「森の生活」は都会で


空中で寝る東京の生活は幻想の世界のようにも見えます。文字通り「足が地に着いていない」このような生活から離れ、静かで自然豊かな地方に住み、できれば森の中で生活することを夢みます。そこでは、昔のように庭に家畜を飼い、朝は新鮮なニワトリの卵を取りあげて食卓をかこみ、自然の息吹を感じながら生きることをめざすのです。すでに、そういう生活を実践している人たちもいます。

 このような「森の生活」や、そこまでは行かなくても都会を離れて、地方で生活をしたいと願っている人は多いのですが、それは「環境に良いこと」なのでしょうか?

 ヘンリー・ソローという作家が一五○年ほど前に「森の生活(邦訳の題名)」という本を書いています。アメリカの人ですが、単に文明を逃れて森に逃避したというのではなく、本当の人生とはどういうものか、森の中で「実在」という難しい概念を追求した人です。

かれは、こう考えました。

 ・・・人間は自分がなにを体験し、なにを感じたかが、人間の思考のもっとも深いところにある。ひんぱんに旅行したり、都会の喧噪の中に身をおくことではない、じっくりとひとところに居を構えて、そこで自然とともに「実在」をとらえることだ・・・

 もちろん、いまから一五○年ほどもまえのことで、日本ではまだ江戸時代。社会は今よりずっと素朴で、科学はほとんど発達していなかったころのことです。ダーウィンの進化論もでていません。だから、人間は神に似せられて作られた特別の動物と信じられていましたし、原子力という力も判っていなかったので、太陽がなぜ光っているのかと聞かれても答えられない時代でした。

 そのような時代でも、すでに人間の社会がしだいに現実から離れ始めたことを、敏感な人は感じていたのでしょう。ソローはマサチューセッツ州コンフォードの南方に小屋を建てて生活を始めました。そこで、彼は自然と動物とともに生き、そしてその体験に基づいて「森の生活」を書いたのです。

 現代の日本にも同じような考えの人がおられ、森の生活や地方での人生を楽しんでいます。

 たしかに、都会は雑然たるビルに囲まれ、ぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られ、間違って女性の体に手が触れることでもあれば、たちまち新聞沙汰になります。街角には子供の姿はなく、地面はコンクリートとアスファルトで覆われて、まるで荒野のようにも感じられます。

 感受性の強い人がこのような環境に耐えられるとも思えません。都会の喧噪に疲れ、また真実の人生を求めて森の生活にあこがれ、あるいは定年後に地方に住みたいと思っている人が多いのも当然です。森の中に入り込むほどの生活はイヤでも、せめて自然に恵まれた地方でのんびりと余生を送りたいと願う人も多く、実際にも地方にはそういう希望を持つ人のために特別な施設や環境を提供しているところもあるくらいです。

 まず「自然の中の生活」を現実に実施している国、フィンランドの生活を簡単に見ることにします。著者は昨年、フィンランド大使館の人たちと環境の合同シンポジウムをしましたので、そのときの話題を中心にしました。

 ヨーロッパ北方のフィンファンドは森と湖に恵まれた風光明媚な国で、国民の多くが森に住み、森の中で一生を送ると言われます。国土面積は日本とほぼ同じですが、人口は五○○万人強。日本の二○分の一です。この程度の人口密度はどういう感じでしょうか?

 長さが一キロメートル四方の土地を考えますと、フィンランドではその中に一五人で約四軒が住んでいる計算になりますが、日本では同じ面積に、一○○軒がすし詰めです。また、日本の江戸時代の人口は約三○○○万人。その五分の一です。

 そのような豊かな国土のなかで生活をしているフィンランドの人は、自然の中に生き、自然とともに暮らしています。自然とともに生きているのですから自然を破壊しないように注意しているのも当然です。特に、湖のほとりに家を建てる時などは、下水で湖が汚れないように湖から離して建てるように気を配っています。

 また、必要な木は多くの場合、自分の家で切り、大事に皮を剥ぎます。皮を剥ぐときに機械を使うより手を使って慎重に剥ぐと実に良い木が得られると言います。そして、「手で剥いだ木の皮」も大切な資源となり、木くずも燃料や加工品に徹底的に使われるのです。

