環境の生物種間差別



 よく「自然との共存」と言われることが多いが、ここでは自然との共存のうち、人間と人間以外の生物との共存関係について少し考えてみたいと思う。特に、環境問題が浮上した1990年以来、「環境に良い」という用語は一般的な自然や他の動植物は含まずに、「人間だけの環境に良い」という定義で使用されていることが多いので、このページを読まれる人の中にもあるいは、これまで「人間だけの環境」に注目してきた方もおられるだろう。

 地球は46億年ほど前に誕生したとされており、生物はつづいて地球上に37億年前に出現したとされる。生命がなぜこの地上に誕生したのか、それは興味ある課題であるが、ここではそれには深く触れることなく、先に進むこととする。

 地球が誕生したときの大気には酸素は無かったし、従って酸素から作られるオゾンも成層圏には無かった。太陽から降り注ぐ光は強い紫外線を含み、初期の生物のDNAを痛めたので、生物は海の中で細々と生きていたが、15億年ほど前から徐々にオゾン層が厚くなり、紫外線が地上の到達しにくくなってきた。

 環境が整って、6億年前に生物が爆発的に地上に出現し、それから幾多の進化を遂げて現在に至ったのである。

 この長い歴史でも人間のような優れた知能を有する生物は出現せず、自然の中で競争と淘汰を繰り返しながら生きてきた。そして人間が誕生しても600万年の間は他の生物と同じように「地上の一員」として生きてきたのである。

 今から10,000万年前、ヤンガードリアスと呼ばれる気候変動で地表の平均気温が10℃ほど高くなると人間の文明が爆発的に発展し、チグリス・ユーフラテス沿い、エジプトなどの四大文明が興り、産業革命を経て現在に至っている。

 現代の生物界の中の人間は特殊な存在である。それ自体が強大な力を持っており、他の動植物をすべて絶滅させることもあるいは可能なほどである。人間の活動による生物の絶滅はたびたび話題に上るので、それだけが強調されがちであるが、人間を特徴づけるもう一つの際だったものは、「自らの種以外の種の保護を考慮することができる種」と言えるだろう。

 つまり、人間以外の種は自らの生存にその活動を集中し、たとえ共存関係にあっても、それは生存に必要だから共存するのであって、「環境を守るためにこの種を保存しなければならない」などと考えて行動する訳でもないし、そういう遺伝子も発見されていない。

 動物社会学という学問があるが、そこで整理されているのは、さまざまな動物社会が、もっぱらその動物(種)にとってなにが最善の行動かを模索している様子が描写されている。いや、もう少し踏み込んで表現すると、その種にとってなにが最善かを追求している姿なのである。

 ところが、現代の人間が抱えている自然との関係における環境問題はそれとは全く別種のものである。

 まず、動植物を無視するという視点からみる。

 人間は動物園を自分たちの楽しみのために作る。他の動植物は動物園を作らない。動物園のライオンに「あなたは動物園と故郷のサバンナの草原とどっちが良いか?」と聞けば、たぶん、サバンナが良いと言うだろう。少なくともライオンの意志に反して連れてこられたことは確かだ。楽しみのための他の動植物の命を自由にするのは人間だけである。

 舗装は「泥をはねない」という点で優れた土木技術であり、人間にとっては具合が良い。しかし、舗装をするとその下にいる何億という虫は死滅する。虫けらの命は命ではないと考えることもできるが、地中の微生物に頼らずに生きる生物もまた、人間が始めてである。

 飼い主が捨てて殺されるイヌは一年で日本だけで40万匹である。捨てられる理由は、年老いた、狩猟期が終わったなどさまざまであるが、イヌを生命をもつものとして考えない側面ももっている。ガス室などで殺されるイヌとネコは日本だけで一年に70万匹に及ぶ。

 イヌの「首輪」というものは人間社会が発達してイヌとの長年の関係を保つことが出来なくなった琴を示している。昔、牛や馬は囲いの中で飼うのが普通であったが、イヌはむしろ人間とともに行動し、人間の意志を理解し、牛や馬をコントロールする存在であった。だから、首輪は必要が無かったのである。

 動物は人間が動物であることや動くものであることから、動物の虐待や動物が奴隷のように飼われていることに対して私たちはある程度の感受性を持っている。しかし、植物は静かであるが故に「命をもつもの」として取り扱われていない。

 たとえば、街路樹やビルの壁に沿わせた植物などを「環境によい」「自然との共存」として見なされることがあるが、果たして植物から見るとどうだろうか?街路樹の根元はコンクリートで覆われ、種を落としてもそれが子孫を作り出すことができない。ある意味では生存権の一部を制限された状態でもあり、表現を変えれば人間の奴隷としての植物である。

 「共存」という表現を正確に使うとすると、人間は人間の利益を、動植物は「人間の為の動植物の利益」ではなく、動植物自体の利益をともに分かち合うことである。その点から言うと、現代の「共存」はまことに人間本意であり、人間と動植物の間に命に関する大きな差別を置いた上での「共存」であり、「環境」であることがわかる。

 その例を二つあげよう。最近、「霜降り牛肉」が安くなった。これは牛をビタミン不足やアルコール中毒にして筋肉の中に脂肪が分散するようにしたものだ。著者の「エコロジー幻想」の中に豚の「スツール飼育」を書いたが、これは、運動すると栄養が肉にならないので全く運動しない状態で飼育する方法である。

 しかし、最終的にはたとえ食肉の目的で飼育している動物でもその「命」自体は尊重されなければならないだろう。

 環境運動家は種間差別を拡大している。