芝浦工大のルネッサンス
1.エピローグ:近代科学の誕生と発展
フランスの歴史家ティーヌはヨーロッパ中世の停滞を次のように表現している1。
「ヨーロッパ中世の人々は、数百年のあいだ、行進の動作をつづけてはいたが、しかし、彼らはただ足踏みをしていたのにすぎなかった。」
確かに中世のヨーロッパでは総ての人間の活動があたかも凍りついたように動かず、停滞しているように見え、それは科学も例外ではなかった。中世における科学というものと事実に対する見方をよく表した逸話がある。
「太陽の黒点を発見した若者が、その旨を師の高僧に報告した。 ところがこの高僧は、「若者よ、余はアリストテレスを反復熟読したが、その様なことは、どこにも記されていなかった。 それ故に汝の発見したという黒点とやらは汝の目の中に有るのであって、太陽にあるのでは無いと信ぜよ」と答えた。」
ヨーロッパ中世では、事実を事実として認めず、事実を古典の中の記載に求めていたのである。圧迫された人間の精神は新しいものを生み出す力を持たない。事実をありのままに観測することが基本であると考えられている自然科学も、圧迫された精神では事実を見ることも許されない。しかし、やがてルネッサンスの風が吹き,圧迫された精神が一気に解放される日が来た。解放された人間の精神はすぐに素晴らしい絵画、新しい音楽を生み出し、精神界を支配していたキリスト教にも新しい息吹が生まれた。近代科学もこの激しい人間の魂の爆発の中で誕生したのである。
近代科学誕生の過程は、中世の頸城から解放されるためには3段階が必要とされた2。 フランシス・ベーコンの科学の価値の認識、デカルトの還元論,ニュートンの物理学である。
科学は「実利に関係ない純粋な学問」と考えられがちであるが、F・ベーコン(1561-1626)は、知識が真実で価値のあるものかどうかは、その有用性によって実証されなければならず、したがって、どんな哲学体系の価値も、人間の福祉に対するその寄与によって判断されるべきであると主張した。この主張には異議を唱えたい学者もいると思うが、知識は人類の福祉である、と言い切るベーコンの高い魂と、それが、自然現象を一度に説明しようとして教条主義に陥り、進歩もなく空虚な議論を戦わせていた中世の頸城から救い、近代科学の出発点になったという歴史的事実を噛みしめる必要があろう。
R.デカルトが、 「方法叙説」( Discours de la methode)を著したのが1637年。彼は、”世界は理性によって理解することができる”と言い、”数学の助けによって出来事は科学的に表現できる”と結論した。 天体を動く惑星は神の愛によって動かされるのではない。物体が地上に落ちるのもまたその物体の意志で地上に落るわけではない。従来自然界の出来事は、神の愛と人間の合目的な方向に動いていると考えられたが、[原因]と[結果]が数学的な法則によって結びつけられていると説いた。
I.ニュートン(1642-1727)の「プリンキピア」として知られる「自然哲学の数学的原理」(Philosopiae naturalis prinpicia mathematica)は1687年の出版である。二項定理の公式の発見、万有引力の発見、太陽光のスペクトルへの分解、そして微積分への功績などニュートンの偉大さに今更ながら感銘を受ける。 ニュートンの残した[私は仮説を作らない](Hypotheses non fingo)という言葉は、彼が偉大な哲学者であるとともに、完璧な実験科学者であることを物語る。中世の太陽の黒点の逸話を思い浮かべると、事実の観測に対する考え方の進歩を感じざるを得ない。
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図1 ベーコンの著書の表紙
かくして近代科学は思想界と自然科学界の3人の巨人によって誕生し、爆発的に発展して今日の人類の繁栄を築いた。それまで深い闇の中に埋もれていた大自然はベーコンやニュートンの目の前に姿を現したが、それを予見した彼らの目に、大自然は、彼らの眼前に拡がる広大な「未知の海原」と感じられた。図1はベーコンの著書の表紙の絵であるが、まさに未知の海原にこぎ出していく帆船が描かれている。まさにニュートンが死の寸前に、「私の目の前に未知の真理をたたえた海原が横たわっている。」(Newton 1727)と表現した海原に、科学者は競って漕ぎだし、全力を挙げて自然界の法則の発見とその応用に力を注いできたのである。