 また、生活に使うものの多くが自分の周りの自然から採れます。落ちついた家具、食卓にはフィンランドのパンと赤ワイン、すべて生活とゆったりと流れる時間のなかで進みます。そして、生活そのものが自然のなかにしっかりと根づいているのです。

 森を大切にする一方では、植林をし、木材を積極的に活用しています。「森を守る運動」と称して森の木を切らないことはかえって自然との共存を破るという意識なのです。

 そんな風土のなかで、フィンランドに古く伝わる「カンテレ」という楽器にあります。写真を示しましたが爪ではじく弦楽器で、形はハープに似ていますが、音色は日本のお琴にそっくりです。


 シンポジウムではカンテレの演奏がありました。そして大使館の人たちに、フィンランドの黒いパンとワインをご馳走になり、その日は幸福な夕べを過ごし、カンテレのCDを買ってマンションに帰りました。

 著者は「愛国的持続性社会論」などを唱え日本を大切にすることを主張していますが、それでも「ああ、フィンランドはいいな・・・わたしもこんなゴミゴミした日本で一生を終えたくない」としみじみと思った日でもありました。

 ところで、日本人が森の生活をするには、いろいろな準備がいります。
まず、溢れるほどの工業製品に囲まれている生活のパターンを変えなければなりません。ゴミの問題にしても、ヨーロッパを学ぶなら、まずゴミの量を半分にしなければなりません。日本よりずっと先進国のイギリスですらゴミは半分です。

 つぎに、生活を自然から採れる木や紙を中心として組みたて、長く使える家具や居間と調和した頑丈な家庭電化製品を使い、近いところは車を使わずに歩き、暖炉を囲むことはあってもむやみにエアコンを使わないなどの工夫もいります。

 そのくらいなら、なんとか日本でもできそうな感じがします。

 しかし、フィンランドの人のような生活を実現するための一番大きな障害は人口密度でしょう。もし、日本の人口をフィンランド並みの五六○万人まで減らすとすると、日本のなかで戦争をして、日本人の一人が二一人を殺せば人口は五六○万人まで減ります。そして、生き残った運の良い人がフィンランドと同じ素晴らしい環境で生活をすることができると言うことになります。

 もちろん、こんなことは現実的でもないし、環境に良いはずもなく、また快適な人生でもありません。多くの家族や友人を失って、自分一人が森の中に住んだところでどうにもならないからです。

 どうしてこんな奇妙な結論になるのか、ここで「森の生活」の意味をもう一度考えてみましょう。まず、「森の生活」や「地方での人生」を送ることが環境を改善することにつながるのかということです。

 日本とフィンランドの人口密度を考えて、東京や大阪などの大都市と、人口密度が二○分の一程度の県と比較してみます。

 まず、自動車の保有台数では、東京は四人に一台の自動車を持っているのに対して、人口密度の低い県は平均して二人に一台の自動車を保有しています。

 地方では、自動車は「楽しみのためのもの」ではなく「荷物を運ぶ道具」でもなく、むしろもっと基礎的なもの、「生活を守るための必需品です」なのです。

 つぎに、人間が移動するときに電車と自動車ではどちらが環境に良いかについてのデータを示します。運輸省(現在の国土交通省)の調査ですが、例えば、一人の人が一㌔㍍移動するのに、電車なら一○○キロカロリーを要しますが、自動車の場合はそのおよそ六倍のエネルギーが必要です。電車より自動車の方が環境に悪いことは、多くの人が知っていますが、その差は六倍にもなるのです。


 つまり、東京や大阪と人口密度が低い県では、自動車の保有台数で二倍、使用エネルギーで六倍違うので、人間一人あたりに換算すると、移動のエネルギーは、地方の方が実に十二倍も消費していることになります。

