研究の論理


 研究職に向いている人と向いていない人がいます。社会では「頭の良い人は研究に向いているが、そうでなければ研究には不向きだ」と言われますが、それは本当でしょうか?

 一言で「研究」といっても様々ですが、

・世の中にない新しいことを発見する

・世の中には既にあるが、それを改良する

・世の中に既にあるし、改善することもせず、単に調べるだけ

・世の中に既にあり、改善もせず、特に調べもしないが、測定などを行う

などがあります。最後のものを研究と言うこともあり、このような業務に携わると「研究土方」と自嘲的に言うこともあります。土方の人に恐縮ですが、「頭を使わずに体を使う研究」という意味です。

 ここでは、1や2を研究と呼ぶことにします。

 もし、この世の中のことが総てわかっており、人間がしたいことは全部できるとすると、研究は要りません。例えば、世界のどこの人とも瞬時に話をしたい。英語はできないけれど…という場合に、それが総てできれば研究は必要ありません。

 しかし、現実には人工衛星を70ヶ以上上げて、さらに通信関係の技術を作り、その上でソフトを作っていかなければなりません。それには研究が必要です。

 特に大学などでは、会社の研究とことなり、新しい概念や新しい科学を作り出すことが目的ですから、一旦、世の中で「努力すればできる」とわかっていることはあまり興味が無くなるのが普通です。

 すなわち、研究とは

「今、できないから行う」

「今、わかっていないから行う」

「今、わかっていることを疑う」

ということです。もし、今わかっていることをやればよいのであれば、物質を作るなら製造、サービスならやろうと決意をすれば良いからです。

 良く、研究を始めたばかりの学生が、

「先生、先生の言われることはこの本に書かれていることと違います」

と言うことがあります。その学生は本に書いてあるのだから、先生の方が間違っていると指摘してくれているのですが、それは違うことが多いのです。

 既に出版されている本は、その本の著者が10年ほど前に研究し、論文を発表し、まとめられる段階になって出版します。それを学生や研究室が購入して学生の目に触れるのは、おおよそその研究が行われてから15年ほど経過しています。工学の分野などの場合には研究の進む速度が速いので、15年前の知識が現在でも正しいかはわからないのです。

 したがって、研究に向いている人、というのは知識があったり、頭が良いという前に、

「現在の状態に満足しない」

ということが大前提になります。そして、それが故に、研究は失敗の連続ですから、あくまでも自信家で楽天的でなければなりません。

「人がなんと言っても自分はこうだ!」

と心の中で思っていることが必要で、外見は謙虚に見える学者も内心は傲慢な人が多いのもそれが理由です。