自然を解き明かしていく行為が人間社会に貢献をするという確信はベーコンによって与えられ、実施する手法として複雑な現象をできるだけ本質的でシンプルな内容に解析的に分ける方法もデカルトが与え、そして最後に具体的な方程式をニュートンが発見したのである。これだけの事を教えてもらった科学者は飽くことのない探求心や名誉欲などに支えられて、一気呵成に大自然の解明に狂奔した。万有引力の発見や運動方程式を基にした物理学、微分方程式の発見からはじまった近代数学、多彩な合成を可能にした化学、パスツールやダーウィンなどが活躍した生物学、医学、博物学などの基礎学問の上に、産業革命を一つの契機として、工学が華々しく登場し、人類の生活を基盤から変革していった3。
激しい近代科学、近代工学の発展は、一つ一つその事実を羅列しなくても、15世紀の社会の風景と現代の様子を思い浮かべればそれで十分ですらある4。
2 工学の光と影
華々しい近代科学は20世紀に入って様々な社会問題を引き起こした。機関銃の発明による日露戦争や第一次世界大戦での大量の戦死者は、ますますその規模を拡大し、最後に原子爆弾の広島、長崎への投下に至る。大規模重工業は煤煙曇るマンチェスターのスラム街を作り出し、やがて地球温暖化やフロンによるオゾン層破壊などの地球全体に影響を及ぼすような規模の公害になった。現代に生きる我々にとってはすでに科学についてベーコンほどには楽観的に感じてはいない。
しかし、近代科学はそのマイナス面を強調しても、それのもたらした人類への貢献を認めないわけにはいかない。我々は、蒸気機関で始まった動力のおかげで肉体労働から解放され、鉄道や自動車を使って遠くに行くことができる。電気と電子の力でテレビを楽しみ、冷蔵庫から冷たい飲み物を出して喉を潤すことができる。衛生状態の悪い家に閉じこめられ、あかぎれに苦しみ、暗いローソクの光の中でうごめいていた多くの女性は、今や解放されて幸せそうに飛び跳ねている。女性を解放し、幸福にしたのはまさに工学の力であった。
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図2 中世の外科手術
医学の世界においては近代科学の貢献は更に顕著である。図2は近代初期の外科手術の様子を描いたものであるが、右の方では医者がノコギリで患者の脚を切断している。患者の傍にはノコギリで切り落とす脚を持つ助手、そして迸る血を受けるためのたらいが見える。ひどい苦痛を伴う外科手術ではあったが、そんな苦しみを受けても手術が成功して命をとりとめる例は少なかった。それを象徴するように患者の後ろには聖書を片手にした牧師が立ち会い、患者に覚悟を付けさせているのである。いまからわずか500年前に我々が生まれていたら、ノコギリで脚を切られる苦痛を覚悟しなければならなかったのだから、これも近代科学の偉大な恩恵と言えよう5。
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図3 火あぶりになる魔女
精神界でも近代科学は迷信の追放などの大きな貢献をした。図3の絵は中世のヨーロッパで「普通の女性」が「魔女」として公衆の面前で縛り首にあっている絵である。当時、人間は霊的存在であると信じられていたので、一見普通の女性に見える人でも、「魔女」である可能性があったのである.魔女であるかどうかの判定は焼けた火箸を持たせてやけどをするかどうかとか、湖の中に投げ入れておぼれるか否かというような簡単なものであり、それで魔女と判定されると、たちまち火あぶりや縛り首に遭うのであった。
20世紀の今日では、普通の女の人が駅の前の広場で魔女であることを理由に火あぶりになったりはしない。それには我々の持っている自然科学の知識が「魔女など居るはずはない」と教えるからでもある。
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図4 地下の炭坑から石炭を運び出す炭坑婦
この様に近代科学が人類にもたらした寄与は様々な面で大きかったが、同時に困難をも引き起こしたことも事実である。産業革命とワットの蒸気機関はそれまで人間が獲得することのできなかったほどの巨大な力を得、辛い肉体労働から人類を解放し、巨大機械を生み出し、生産能力を飛躍的に増大した。労働は集約され、巨大資本が出現して、それまで小さいながらも自分の田畑を耕していた農夫やその妻の穏やかな生活は一変する。大資本による土地の囲い込みが行われ、都市に追い立てられた労働者は、あるいは劣悪な環境の工場で長時間の労働を強いられるか、または地下深い炭坑の階段を喘いで昇るようになる。図4は当時の炭坑の悲惨な主婦労働の有様を描いたものである。現代の日本のご婦人の生活から想像もできないほどの状態である6。
