環境の南北間差別

(環境の利己主義)


1  ハロゲン化合物の南北差別

 1963年、レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を著しハロゲン化合物の追放が始まった。レイチェル・カーソン自体の業績自体は人間の活動が自然に影響を及ぼすことを最初に指摘したことの功績がきわめて高いが、彼女の功績を半分損なうような行動をしたのはその後に続いた「環境運動」だった。

 レイチェル・カーソンが沈黙の春を出版したとき、すでにアメリカや日本はすでに近代的生活に入っており、昆虫などが媒介する病気は終焉していた。戦後の日本を知っている人はノミやシラミを退治するために頭から塩素系殺虫剤をかぶり真っ白になったことを覚えているだろう。それによって、害虫が媒介する多くの病気が減り、(塩素系化合物によって)衛生的な環境を獲得した45才前後の日本人の平均寿命は忽ち50才を超えるようになった。

 日本が高度成長を遂げていた1960年代、開発途上国はまだ工業化前の状態にあり、マラリアなどの蔓延に必死に戦っていた。幸い、「素晴らし塩素系殺虫剤」が発明され、環境は急激に改善されていた。1億人を超えるとされていたマラリアは、1963年には500万人に減少していた。しかし、そこに「反塩素運動」が起こり、殺虫剤が使用できなくなった。マラリア患者は急増し、1990年に4000万人になる。現代のマラリア患者は岡山大学の調査では1-2億人と推定され、死者は一年に200万人を超えるとされる。

 ダイオキシンは塩素系殺虫剤に類似した化合物だが、ダイオキシンによる犠牲者はこの30年で世界で数名といわれている。マラリアの犠牲者と比較ができない。しかし、先進国の人がすこし健康障害を受けることを防ぐために、開発途上国の人が100万人オーダーで死んでも、あまり社会は注目しない。開発途上国の人は先進国の人の命と違う、とみんな思っているのだろうか?

 特に、日本ではその傾向が著しい。塩ビをはじめとした塩素系化合物を追放することは環境に良いことと思っている人が多いが、開発途上国ではそれがどのような影響を与えるのかについて慎重に考えてみなければならない。

 もっとも、マラリアの増加と塩素系殺虫剤の追放運動が本当に強い因果関係があるかは慎重に研究をしてみなければならない。マラリアの蔓延に関する要因は複数あるからである。しかし、ここで指摘したいのは、塩素系殺虫剤を追放しなければならないと考えたとき、視野に入っていたのが「先進国だけの環境」だったか、それとも「先進国の4倍の人口がいる開発途上国の環境」を考えたのかは疑わしい。

 むしろ、この問題はもう少し断定的に表現した方が良いだろう。日本の環境論議は常にアメリカとヨーロッパを向いている。日本もその一員とすることもできるが、また日本はアジアの一員であり、近代史としてみればヨーロッパ、アメリカに植民地などとして抑圧された国のグループに入る。だから、環境についても日本はよりアジアを視野に入れた論議が求められる。


2  地球温暖化の南北差別

 環境は差別を促進する傾向がある。それは地球温暖化でもそうだ。

 地球温暖化を防ぐとされる「二酸化炭素の削減」は発展途上国の発展を阻害する。京都議定書の基本的な思想は、地球温暖化を防ぐことにあるが、同時に、「諸国民の活動を現状で固定すること」でもあり、ある意味では核不拡散条約と似ていて、現状追認型である。

 実際には、京都議定書では開発途上国の二酸化炭素排出量を規制しなかったが、その基本的な思想は現状固定だった。このようなことを総合的に考えると、京都議定書が日本で締結されたことが原因して、京都議定書に反対したり、批准を逡巡する国に対して倫理的な非難が浴びせられたが、果たして非難を浴びせるほどに慎重に考えたかどうか疑わしい。

 これももう少し、明白に表現した方がよいだろう。京都議定書の内容があたかも地球環境を守る「鞍馬天狗」のような正義の味方として登場し、それに非協力的な人やグループをつるし上げるということが一時行われた。このような行動は「環境」という概念と真正面から反するものであり、力で序列を決めるこれまでの方式と変わらない。


