アメリカの学生と若者


 18才になるとアメリカ人は独立する。仮にその人が重度の身体障害者であったとしても、18才の誕生日を迎えたその日から親の保護を受けることはできない。もし重度の身体障害者の親が子供の世話をしたいのなら、まず、裁判所に「自分が親であるから、この子の世話をさせてくれ」とお願いし、裁判所がそれを認めない限り世話も見ることができないのだ。一人前の社会人が自分で生活できなければ、親ではなく社会福祉で対応する。それが原則である。

 まして、心身健全な18才の若者が親から独立しないということはあり得ない。まあ、小うるさい親からの独立は子供にとってもうれしいことでもあり、親の方もいくらか心配でもあるが生意気な口を利く大きな子供の世話を焼かなくても良いのも悪くない。

 かくしてアメリカの子供は18才で旅に出る。

 日本の大学の先生は今日も研究室にいる大学院生の母親に電話をかける。彼は学部時代から登校拒否学生であったが、その程度では現在の日本の大学を進級することは容易である。かくして彼は研究室に入り、教授とその母親が知り合いになる。彼は毎日お母さんの作ってくれた朝食をとって自分の家をでる。大学には行きたくない。何となく気が向かないのだ。かくして街の中をブラブラと一日を過ごして夕方、家に帰る。あまりに大学に来ないので、心配した教授が初めて母親に電話したときである。「息子に限ってそんなことありませんっ!毎日、家は出ているのですっ!図書館かどこかで勉強しているんじゃないんですかっ!しっかり指導して下しさいっ!」と怒られる。

 ある日本の女子大生が就職活動で4月から7月までさっぱり卒業研究ができなかった。このままでは卒業できないと心配した真面目な女子大の教授がその女子大生を8月の夏休みに遅れを取り戻させようと研究室に出てくるように言った。教授自身も大学に出てその卒業研究に協力していたが、ある日、母親からの電話に唖然としたという。「うちの娘を何で夏休みに学校に出すんですかっ!娘は夏休みに遊ぼうと楽しみにしていたんですっ!そんな権利が先生にあるんですかっ!」

 日本では卒業研究がどんなできでも、学生を卒業させる必要がある。だからこの女子学生は自分の卒論が合格の基準に達するかどうかなど心配していないのだ。どんな出来でも先生は合格させてくれる。過去の先輩からの助言ではっきりと判っているのだ。だから、卒業研究が遅れているかと言って、遊ばなければならない夏休みの研究するなどとんでもない。しかし、自分が直接教授に言うのははばかられる。生まれてこの方、難しいことは全て親に任せてきた。親に苦情を言えばいつも親が何とかしてくれたのだ。

 アメリカでは巣立つ18才は自分で住居を求め、生活費を稼ぎ、そして大学に行かなければならない。18才になったら一番心配なのは生活費とそして大学に通う若者は「学費」なのである。

 独立した18才の若者に親からの仕送りは無い。生活費を稼ぎながら学費を出していくのだ。と言っても収入が少ないので奨学金を得るのは容易である。もちろん後で奨学金は自分で返すのが普通だが、当面は生活しながら大学に行ける。自分で必死につとめながらの大学である。勉強もしっかりしたいし、先生がキチンと教えてくれないと困る。そんな中で学生のよる授業評価が行われる。

 学生による授業評価を日本でも取り上げている。試験答案や普段の教室での学生の反応を気遣っている教員にとっては、いまさら何のための学生評価か判らない点もある。それに日本の大学生とアメリカの大学生が勉強に取り組み方の差も大きいし、宿題の提出などのシステムが大きく異なることも考慮される必要がある。日本で授業評価をするときのそれらの問題点をどのように考えているのかについて、授業評価の検討過程の情報を公開するなり、シンポジウムなどでさらに研究する必要があろう。また、中学校、高等学校などで一方通行の教育をしている場合、大学で双方向の講義をしようとすると学生が極端にいやがる傾向にある。双方向の講義は学生に嫌われ、評価は辛くなる。この様な個別の問題をどのように解決するかに付いても研究が十分でないように見受けられる。



 アメリカには大学の定員がない。日本の大学の厳密な定員管理から見るととても信じられない。アメリカの大学の人と話をすると、どうしても「何人、学生を収容できますか?」と聞きたくなるが、返事はない。「特に意識していませんよ」という具合である。学生が少ないとキャンパスががらがらになるのでリクルートしなければならないし、学生が満杯になると教育に支障が出るし、学生も文句を言うのでそれも制限がある。ある程度のなるのは決まっているじゃないか、ということである。ある大学が学生の人数を増やそうと思えば、資金を投じ学生を集め、大学を大きくすればよいが、どの大学も拡大基調にあるということはあり得ない。定員は不要なのである。仮に定員制を実施すると落第させることが難しくなり、勢い試験は易しくなって誰でも大学に入れば卒業できるようになる。