20世紀に入ると科学は更に大きく揺れるようになる。今世紀の前半には巨大石油精製、石油化学が生まれて大量の生活必需品や自動車用燃料を供給するようになるが、それと共に大規模公害が発生し、まさに人類は科学の力を使って自然をも征服せんとしつつあるのだ7。 かくして人類に対する貢献と破壊の振幅が最大限の拡大した一つの例が、原子力である。20世紀初頭、キュリー夫人がラジウムを発見し、元素の崩壊と変換を発見して、2つのノーベル賞を受賞したとき、そして、1942年人類に初めて原子力エネルギーの解放によって人類最初の原子炉が運転された。これによって人類は化石燃料の枯渇という未来の頸城から解放された。まさに科学と工学の大きな進歩であった。シカゴ大学の原子炉の前で記念写真(図5)に収まる科学者の自信にあふれた顔がそれを雄弁に物語っている。
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図5 人類最初の原子炉の前で記念撮影をする科学者達
しかし、人類に未来永劫にわたって利用できるエネルギーが得られた歴史的瞬間のわずか3年後には、原子力エネルギーは人間を殺すために最初に使用されたのである。平和主義者で物理学者のガモフはその著書の中で述べている次の言葉は、ガモフが平和主義者であるが故に、工学を専門とする我々の心に深く傷を与えないではおかない。
「唯、付加しておきたいことは、純粋な研究(それとも好奇心?)上の見地から考えれば、最初の原子爆弾が日本の都市に対してその破壊力を示した後で、第二段を今度は何か別の目的に使って見なかったのは残念に思われる。…………」(下線著者)
ガモフは原子爆弾を広島、長崎の様な都市ばかりでなく、他にも使っているとその破壊力が一層よくわかると言うのである。この文章には原子爆弾に対する科学者としての心の痛みは感じられない。ネバダの原爆の実験に立ち会った優れた科学者達は爆発によるすさまじい爆風から爆弾の威力を理論的に計算したという。そんな優秀な頭脳を持っている科学者が、あの熱風が広島の可愛い少女の上に降り注いだら、少女がやけどを負って苦しむ、という単純なことは判らなかったのである。
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図6 DNA構想模型の前で得意げなWatosonとCrick
近代科学が、最後にもたらした功罪は生命科学の方面でおきつつある。 F. Baconが提唱し、そしてその予言通りに進んできた近代科学が明らかにすべき「未知の海原」の最後の航海者とも言うべきイギリスのワトソン(J. Watson)とクリック(F.Crick)は1953年にDNAの構造を解明した。ノーベル賞を受賞したこの二人は実験をせずにフランクリン(R.Franklin)とウィルキンス(M.Wilkins)のX線回折写真を整理して、生命の根幹となるDNAの構造を明らかにしたことも最後の航海者としてふさわしい。
ともあれ、この発見によって生命の神秘は解き明かされ、人間は直接的に生命現象に医学、工学の手を伸ばせることになった。生命の神秘が解き明かされることはニュートンの道の海原の探検の範囲であるから近代科学の必然的な結末とも言える。そしてDNAの解明は食糧危機を救い、難病を治し、社会への貢献という点で、ベーコンの思想の最後の実践者として適切であろう。
しかし、DNAの構造解明は、生命を人間が作り出し、クローン生物を生み、必要とあらば、豚の体の一部(たとえば肝臓)だけを人間にした「人間肝臓ブタ」を飼育し、必要なときにその動物から肝臓を取り出す移植をするようになろう。やがて、人間そっくりな移植用動物を作り出し、社会を想像できない形に作り返る危険性をも含んでいる。
工学がもたらすこの様な矛盾は、ノーベルが火薬の恐ろしさを感じて、科学が平和目的に使用されることを願い、有名な「ノーベル賞」を創設したように、ある意味では工学の宿命ともいえるものである。工学の倫理を鋭く批判した、スウィフトの「ガリバー旅行記」には巨人の国に行ったガリバーが人類が火薬を発見したことを自慢げに話す8。