3  リサイクルの南北差別

 南北間差別は衣類のリサイクルでも見られる。

 日本は「衣料のリサイクル」を積極的に進めているが、日本人の大半はリサイクルされた古着を着ていない。ではあの大量のリサイクル品はどこに行っているのかというと、東南アジアを中心とした南の国に行っている。インドネシアなどの南の国はまだ貧しいので、中古品でも程度の良いものは使うので、従来から日本人の古着を一着25円程度で購入していた。しかし、日本で古着のリサイクルが盛んになると、需給バランスが崩れ、現在では一着、1円から2円程度で販売されている。

 見方によっては古着の有効利用、もしくは慈善事業と考えることもできる。しかし、従来のそのような考え方こそ、環境では否定しようとしている基本的な概念である。もともと日本は「廃棄物は他国には出さない」と宣言している。だから「廃棄物として集めた古着は外国には出せない」ことになる。だから古着は廃棄物としては出さない、古着で出すという自治体もあるが、古着と廃棄物は決定的に違う。まだ、自分でも使えるものを出すのが古着で、廃棄物は廃棄するのだからまだ使える。

 この違いは商売として取り扱うと微妙な差だが、環境では決定的な差である。

 ところで、日本の北の国・・・福井県以北・・・の古着はそのまま焼却炉で焼かれている。ヨーロッパには寒い国が多いが、日本人の古着を買う人はいない。日本人が古着のリサイクルをするのは、南方の人が貧乏であることが前提となっている。これも精神的ではあるが、南北差別と著者には感じられる。


4  鉱毒の南北差別

 日本の資源もまたその多くを南方の国に依存している。たとえば、銅(Cu)などの非鉄金属もそうである。かつて、日本が自国の銅鉱山・・・足尾銅山や別子銅山から銅を得ていた頃、鉱毒に多くの人が泣いた。足尾銅山が洪水に見舞われたとき渡良瀬川の下流が鉱毒で犯され、悲しい出来事が起こったことは小学校や中学校でみんなが学ぶ。

 でも、今は鉱山技術や環境技術が進んでいるから鉱山の回りの環境は綺麗かというとそうではない。日本に資源を運ぶ多くの国の鉱山の回りは酷い環境である。例えば、銅は南米のチリからも日本に資源が来るが、チリの銅山のあたりは一面のはげ山である。

 また、日本に石油を輸出する中東の油田では、油田からでるイオウを大気中に放出しているところもある。日本が原油の購入価格を低く抑えれば、産出側はやむを得ず環境を汚して出荷する。

 日本人はかつて「エコノミック・アニマル」と呼ばれた。最近では経済成長が衰えたので、それほど激しく非難されなくなったが、それでも日本人は相手の国の環境を考えて少し高くても資源を購入するということはしない。外国の環境にはお金をださない傾向にある。

 日本で議論される環境が、「日本の環境を守るために他国を汚しても良い」と考えている人は少ないだろう。でも、現実にはここに書いたようなさまざまな「身勝手」が起こる理由には、正確な情報の不足が挙げられる。いったん、環境を守るということになると、全体の視野を失ってものに憑かれたように突っ走ることが多くなった。社会が複雑になるにともなってさらにこの傾向は深まると予想される。


5  感想

 「衣食足りて礼節を知る」という。日本は所得がほぼ世界一に近く、平均寿命も世界一だ。だからある程度満足している状態にあり、衣食の足りた状態と言える。そして日本はアジアの中の一カ国であるから、やはりアメリカやヨーロッパの方に荷担するのではなく、アジアの一国としての立場を堅持した方が良いと考えられる。

 日本は自分のことなので、気がつきにくいが、たとえばヨーロッパを代表する様な国がヨーロッパの利害に反し、アジアの味方をすることは少ない。そしてそのような国があるとむしろ理解しにくいのが普通である。しかし、日本はアジアの一国ながらヨーロッパとアメリカの一員のような行動をする。そして、

 「環境の正義」は「環境の利己」を正当化させるための強力な手段になっていると感じられる。