 さらに都会と地方では地方の方が平均移動距離が長いのでさらにこの差は広がります。その人の活動量にもよりますが、おおよそ二○倍程度と推定されます。

 当然の結果です。

 広いところに住み、便利さは都会と同じ生活をしようとしたら、それだけエネルギーがかかるという結果が得られたに過ぎません。

 地方に長く住んでいた人は、そんなものかも知れないという感想をもっています。地方の町では最近、「近くの商店街」がすっかり寂れ、郊外に大きな店ができる傾向にあります。買い物をするにもそこまで車を使わなければなりません。また、伝統的に家が田畑の近くにあるので町まで距離が遠いので、しょっちゅう車に乗っているのも事実です。

 その代わり、地方では「もの」の使い方が東京とかなり違います。都会では生活に使う品物を使い捨てする傾向にあり、コンビニで買ったお弁当やジュースの容器もすぐ捨てなければ生活ができません。事実、都道府県別の「ゴミの量」を比較しますと、大都市が二倍程度多いことが知られています。

 このように単純な比較はできませんが、人口が少ないとエネルギーが多くいると言えます。例えば、国民一人あたりの所得がほぼ同じである日本とカナダを比較すると、一人あたりのエネルギー使用量は、カナダが二倍程度です。

結局、大都市のようなぎっしりと詰まった生活をするのと地方の比較ではかならずしも「地方の生活だから環境に良い」と決まったわけではないことが判ります。

 「森の生活」にあこがれるもう一つの理由は、森に囲まれて自然の中で悠々と過ごそう、ということでしょう。確かに、お金があれば東京からヒコーキで一時間ほどの空港から車で一時間ほど。豊かな木々に囲まれた自然の中で終末を過ごす・・・それは素晴らしい生活です。

 しかし、もちろんこのような生活をすべての日本人ができることではなく、特別な人たち、たとえば充分な遺産を持っていたり、特別な才能があって職場まで行かなくてもお金が入ってくる人や、充分な退職金をもらい老後は静かな地方で暮らすことができるという人だけに許されることです。

 もちろん、そういう人たちが地方や森の中に居を構え、悠々自適な生活を楽しみ、都会で仕事をしたり子供に会いに行くのにヒコーキを使うといって、非難することはできません。しかし、そういう生活は膨大なエネルギーを使い、環境を汚していることは知っておく必要があります。
二○世紀は競争の時代でした。

 競争の時代とは「自分が良ければ良い」ということが社会の正義でしたから、弱肉強食のシステムができあがったのです。

 その典型がクーラーです。

 冷静に考えてみれば、真夏の気温が三○℃もある時に、自分の家だけを冷やして、「室外機」から熱風を隣の家に吹きつけ、お隣が「真夏の暖房」に苦しんでいるのを気がつかず、「クーラー」と呼んで平然としていた時代です。

一昔前なら、家族の誰かが「暑いからクーラーを買ってよ」とねだると、頑固親父が「この暑いのにお隣さんに熱風を吹きつけようってのか!」と叱ったでしょうが、今はそういうまともな人は滅びてしまいました。人当たりが良くニコニコはしていますが、お隣に熱風を吹きつけるのは平気という人が増えました。

 「森の生活」はクーラーほどではありませんが、質的には似ています。

 環境を大事にし、自然に親しむと言うと何となく美しく、決して悪いことではないように思えます。しかし、森に住むということは自分だけがエネルギーを大量に使い、日本の自然という共通の財産も人の二○倍も使っているのだ、という意識が必要だと思われます。

 「環境」とは「みんなの生活環境」を意味しています。自分だけの環境なら、ゴミを出しても二酸化炭素を出しても良いのですから、もともと環境を問題にする必要はありません。そして「みんな」とは特定の人だけを対象にしていませんし、「生活」とは毎日、働くことが前提です。

 「環境を守る」ということは、「みんなが少しずつ我慢して、日々の生活をするなかで、できるだけ人間らしい、快適な生活が送れるようにしよう」ということなのです。だから、すこし厳しい言い方ですが、「森の生活」というのは、実は環境を守ることとは正反対の行為で、「自分だけが良ければよい」という「ものの時代」の考え方で成立しているとも言えます。

