と信じて疑わない。
もちろん、教育基本法に明確に規定されているように、大学は自由な魂、良心に従って生きることのできる独立した人格を作る最終段階の教育機関である。まずは人格を完成し、平和的な国家と健全な社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊ぶ。勤労と責任を重んじて自主的精神に満ちた健康な国民を育成する、それが大学教育の目的である。
もちろん、このような教育の目的を達成するには学問は有力な手段となる。それは「体を鍛える」という希望を持つ若者が、単にバーベルを上げているだけでは面白くないので、試合にでるとか、またはよりゲーム性の高いスポーツ、たとえば野球などで楽しみながら体を鍛えるなどのように、目的を達成するための手段として適切な選択をしなければならないからである。
学問は真理と正義を愛するし、異論を重視するという機能から個人の価値を尊ぶことにつながっている。勤勉に資料を調べたり、自分の学説には責任を持つなどの必要もある。だから大学で学生に学問を教えるのは大切なことであるが、その目的はあくまで学問を通じて人格を形成することであって、著者が担当している工学教育では工学の知識を高めることではない。体を鍛えようとしてバレーボールに励んでいる内に立派な選手になることもあるし、厳しい試合を通じて立派な人格の人間に成長することもたびたびである。だから、第一の目的を達成しようとすると、第二、第三の目的もついでに達成されてしまうことも多く、それは問題がない。
現代の大学が人格形成を目的として講義を行うとドンキホーテになる。たとえば、授業をサボる学生に勤勉を説くと「授業をサボっても試験ができれば良いんでしょう」というし、確かに大学のシステムはそうなっている。また授業にでて最前列で堂々と寝ている学生に注意すると「この先生、何を考えて居るんだ!我々がお金を払っているのだから我々の勝手だ」という顔をしている。
教育は人格の完成にある・・・この教育目的は第二次世界大戦後のいわゆる民主主義教育から始まった分けではない。悪評高い教育勅語には、
「 爾臣民,父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ,朋友相信シ,恭儉己レヲ持シ,博愛衆ニ及ホシ,學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ,徳器ヲ成就シ,進テ公益ヲ廣メ,世務ヲ開キ,常ニ國憲ヲ重シ,國法ニ遵ヒ,一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ.是ノ如キハ,獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン.」
とある。
この教育勅語もまた、教育が「国家のために奉仕する」とか「個別の能力を磨く」ということに主眼があるのではなく、「家族や友人を大切にし、博愛、徳器を重視する」ということが基本となっている。現代の教育基本法と異なる点と言えば、「学を修め、業を習い、知能を啓発する」事も併せて教育の目的となっていることである。しかし文章構成からいって、それは第二番目以下の目標であることが明らかである。
また、教育勅語が戦後、非難を浴びた理由の一つに「一旦、国の危機に際しては義勇が必要である」ことを後段で記してあることである。しかし、これをもって教育勅語によって戦争の道を歩んだとするのは、よほどの先入観かあるいは国語の力がないと言わざるを得ない。現在でも一旦、国の危機が来れば国民に等しく義勇を求めるだろう。阪神大震災のような災害でもボランティアが義勇を発揮したことは高く評価されている。戦後の民主的勢力も決して「狭い意味の個人主義」を良いとしている分けではない。
またさらに後段にある「皇運」「臣民」などという言葉は教育とは直接関係ない。天皇をトップとした体制を採るのは国民の総意であったので、その総意にもとづく教育目的が立てられ、それに応じた文章になっているに過ぎない。現在ではこれは、「民主主義のために」ということになろうが、民主主義とて永遠ではない。いつかは「民主主義とは酷い制度だ」ということになるのは歴史の教えるところである。
また少し主題から離れるが、歴史を学ぶということは、とかく利己的に成りがちな自分の判断を修正することに役立つ。たとえば、現在では「平和」や「民主主義」というと金科玉条のように感じるが、このような価値観が正しいと認定されるようになったのは僅かに50年前であり、それ以前の人、それがどんな偉人であっても、民主主義を良しとはしていないのである。
いずれにしても教育勅語、教育基本法はともに教育の目的は個人の人格的完成を目指している。その点では我々はまだ「公的」には、エミールの世界、人格形成の為の教育の世界、にいるのである。