「われわれはこの粉末を大きな中空の鉄球に詰め込んで、機械仕掛けでこれを攻撃中の都市めがけてぶっぱなすのだ。すると舗道は砕ける。家屋は粉砕する。破片は八方に飛び散って、近づくものは誰彼の差別なく脳奬を叩き出す。」
これに対して、巨人国の王様は
「よくもその方のような無力、地をはう虫のごとき存在が、かかる鬼畜のごとき考えを抱き、あまつさえその凄惨流血の光景にも、まるで平然として心を動かさないかのようなしゃあしゃあたる態度でいられるものだ。その方はその破壊的機械の効果について、まるで日常茶飯時のような話し方をするが、かかる機械の発明こそは人類の敵である。なにか悪魔の所行に相違ない。」
ここには火薬というものの秘めた恐ろしさと、それがもたらす悲惨な状態に対して徐々に感受性を失っていく人間の愚かさが描かれている9。
本論は工学の影の部分を取り立てて論じようとするものではない。この種の議論には、自分がテレビで野球観戦を楽しみ、ボタン一つで沸く風呂に入り、妻は冷蔵庫、洗濯機で家事をし、休日には高速道路を利用してクーラーの効いた車でドライブに行き、さんざん工学の恩恵を受けているのに、それを棚に上げて、工学の影の部分を強調することも散見される。工学は我々から多くの苦痛をとり、楽しみを与え、寿命を延ばしたのである。
3. 70年の工学と社会
1927年1に芝浦工業大学の前身である東京高等工商学校が創設されたが、当時の日本は戦争の色が徐々に濃くなり、一刻も早く日本の工業を発展させなければならない時にあたっていた。時代の先を読むことに優れていた東京高工の創始者、有元の狙いはあたり、1937年には芝浦の校舎が完成、陸軍大将岸本綾夫を総長に迎え、学生数一万人に達した。1941年に日本が第二次世界大戦に参戦する直前のことである。当時の授業風景が記念出版物に掲載されているが10)、知識と技能を吸収せんとして熱心に製図に励んでいる光景が見られる。
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図7 開校当時の本学の授業風景
しかし戦争はすべてを焼き尽くし、新生芝浦工業大学は1948年に新制大学として再スタートをするが、第一回目の入学生はわずか32名、教職員は予備校の周りや駅でビラ配りを行ったと記録されている。その後、芝浦工業大学は高度成長の波に乗って、徐々にその地位を上げ、創立70周年を迎えた本年は全国工学系私立大学の10本の指に数えられている。機械工学科、電気工学科、建築工学科を中心とした多くの卒業生が日本の高度成長を支えたのである。
近代科学の発展と日本の工業界の動きという点から見ると、芝浦工業大学が創設された1927年と新制大学として生まれ変わった1948年はともに時代の転換点でもあった。19世紀までの科学、工業の発展の基盤の上に重要な科学の発見、工業技術が花開いたのは、1920年代であった。キュリー婦人のラジウム発見、アインシュタインの相対性理論などを経て、物理学はボーア、シュレーディンガーらが活躍し、工業界では、ライト兄弟の航空機からフォードの自動車へと進んでいた。1928年のアルミ精錬、1924年のスタウディンガーのポリスチレン、1928年の尿素、1929年のペニシリン等の大きな第1次の波が1920年代の後半にある。工業生産は飛躍的に伸びるとともに1929年の大恐慌、ドイツの社会不安もあり、まさに競争の時代にあった。世界的な活動の波は日本にも及び、それが芝浦工業大学の第一期の黄金時代を築いたのである。
第二次世界大戦は世界に大きな傷を負わせたが、その復興と巨大科学技術の発展のタイミングが合い、1942年の原子炉、1947年のコンピューター、1948年のトランジスター等の戦後の爆発的な工業の発展、そして第2波である1953年のDNA、1960年のレーザー、1961年の集積回路と続くのである。
「鉄は国家なり」と言われたように、鉄鋼の生産はその国の力を表すとともにいろいろな意味で、社会の状態を反映する。図8はアメリカ、イギリス、そして日本の鉄鋼生産高を1920年から今日に至るまでグラフにしたものである。
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図8 芝浦が歩んできた70年の鉄鋼生産