 高等学校の教育は大学の入学試験や教育に強く影響される。入学試験が選択制になれば高等学校で基礎的なことを教える必要があっても、大学受験に関係ない科目を教えることは実質的に困難になる。たとえば、1996年度の全国の高等学校での理科の授業では、受験で点数の取りにくい物理の履修者は僅か14%にしかすぎない。1966年度の履修者が98%(必修)であったことを考えると、工学の基礎になる物理を履修しない国民の数が増えることは好ましいことではない。しかし大学受験における物理の問題が化学や生物に比較して難しいことを高校生は良く知っており、それにもともと難しい力学や電気を学ぶことをいやがる心理は良く理解できる。

 大学受験が高等学校の教育を歪めているのは単に受験科目だけではない。日本の大学は日本社会の伝統や大学の定員との関係からどんなに勉強しない学生も四年で卒業させる必要がある。大学に入った学生はその実力を問われることは無い。そうなるとアメリカのように高等学校での成績のトップ20%というような基準をおいても、高等学校側ではその水増しをすれば良い。つまり実力が無くても大学に入りさえすればおおよそ卒業したも同然だからである。もし、大学が集まった学生の下20%を不可とする事ができれば、高等学校の成績を粉飾しても大学を卒業することができないので、高等学校本来の教育と評価をしうるようになるだろう。

 これと同じ関係が、今度は大学と企業との間に存在する。日本の企業が真にビジネスの能力を評価して流動的な人事を行えば、大学卒業者には大学卒業者としての具体的能力を求めることになる。例えば、電子工学では、電磁波の理論や電子デバイス材料の特性など電子工学として必要な知識を大学卒業者に求めることになる。しかし日本の企業は学生の「能力を買う」のではなく「人材を買う」。企業が自ら人材を見分けることが難しい場合、もっとも手っ取り早いのは高等学校の「偏差値」である。全国統一的に行われ、かつ理科系と文科系程度しか分類されていない偏差値はその学生の本来の素質を判断する絶好の尺度である。こんな便利な尺度があるのにいちいち入社試験で人物判断をしても仕方がないということになってしまう。

 そうなると、学生は大学での目的意識を失う。偏差値の高い大学に進むことだけが目的であり、その中で勉強することの意味を感じることはできないのである。大学で勉強するのは「目的意識」という点では錯覚なのである。大学は授業料をもらい、お金で大学卒業という免状を売る。生涯学習や修士号、博士号などの資格があまり問題にならないのも、日本の「人材主義」の結果である。これは競争社会でなく、人の輪を大切にし、終身雇用制をもつ日本の必然的結果である。トヨタ自動車や松下電器は日本を代表する企業であり、日本の大学教育や学問の高度化に責任があると考えられるが、会社の研究所のある研究室長の職が空いたからと言って公募をすることはない。営業部長もそうである。勉強する側としては実力をためる必要がないのである。

 アメリカと日本の社会システムを比較し、日本のシステムを批判しているのではない。人間は生物であるから、ほかの全ての生物と同様に「働く必要のない時には働かない」「楽ができるなら楽をする」という原理が働くし、それ自体は悪いことではない。人生の若い時代、高等学校時代に一回苦労すればそれで一生楽ができるなら、一生競争を続けるよりそれは楽であると同時に合理的でありさえする。会社に入れば実力が問題にされないのだから、これも社会システムとしては随分優れていることになってしまう。日本には本来高等学校までの教育機関があれば良く、後は趣味のようなものとなるはずで、実際にもそうなっているのではないだろうか。

 アメリカにも悩みはある。ベトナム戦争の影響もあって、アメリカは1960年代に価値観の多様化が始まった。それまでの伝統的なアメリカの家庭像は破壊され、「何でパパが偉いの?」「なんで人の物を盗んで悪いの?」という質問に親が答えられなくなる。家庭は徐々に崩壊して行くが、女性の社会的地位の向上など良い面も伴い、価値観は揺れながら進んでいく。今や18才を越えた人間をある価値観や道徳観で縛ることは不可能になっている。一人一人がまるで社会から離れた存在のように自己主張し、自分だけで生きることを主張する。

 大学にとっては1970年代も一つの時代であった。1960年代の混迷期を抜け出したアメリカは再び景気がよくなり、大学を出た人は少々頭が無くても就職した。あまりにも求人が多かったので大学を中退したり、高等学校から直接企業に就職する人も多かった。やがて1990年代になり、経済が停滞すると昇進に学歴が大きく意味を持ってくる。社会人教育がアメリカで盛んになるのはそんな背景があるのだ。

 アメリカには日本にはない多くの問題がある。例えば、アメリカの小学校や中学校の科学教育のレベルは大変低い。それはアメリカの公立学校は全ての人種の生徒を受け入れるので、まず人種の差による様々なレベルの差を解消するのに忙殺され、とても科学教育などと言っている暇は無いからである。効率の大学に比べて私立の大学は授業料を高くしたりして、白人の子供だけを入学させ、そこで英才教育をすることができる。しかし、アメリカ人の多くを収容する公立小学校や中学校が人種問題で大きく遅れることはやはり問題である。