環境負荷の計算方法-1


 「環境負荷」の計算は実に難しい。その根本的な理由は「環境」そのものにまだ明確な概念、定義が出来ていないことによるが、それに加えてより具体的な計算項目でも、学術よりも社会的な要素が優先する場合が多いことも挙げられる。負荷計算の難しさについて、具体的に2,3の問題点を示す。


1 人間と動植物および自然との関係
 
1.1  設置面積と動植物の絶滅

 例えば、太陽電池を設置して電力を得る場合、太陽電池を野山に設置すると、設置する野山に生息していた野生動植物の多くが死に、希少種が棲息している場合は絶滅も考慮する必要がある。具体的にある九州の自治体で調査、計算した例(2002年12月)を示す。


 このように「環境」とは総合的なものなので、太陽電池を設置すれば電気が得られて、それ以外には何も起こらないということはない。つまり、太陽電池の設置という問題を20世紀型で「生産」だけに注目する場合と、「環境」を考える場合で計算が異なってくることにまず注意する必要がある。現在のところ、太陽電池の設置は環境と密接に関係することから、社会が動植物を失うことについての社会的負荷が確定している必要がある。


1.2  土地の利用負荷

 自然との調和をはかるために、太陽電池をこれまで人間が使用している空間(この空間をそのまま継続的に人間が専有して良いかは不明であるが)に設置すると、「太陽電池を設置しない場合にそこを何に使用するか」を考慮する必要がある。土地はある価値を持っており、その価値は人間にとって有意義なものを生み出すことが出来ると考えるのが一般的である。従って、太陽電池設置の土地代金として環境負荷に算入する計算方法を採用するか、何らかの事情で「遊休地」となっている場所に限定する方法が考えられる。太陽電池設置の土地代金を環境負荷に算入することについてはまだコンセンサスが得られていないが、だからといって土地の負荷を算入しないこともできない。たとえば、環境に適合したエネルギー計算をする場合、石油火力発電の場合は発電所設置、変電送電の土地の負荷は計算に入れているが、太陽電池は入れないということは不適切であるからである。また、一般的には「どうせ屋根の上は利用していないのだから」ということが言われるが、きわめて少ない量の電力だけを太陽電池で補うなら民家の屋根を使うことも考えられるが、自治体や日本全体がある程度の電力を太陽電池でまかなう場合には、屋根だけの面積では不十分になる。


1.3  毒性と自然

 毒性物質に関する人間と自然の関係も環境負荷計算には難問であり、これについては毒物の節で整理する。


2  電力に関する基本的問題

 次の電力に関する基本的問題を一つ例として挙げる。

 省エネルギーは確実に環境に寄与すると考えられている。ある行動を行うのに、これまで1キロワットを消費したのに、10%の省電力が達成されると900ワットですみ、100ワットの電力が節約できるのだから、これは環境に良いと思いがちである。

 しかし、次のような問題を考慮しなければならない。

 家庭で電灯をこまめに消したりして、10%の電力を節約するとする。その家庭が一年で10万円の電気代を使っているとすると、同じ生活で9万円になる。そこまでは良いのだが、節約で浮いた1万円をどう使うかが問題になる。もし、この1万円でドライブをするとガソリンを使うし、洋服を買うとその洋服を作ったり輸送したりするときに1万円に相当するエネルギーや物質を使う。貯金すれば銀行はそのお金を金庫にしまってはおかないで、企業に貸すので企業はそれで生産活動をする。税金も同じである。甥にそのお金をお小遣いとしてあげても、なにをしても、それは「その家庭で電気代として支払っていたものを他のものに使う」という「使用用途の変更」と、「使う人が変わる」という使用者変更になるに過ぎない。環境は、だれが何に使おうが負荷は負荷である。

 このことを日本全体で考えるとさらに簡単明瞭になる。

 日本の技術者が努力して10%の省エネルギーを達成したとする。同じ活動で10%の電力が節約できるので、国民全体で10%だけ購買力が高まる。この購買力を「捨てる」ことはしないので、道路を造ったり、ビルを建て直すことに使用される。また現在ではその国の生産性は国際的な補正を受けるので、10%の省エネルギーはその国の通貨の価値を高めて国際的に約10%だけ購買力が高まる。つまり、10%の省エネルギーは日本の購買力を約20%高める結果となる。

 このことはすでに産業革命以来の技術的進歩の過程で事実として認められている。多くの技術的進歩は省エネルギーをおなじ様に、「これまで・・・であったが、技術的進歩によって・・・の様に効率的になった」ということであり、それはより多くの物質やエネルギーの消費につながった。現在の環境問題の基本的な流れはそのようになっているが、省エネルギーという部分的なところだけに注目すると、判断を誤ることもある。