 自分だけが良ければよい、という基本的な考え方の上に立って環境問題に取り組むとき、わたしたちはよく間違いを犯します。それは「森の生活」だけではありません。たとえば、「自然のエネルギーを利用する」というといかにも環境に良いことのようですが、これも錯覚の一つです。その例として、すでに長い歴史のある水力発電の例を引きましょう。

 山から水がせせらぎとなって下り、やがて川となとなって、とうとうと流れ下る。まさに自然のダイナミックな活動です。そして、そのエネルギーは膨大だから山にダムをつくり、ダムの落差を利用して発電するのが良い、まさに「自然エネルギーの利用」と信じたのです。

 「水力発電は自然エネルギーの利用である。石炭火力のように煤煙も出ないし、枯渇のおそれもない」という意見にみんな納得しました。現代の風力発電に似ています。

 しかし実際にダムをつくってみると、周辺の環境はすっかり破壊されました。特に、ダムの下流はそれまで、いつも豊かな水と小石が流れていたのに、人間の都合で流れたり流れなかったりするようになりました。

 実は、ダムの下流に住んでいた魚や森、小石にも「水利権」や「環境権」があったのです。そして、人間がダムを建設する時に、「下流の**町の公聴会」とともに、「魚・森・小石の公聴会」を開かなければならなかった。それが「自然との共存」でした。

 彼らは交通手段がなく、日本語がしゃべれなかったので、主張したかっただけですが、傲慢な人間は他の生物や自然の権利を認めていませんでした。

 しばらくして、ダムの下流の環境が破壊されたり砂利が不足してきたりして、人間にも都合が悪くなりました。そうすると、これはまずいということになり、ダムを改良し、時々、水を放流する設備をつけました。日本の代表的なダムである「黒部ダム」は一年に一度、ダムの横から大量の水を放流します。しかし、一年間もダムの底にたまっていた水は、落ち葉が腐って出す硫化水素を大量に含んでいました。そして下流の川と富山湾の一部が死滅したのです。

 もともと、自然は自然としての調和をなしています。そこに人間が入りこみ、人間の都合で自然のエネルギーやものを使うことは自然にとっては厳しいことです。決して、「自然のエネルギーだから自然に優しい」ということはないのです。

 つまり、水力発電は、「自然のエネルギーだから、自然を破壊する」、それでも人間にとってイヤな二酸化炭素や煤煙を出さないという点で「自然に厳しく、人間に優しい発電方法」であったという意識、それが「環境の時代」「こころの時代」に求められるものなのでしょう。

最後に、「森の生活」をすこし前向きに考えてみます。

 わたしたちは常に環境からの影響を受けています。感受性の高い人にとっては東京という雑然とした環境から受けるメッセージに耐えることはできません。自分の体の中にある感性とマッチしないのです。そこで、森を求めます。そして、豊かな自然が自分の精神を正常にしていくことを感じるのです。

 しかし、環境はみんなのものであり、それは日常的な生活のなかにこそあるべきものです。そこで、都会では道路の舗装、ビル、ガードレール、エスカレーター、クーラー、乱立する汚い広告はだれでもがイヤなはずですが、それでも競争時代から抜けださない限り、汚いものはなくなりません。

 効率的に動く都会が「汚くても良い、汚くなる」と決まっているわけではありませんが、現代の都会が汚いのは「競争の時代」に「自分だけが良ければよい」という「部分的な正しさ」だけを追うなかで都市空間を作り上げた結果が見えるのです。

 土が見え、木々がしげり、花が咲き、綺麗な河畔にベンチがあり、車は見えないところを走り、みんな背広を止めて気軽でしゃれた服装で往来する、そんな都会を作ること、それが本当の「森の生活」と言えます。

 だから「森の生活は大都会にある」のであり、それこそが「環境を改善できる、本当の森の生活」なのです。道路や生活の空間にすべて木々がなくなったので、屋上にわずかな庭園をつくり、そこに逃避しても、それはわたしたちの環境を守ることにはなりません。

普段の生活のなかに自然を求めることが最高の贅沢でしょう。