2 補助金経済の拡大
第二次世界大戦以前、軍事を中心とした政府と産業界と結びつきは強かった。「満州の三介」と呼ばれる実業家や政治家が現れ、その多くの活動は報道もされず人の噂に上るだけという暗闇の中にあった。このような政府と産業界の結びつきが戦争の原因の一つになったこともあって、戦争後は産官の癒着について国民は厳しい態度で臨んだ。特に税金などについての施策をガラス張りにして、透明性を高めることは健全な社会の構築に役に立つのであるから、この方向は間違っていなかったであろう。
それでも数多くの疑獄事件が起り、造船疑獄、昭電疑獄、黒い霧事件、リクルート事件などという名前がついて話題をさらった。しかし、その多くは政治家が主要な役割を果たし、政治と金の課題を少しずつ克服してきた。
ところが、バブル経済の崩壊と前後して、厚生省の高級官僚汚職、大蔵省官吏による「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」というきわめて品の悪い事件や、外務省の巨額流用事件など官僚を中心とした汚職事件がでて、政府の行動はさらに透明化されると期待された。
一体、中央官庁のエリート官僚はどのような教育を受けたのだろうか?多くは高校時代にはトップクラス。東大をでるかそれに相当する一流大学で優れた成績をあげ、公務員試験に合格する。その人達は「人格は低い」ということになる。現代の教育は人格の完成を目的としていない副作用の一つである。
ともあれ、少しずつ改善しつつあった汚職は、環境問題の勃発と共に、闇の権限は再び勢いを増してきた。その具体的な手段になったのが補助金である。
複雑な現代社会をアダム・スミス流の見えざる手によって誘導することについては経済学的見地からケインズなどが批判を加えており、政府や中央銀行がある程度、社会活動へ介入することの意義も、歴史的には認められている。
それでも現代の日本の補助金や政府の補正予算などの流れは、ケインズが指摘する社会のシステムの補正という意義を持っていないと考えられる。日本はその優れた工業力で世界でほぼトップの力をつけ、毎年毎年20兆円近くの黒字をだし、2003年時点では海外資産の合計が200兆円を超えるまでになってきた。貯蓄は1400兆円と言われ、60歳以上の人が全資産の75%を保有しているとも言われる異常な事態になっている。ここで異常というのは、「正しい」とか「間違っている」というのではない。働いている人が裕福、貯蓄が正常に回っているというこれまでの常識から言って異常であると判断される。
働いている人が貧乏で引退した人が裕福ということについては意見があるだろうが、それは別の機会にして、ここでは「貯蓄はどのようになっているか?」について検討をしたい。
家庭生活を平凡に送っている人は勤勉に働いて得たお金を少しずつ貯蓄する。だから貯蓄というのは「貯めること」であって「使うこと」ではないと感覚的には思っている。本当はそれでも良いのだが、現実には銀行に預けたお金は何らかの形で使用される。つまり現代の経済システムは「休まない」というのを原則としているので、銀行に預けたお金は「運用」する。つまり、「あなたのお金を銀行に預ければ、それでスエズ運河ができ、あなたは世界の発展に寄与できます」ということは今でも続いている。
そこで銀行は集めたお金を企業に貸そうとするが、新しい事業を興す会社は少なく、トヨタのように活発なところは自らトヨタ銀行を保有しているので銀行のお世話にはならなくても良い。銀行もバブルで痛い目に遭い不良債権を増やしたくないのでリスクを冒して新しい事業に投資するのも躊躇う。そうなると銀行はお金を政府に貸すしかない。政府はだぶついている国内のお金を処理するために国債を発行し、それで公共事業をする。
昔はそれで良かった。
でも日本政府は土木工事をやりすぎ、癒着もあった。だから、大学や国立研究所に科学技術立国ということでお金を出し、環境が大切と言って環境にさらに資金を提供する。昔は「ちり紙交換」というトラックが町を回り、リサイクルが健全に成り立っていた紙のリサイクルもすでに補助金に浸かり、補助金を取れる業者だけがリサイクルをするようになる。環境に関する法人が無数にできて、そこが官吏の権限の及ぶところになり、時によっては天下りの先として活用される。
このような動きを非難するには当たらない。日本が技術力を磨き、活動の価値を高め、それでより豊かな生活をしようとしたのだ。しかし、日本人は地味な民族で労働は楽しくやることができるが、楽しく遊ぶことができない。ざっと計算すると、日本人は一年で一人500万円ほど稼いでいるので、その分は使う必要がある。でも日本人が使えるのは300万円程度で200万円はあまる。余るのでそれを税金や国債、その他、何でも良いが名前を付けて吸い上げて代わりに使ってあげなければならない。