3  毒物に関する環境評価

3.1  毒性評価の問題

 環境中の毒物の存在は環境に大きな負荷をあたえる。廃棄物問題なども重要であるが、何と言っても毒物は環境にとって無視できない。日本は四大公害事件を中心として、毒物に関して多くの教訓を得た。水銀、カドミウム、二酸化硫黄などがその主要なものである。これらについてはすでに多くの研究が為され、法律的な許容値が決まっている。それでも環境計算でいつも問題になるのは法律的な許容値を使用するか、それとも計算時点でもっとも進んだ学術的判断を用いるかであり、それによって許容濃度は大きく異なり、環境計算もまた異なってくる。

 それでも過去に犠牲を伴って法的規制があるものについてはまだ良いが、多くの毒物はまだ規制などがされていない。特に最近問題となっている内分泌攪乱物質などはその効果自体が不明である。

 このように一般的に毒物に関する環境計算は難しいが、さらに超弩級の問題もある。

 まず第一に、二酸化炭素の問題である。「二酸化炭素は地球温暖化の原因か」ということが明らかになっていないので、二酸化炭素の排出をどの程度の環境負荷に加えるかは大きな問題になる。

 また第二に、ダイオキシンの毒性が低いということが計算の障害になる。環境計算は「マスコミがダイオキシンは毒物であると言っている」というだけでは計算が出来ない。現実的に発生するダイオキシンをどの程度除去するかの計算ではダイオキシンの毒性が判明していることが大切である。その点で、僅かに定量的なデータを出している、東大の和田先生(現在はご退官)や滝沢行雄先生のデータを使用して計算するが、これらのデータは「ダイオキシンは毒性がきわめて弱い」ことを示しているので、環境負荷計算では小さな寄与となる。


3.2  自然と毒物

 レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を執筆して環境問題に警鐘を鳴らしたのは非常に重要なことであったが、それに対する社会の反応は必ずしも冷静ではなかった。急激な塩素系化合物の追放はアメリカなどの先進国の環境改善には多少の役に立ったが、まだ衛生状態が悪かった開発途上国は塩素系殺菌剤の供給がとまってマラリアやシラミなど多くの害虫の駆除が遅れた。アメリカでもかつて塩素系殺虫剤などのDDT、BHCが「人類最大の発明」とされて、衛生状態の向上に貢献した。これらの殺菌剤、殺虫剤は強力であったが故に、副作用もあり、その一つをカーソンが指摘したのである。しかし社会の発展段階を考慮せずに感情的な排斥運動が起こり、それによって多くの、おそらくは数100万人と言われる開発途上国の人達が無念の死を遂げた。

 我々、先進国の人間は大変、身勝手で、「地球環境」と言いながら先進国の人や、時には自国の人だけを見ていることが多い。その片方で、開発途上国に人達の発展を阻害していることも事実である。ダイオキシンをはじめとした塩素系化合物の追放にはこのように先進国のエゴが大きな影響を与えたこと、我々が「それは毒性が強い」というとき、何を対象として言っているかを明確にしなければならない。

 殺虫剤は人間にはある程度の毒性しか持たないが、蚊やアブなどを死に至らせる。そして下水道などが進んでくると、もともと害虫の数が減少してくるので、より効果の少ない安全な殺虫剤などを使用できるようになる。

 このように、環境計算の困難なものの一つに「地球環境を基準に計算する」という計算基準を置くことが出来ないことが挙げられる。


4  環境負荷を正確に計算できると宣言することの問題

 以上、環境計算の難しさを整理してきたが、もっとも問題なのは、このような困難を知っている環境計算の専門家がそれらに対して口を閉ざしていることかも知れない。社会的な要請があって環境計算をしなければならない・・・しかし、正しい計算をする力はまだない・・・このことを認める必要がある。LCAなどの手法は手法として間違っているわけではないが、そこに入れる数値が間違っていること、もしくは未検討で不確かな数字であることを知っているのに、結論としての数字だけを出してはいけない。

 これはちょうど、2次方程式の根の計算になぞらえると良く理解できる。

 2次方程式の根の計算には分子の第二項に平方根がある。ある人が計算をしようとすると近くに電子計算機も数表もなく、平方根が計算できなかったとする。そこで「平方根が計算できなかった」ということを示しておいて根を求めたとする。しかし、この計算はもちろん間違っている。平方根が計算できないと宣言しても根の値が間違っていることは確かで、仮定を示したからその値が意味を持つことはない。LCAの計算や環境計算で問題なのはこの点である。「設備にかかる負荷はよくわからない」「輸送の場合は燃料消費だけを計算した」というのがそれに当たる。計算できないものは「僅かである」と書いてある場合もあるが、計算しないでそれが僅かであるとすることは不合理なのである。

 「環境を守る」というのは倫理や道徳に比較的近い行動であるが、それ故に、「環境が対象なのだから、間違っていても良い」「多少のウソは許される」ということが学問の世界にも及んでいることに危惧する。