芝浦工業大学が開校し、日本が戦争に巻き込まれようとしていた1920年代の終わりころ、アメリカはすでに5000万トンの鉄鋼生産能力を持っていたが、日本は僅か100万トン程度であった。この第一期を図8の下の方に示した。日本は芝浦工業大学をはじめとした工業教育の拡充と工業の振興策で第二次世界大戦末期には鉄鋼生産高を600万トン程度まで高めたが、それでも彼我の開きは歴然としていた。太平洋に散った多くの先輩の血はその差を埋めようとした結果にすぎないであろう。
戦後、芝浦工業大学への入学者が32人に減少したことと全く同様に、日本の鉄鋼業も底まで落ち、その後、LD転炉の導入も相俟って、急速に生産量を上げる。1960年にはイギリスを抜き、1970年1億トンを突破して、アメリカと肩を並べるまでになった。この間の高度成長は目を見張るものがあり、図8の第二期の線の傾きを見れば、この時代にいかに多くの工学技術者を必要としたか、それによって現代の日本の繁栄があるかが判る。この時代に芝浦工業大学は大量の技術者を世の中に輩出し、図8に見られる1960年代の急激な成長を支えた。芝浦工業大学の大学紛争は1968年に始まっており、大学紛争との関係では、すでに卒業した学生が社会で活躍し、この日本の最大の成長期を支えたのである。
日本人の所得は伸び、生活は一変した。冷蔵庫、TV、洗濯機の三種の神器を持たない家庭はなくなり、主婦は過重労働と辛いあかぎれの苦労から解放されて、三食昼寝付きになった。自動車も普及して豊かさを実感できるようになった。同時に産業の急激な発展は同時に様々なひずみを生みつつあった。四日市喘息、水俣病などの多くの公害問題とともに交通事故死の激増など工学のもたらした社会は、すべてが望ましい方向ではなかったのである。
機械工学の分野ですら、19世紀には工学に対する疑問が感じられていた。1885年に「100年後の朝食」と題された漫画には、家庭で夫婦が機械仕掛けの朝食供給装置に振り回されているのが描かれている。機械ができて便利になったように感じられるが、本当に便利なのだろうか? オートメーションによって人間性が疎外される状況を鋭く抉ったチャップリンのモダンタイムズを思い起こさせる光景である。
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図9 1885年に想像された1985年の朝食
現在のインターネットは素晴らしい未来を約束しているが、情報革命がパソコンの前に座りっきりの若者を想定し、その延長線上にある社会を目指したらそれはあまり楽しいものではない。図9は技術の将来について、それを発明する工学がトンチンカンな考えを持っていてはいけないのだ。
4.エピローグ:工学・これからの70年
方向を間違えないためには、今日の工学が大きな転換点にあるという認識に基づき、「工学ルネッサンス」の議論を深めることであろう。
本論文では、2つの点を指摘したい。その一つは工学に対する信頼性の回復である。工学は確かに人間の物理的生活を豊かにした。しかしそれと同時に戦争での死者を増大させ、公害をおこし、さらに最近ではクローン人間などの怪しげな創造物に手を伸ばそうとしている。さらに原子力の事故とその後処理問題、エイズ問題に見られるように、自分の興味や業績のために科学者、工学者以外の他人を犠牲にする存在にも社会は神経をとがらせている。
しかし19世紀の最初までは科学者は善良で正直な人種と見られていた。図10はココアの品質の保証の広告に使われた絵であるが、この宣伝ではココアの品質を科学者が検査をしているところを描いている。科学者は少し変人ではあるが、社会には少なくとも無害な人種であり、たとえばココアの品質を調べてもらったら、「悪いものは悪い、良いものは良い」と言う人たちである、と認識されていたのである。
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図10 19世紀の善良な科学者
信頼を勝ち得る重要なもう一つの視点は、1985年の朝食のように必要でもない機械を作ることではなく、本当に社会が望んでいることを発明することである。F.Baconが言ったように、「真理」ですら社会に役立たないものは真理でないからである。図9の絵と図11を見比べてもらいたい。いくら機械が好きでも、油のにおいのする機械の中で食べるのではなく、音楽の流れるゆったりとした環境で食べたいものである。工学は独りよがりではいけないのではないだろうか。