年金などはできるだけ制度を頻繁に変更して、国民が老後に不安を感じ、その結果、消費を手控える。そうすると政府に入るお金が増える。老人が遺産を残して亡くなるので、遺産相続で税金を取り上げる・・・なかなか日本人の節約性行をよく理解した上手な方法である。かくして政治家と官僚は潤う。
ところが政府や官僚もまた銀行と同じように中間に立つブローカーに過ぎない。彼らは自分たちで仕事をする人ではない。そこで補助金を出して実際にやる人を捜す。そうなると国民からの税金だから、まず国民に何らかの方法で幻想を抱かせなければならない。「環境が大切」「国際貢献は必要」「NPOは育成していかなければならない」「科学技術立国」・・・などなどがこれである。道路につぎ込むことが難しくなった現在、そのお金を他に振り向けなければならないのである。
その結果、国の補助金をめがけて事業をする人が現れる。補助金を使わなければならないのだから、当然、その技術力は低いか、もしくは努力が足りないかどちらかである。でも「袖の下、もしくはその類似行為」に長けていれば技術力が無くても大丈夫である。額に汗をして働くより補助金をもらった方が良い。補助金を獲得するための努力の方が額に汗をする努力より報われる時代になったのである。
補助金をもらうことが良心に恥じることかどうかは別である。補助金がでる対象は少なくとも国が進めようとしているものであるから、公共的に意義のあるものとしてよいだろう。だけれども、人間のやることである。補助金に関係している人の多くが知っているように、補助金獲得のためには実は良心を裏切らなければならないことが続くのである。だから額に汗することと相反する。
3 教育は、良心に従って生きることができる自由な人格を育成することができるか?
両親からいただいた自分の体と頭。人にはそれぞれ異なる能力があるが、そんなことには文句も不満もない。この世に生まれ少しでも楽しく過ごすときがあったなら、感謝したい。私たちは死ぬのが不安だ。死ぬのは苦しいという恐怖心もあるが、こんなに楽しい、苦しい人でもこんなに楽しい人生が終わりになることが辛い。ということは、生きていることが素晴らしいということでもある。その機会を作ってくれた両親にまず感謝。
だから自分の能力の範囲で、コツコツと努力し、気持ちよい人生を送りたい。もし自分の体が壊れたり、神経が異常になれば人様の助けを求めたいが、そうでなければ自分は自分で頑張りたい。そう思う。それでこそ、自由な人格、良心に従って生きる強さを持つことができる。
私は教育者として、そのことを悩む。
社会が誠実から離れてくると「良心に従って生きる勇気」として求められる勇気がとんでもなく大きなものになる。例えば、多くの学生が真面目に勉強し、しっかり試験を受けて大学生活を送るとする。そのような雰囲気の中では大学生は勉強するのが楽になり、試験のカンニングも減る。でも学生の大半が講義をさぼり、レジャーランド化した大学で勉強し、努力するには相当の覚悟がいる。
社会でもそうだ。産業と官が癒着し、官を接待しておけば甘い汁を吸えるとなると、不利な条件で働き赤字にまみれることに耐えられるだろうか?紙のリサイクルがその典型的な例である。昔は軽自動車を買って家族で町を回り、古紙を回収して僅かな手間賃を頂いていた。もちろん、資源を有効に使い無駄遣いをしない為にも社会的に意義があった。でも紙のリサイクルをしている人は貧乏な人が多かった。
親子代々、三代にわたって古紙の回収をしてきた業者が次々とつぶれていく。日本の余ったお金がリサイクルに回り、それに群がる人達に追いやられていくのだ。そのような時にもちり紙交換をしていた人達は良心を守れるだろうか?いくら一所懸命やっても補助金は来ない。補助金が来るためには人付き合いと役所巡りが必要だからである。
かくして、良心は滅びていく。
良心が滅びる暗い社会は作りたくない。勉強しない学生は落第し、額に汗しない大人はプライドを失うような社会こそが明るい社会だろう。そのような社会になる人材を、教育基本法に則って教育が育てなければならない。そのためには大学の先生自体が良心に従った行動をしうる強い人格を持たなければならないだろう。
最後に再びルソーの著述を引用する。私たちの教育はかくあるべきであろう。
「われわれの幼少時代から、愚かしい教育がわれわれの精神を飾り、われわれの判断を歪めている。広大な施設があり、莫大な費用によってあらゆることを教えようとして若者たちが教育されている。しかし、子供たちは詩句を作れても、ほとんどそれを理解することはできないだろう。彼らは誤謬と真実を識別出来なくとも、もっともらしい論証によって他人にそれをごまかす技術を身につけるだろう。しかし、高潔、公正、節度、人間愛、勇気などの語について、その意味を知ることはできまい。」ルソー「学問芸術論」(同書から引用)