わたし達はどこに行こうとしているのか?



 「教育勅語」は日本を悲惨な太平洋戦争に導いた原因を作ったとされて、悪名高い。最近は何事にも忙しく、教育勅語の悪名だけを聞くけれど、本当に教育勅語に何が書いてあるかを知らない人も多い。

 そこで、改めて、読んでみた。なんて書いてあったのだろう? 漢文調で頭が痛くなるので、漢文が嫌いな人は現代訳を付けてある。

「 爾臣民,父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ,朋友相信シ,恭儉己レヲ持シ,博愛衆ニ及ホシ,學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ,徳器ヲ成就シ,進テ公益ヲ廣メ,世務ヲ開キ,常ニ國憲ヲ重シ,國法ニ遵ヒ,一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ.是ノ如キハ,獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン.」
 
(現代訳)
「父母に孝行し、兄弟と仲良くし、夫婦仲は良く、友達を信じて胸襟を開き、社会の人や見知らぬ相手でも親切にし、学問や修業をして自分の能力を発揮し、人格を形成して、社会の役に立ち、皆に評価され、憲法や法律を守り、一旦、国が危なくなったら率先して義勇軍に参加して日本国と天皇を守ろう。日本人はこれまでもずっとそうしてきたのだから、祖先の努力を無駄にしないようにしよう。」
 
 4つの内容を含んでいる。
1. 親、兄弟、夫婦、友人、社会を尊敬し、仲良くしよう
2. 学問、能力、人格を磨こう
3. 法律を守り、国を守ろう
4. 祖先の努力を受け継ごう

 実にもっともなことが書いてあり、もしこれが実践できていれば、現代の成人式も正常に営まれるだろう。でも、現在では「日本を戦争の渦に巻き込み悲惨な目に遭わせた悪の権化、それが教育勅語だ。」と言われている。

 一方、現在の教育基本法には教育の目的が書かれている。

「第一条(教育の目的)
 教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない.」

 さすが名文でしかも理想的な教育像のように見える。でも家族とか親兄弟友人という言葉は出てこない。親、兄弟、夫婦、友人との関係、国家や祖先に対する役割は除かれている。悲惨な太平洋戦争の後に作られ、悪用された箇所を除いてある。

 教育勅語と教育基本法を頭に入れて、次の文章を読んでみたい。

 出典がわかりにくいように配慮して掲載しているが、現代の日本の大学教育、特に科学技術系の教育についての「国民的コンセンサス」として書かれた文章である。現代の社会で指導的な地位にある立場の人が書いている。

 「大学生の、特に理数系の学力低下は技術立国日本にとっては極めて深刻な事態である。それを解決するための最も効果的な施策は大学の教養課程を廃止し、専門基礎知識を集中的に高めることだと考える。高校教育では、数学、物理、政治経済、日本史、世界史、古文、漢文など幅広い比較的高等な授業を受けるが、これらの幅広い知識が社会人になってから実際に役に立つ可能性は皆無に近い。」
 
 この3つは、教育勅語が明治23年10月30日に発布、それに代わり教育基本法が昭和22(1947)年3月31日に施行、そして最後の文章は2004年時の教育に関する論評である。この3つの中で、「教育と国家」が直結しているのはどれであろうか?私は2004年版の最後の文章のように感じられる。

 「技術立国」だから国家のために役立つ技術者を育てろ!教養教育などと詰まらないことを言っていたら、国際的にも負けてしまう。初等中等教育では、ゆとりの教育だとか、人格形成などと寝ぼけたことを言っているので、学力が低下した。大学の研究はコストも考えていない。役に立たない!という考え方である。

 2004年のこの考え方に対して、国家主義の原点のように言われている教育勅語はそうではない。教育勅語の文章をそのまま読んでみると、まず親、兄弟、夫婦、そして友人、社会、学問、人格、遵法精神ときて、最後に「一旦、国が危うくなったら」、その時は己を捨てろと言っている。この全文を見る限り、別に国家主義というほどのものではない。教育基本法の言う「平和的な国家及び社会の形成者として」というのとほぼ同じである。

 ただ、教育勅語の「天皇を守る」ということにひっかかる人がいると思うが、戦前は天皇を統治者として日本を運営していたので、最終的に国家とは天皇を指している。「天皇」を「技術」に置き換えると2004年版になる。

 国家体制は教育、つまり教育勅語の問題ではなく国の体制を一旦決めれば、最終的に国民の合意による国家を保持する目的と合致させる必要がある。だから、「天皇のために巳を捨てろ」という表現は、教育の概念とは一線を画して解釈する必要がある。

 戦後の民主教育は「教育は国家の為ではなく、個人のために行わなければならない」「個人の集合体が国家であって、国家が先に来るのではない」ということを是としてきた。それは再び、崩れつつある。

 近代日本が経験してきた多くの悲惨な出来事は、日本が世界に誇るべき道徳や武士道を捨てて、ひたすら拝金主義、効率主義に陥って来たこと、生活の基本の哲学や規範が失われてきたことがある。戦前、それが悪用されたとしても、悪用はあくまでも悪用であって、そのものが間違っていたということではない。

 わたし達は「レッテル社会」にいる。教育勅語は悪い、ビンラディンは悪だ、アメリカは正しい・・・レッテルは深く考えることを拒否し、わたし達は、またどこかに連れて行かれようとしている。

 わたし達はもう一度、教育勅語を読み、理解し、何を間違って破滅的な戦争に行ってしまったのか、そしてわたし達は今、どこに行こうとしているのかを、他人の言葉ではなく、自分の頭で考えることが必要だろう。