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図11 工学の寄与は小さいが楽しい食事
芝浦工業大学がその70周年記念事業で掲げている、「人に優しい工学」とは、このことを言うのであろうと解釈される。
第二の視点は、芝浦工業大学の第一期の黄金時代が戦前の日本の工業勃興期の終盤にあり、第二期の黄金時代が戦後の工業が成熟した現在にあるとできるならば、言うまでもなく芝浦工業大学の発展は、社会の状況の変化に即していることが必要である。図8に見られるように鉄鋼生産が天井を打って変化しない現在は、重厚長大の社会から、軽薄短小の社会への転換期を意味している。高度成長期を支えた多くの卒業生は、図8の「第二期」の線が示す急速な伸びのなかで社会に貢献した、もし、学生が高度成長と同じ訓練を受けたとしたら今後は行き場を失うであろう。次の社会の変革に焦点があった方向への舵とりが必要である。
それは芝浦工業大学の第二期を支えた「高度成長型工学」ではなく、その時代を築いた先輩の努力のフルーツを活かす工学である。家を持とうという時代から町並みの時代へ、大型機械の大量生産から微細加工へ、橋梁用の鉄鋼材料からエレクトロニクスデバイス材料へ、強電から通信へと工学分野はそれぞれに転身を必要とされる。情報革命と呼ばれる大規模情報時代は巨大動力が得られるようになった産業革命以上のインパクトを社会に与える。情報によって資源の使用量は大幅に減少し、大量消費に基づく環境問題は自然に解消し、省資源技術の大半も消滅するであろう。一人の人間の消費するエネルギーと材料は少なくなり、人生の幸福を物質に求めない時代が到来する。同時に資源の枯渇時代を迎え、振幅の激しい社会へと変化をしていく。
新しい社会を実現するには新しい工学が必要であり、工学こそがその扉を開きうる。
芝浦工業大学の70年を社会と工学の発展という視点から振り返り、今後の70年を考えるとき、工学が受け身の存在ではなく、より積極的に社会に働きかける姿が浮かび上がる。それをより具体的に、かつ攻撃的に述べた本を紹介して本論を閉じる11。
“Many engineers deny their influence, insisting that they merely carry out the orders of others ? politicians, for instance. Yet in fact it is the engineers who draw up the politicians’ shopping lists by furnishing specific solutions to particular problems, complete with plans and specifications. And of course the solutions proposed by engineers require engineers to carry them out.”
1 当時、東京大学大学院在学中の有元史郎は大森に「東京高等工商学校」を創設。
1 “世界史大系”、誠文堂新光社第9巻、21ページ
2 S. Ravinovitch, “Francis Bacon, from Magic to Science”, Routledge, Kegan Paul, (1968)
3 S.Kuhn, “The Structure of Scientific Revolution”, University of Chicago Press (1962)
4 H. Butterfield, “The Origin of Modern Science”, Macmillan (1949)
5 S.Brown, “The Wisdom of Science”, Cambridge University Press (1986)
6 “技術の歴史”、筑摩書房 (1962)
7 東京大学公開講座、“人間と環境”、東京大学出版会、(1971)
8 スウィフト、“ガリバー旅行記”、中野好夫訳、新潮文庫
9 加藤尚武、“技術と人間の倫理”、日本放送出版協会、(1996)
10 橋本邦雄、“芝浦工業大学――60年の軌跡――” 芝浦工業大学広報室発行 (1991)
11 Eugene S. Ferguson, “Engineering and the Mind’s Eye”, The MIT Press, Massachusetts (1993)