リサイクルと物質循環(その1)

はじめに

 現代の日本の環境問題を理解するためには、「物の流れ」「汚染と毒物」「資源とエネルギー」「自然と生物」の4つのテーマがポイントになる。そして付随的なものとして、南北問題、弱者と環境の関係などがある。ここでは「複雑で多様な環境と自然の問題を基礎的に且つ正面から解説し考える」という方法をとる。すでに行われている政府の施策や当面の措置というものが存在するが、ここでは社会的な影響を強く受けるそれらの動きをやや批判的に捉えることによって、基礎的な現象を正面から捉える手法を採用した。本稿で批判的な表現になっている部分は、それが直ちに社会活動として正しいということではなく、あくまでも学問的に冷静に解析を進め、自らの考えをしっかり作り、社会の変動にも驚かないためである。「環境」というのはそれほど複雑で難しいものだからである。
 また「環境」というものは用語としては「自分の周りの境」という意味なので、環境の境を場所的には、「日本」で捉えるか「世界」とするか「人間」に限定するか「自然、生物を含める」か、また時間的には、ここ「数年程度」のことか「世代にまたがる期間」なのか、あるいは原子力廃棄物の処理などで問題になるような1万年を超える時間を問題にしているのかによって、その解釈が180度変わる。なにを想定して「環境」と言っているかをよく認識して取りかかることも必要である。
ダイオキシン騒動が一段落して、プラスチックを焼却することに対する抵抗が減り、これまでの環境対策の一部は修正をしなければならなくなってきている。リサイクルが本当に効率的な方法なのか、リサイクルによる毒物の発生、最終処分場の逼迫、そして人工的都市でのフラストレーションなどをどのように考えるのかについてじっくり考える良い時期でもある。「現業」や「日々の生活」の中にいると理屈はともかくやらなければならないことはやるというダイナミックな動きも大切であるが、同時に常に冷静で本質的な議論も必要とされる。本稿ではリサイクルを一つの切り口として環境問題を考えてみたいと思う。

 

リサイクルと物質循環

日本の物流とリサイクルの現状

 日本人が一年に消費する物質の量は、空気と水、土などを除いて、22億トン程度であり、その半分を国土のインフラストラクチャー(山野、海岸、港湾、道路、橋梁など)に使用し、半分が工業に投入される。日本の国土は温帯地方にあり、かなり大きな島国である。人間が住む場所としては温帯、島国というのはきわめて優れた環境であり、その国土に毎年10億トン近くの資源を投入してさらに住みやすくするための行動をとっているのだから、世界でも希な住環境と効率的な基盤が形成されている。日本の都市の構造など今後さらに大規模に改善していく必要性については後に述べるが、環境はその国土のできかたでおおよその基準が決まることも確かである。その点で、日本人が使う資源の約半分が国土形成に使われていることは正しいと考えられる。
日本の工業には約10億トンが投入される。よく知られているように日本は世界一の工業国であり、その生産性、工業製品の品質は世界に冠たるものがある。図 1は製造業のエネルギー原単位の国際比較を示したものである。エネルギー原単位とは1kgの製品を作るのにどの程度のエネルギーを使うかという指標であり、原単位の値が小さければ小さいほど少ないエネルギーで生産ができることを示している。図から判るように日本を基準にするとドイツやイギリスは似たようなものであるが、アメリカが約2倍、中国が4倍、そしてメキシコは7倍を超える。


図 1 製造業のエネルギー原単位に関する国際比較

一方、製造の投入される物質のうち、どの程度が製品となるかという指標を「製造原単位」といい、製品キログラム当たり原材料を何キログラム使ったかで計算される。工業製品を作る時には機械、工具、副原料、消耗材料など他種類の物質を使い、それらの物質は少しずつ古くなり、傷み、そして定期的に廃棄されるからである。日本の工業は世界一の生産効率を誇っており、国際比較では、製造原単位はもっとも小さい値を示している。エネルギー原単位の値が小さいとエネルギーの使用量が少ないばかりではなく、一般的には物質の使用量も少ない。日本では、10トンの総資源を使って、製造過程で約半分の5億トンが廃棄物になり製品になるのはおおよそ5億トンである。
日本の製造関係で毎年5億トンの廃棄物ができることになるが、これは現在のところ仕方がない。国際的にはもっとも廃棄物が少ないのだから、今後も改善を続けるとしても現在の段階ではやむを得ないと考えるべきであり、この5億トンは製造メーカーだけの責任ではなく、国民全員がこの5億トンの処理の場所を確保する必要がある。最近では拡大生産者責任などという言葉があり、なんでも会社に押しつける傾向があるが、最終製品の利益を得るのはもちろん国民だから、国民も「見て見ぬふりをする」のではなく、この5億トンの産業廃棄物についても自らの問題として考える必要があろう。
ところで、産業界から様々な形の「製品」として国民に提供される5億トンは消費によって2億トン余に減少する。5億トンが2億トンに減る理由は様々であるが、まず、日々、家庭に持ち込まれる日用品のほとんどは消費し尽くされる。食料品は糞尿と生ゴミになり、シャンプーや洗剤、トイレットペーパーは下水に流れ、燃料は二酸化炭素になって空中へ飛散する。家電製品、自動車などの耐久消費財はリサイクルルートができているが、後に述べるように現実には資源の再利用は行われていない。この主たる理由は、材料に寿命があるということであるが、それについては後に詳述する。
このような、日本の物質収支は政府の各機関からも公表されているが法律的な制限や政策的なこともあり、かなりややこしい図になっているので、思い切って整理したのが図 2である。暗記するには、資源20億トン、工業10億トン、製品5億トンというように各段階で半分、半分になるとすると覚えやすい。

 

図 2 日本における物質循環(1997)

一般的に誤解されていて、リサイクルを理解するにはもっとも大切なことを図 2から学ぶことができる。
リサイクルしようとする対象は「物質」であるが、物質には「質量保存則」が適応されるので、日本国土に持ち込まれ消費された20億トンはすべて「ゴミ」になる。仮にその内の一部をリサイクルしても、毎年20億トンを新たに使えば、20億トンのゴミが出るのは物理的現象としてやむを得ない。つまりリサイクルという行為は日本国土の内部で物質を「循環」することであって、日本国土に持ち込む物質量とは違う。
この関係を次のように考えたらどうだろうか?
六畳間に下宿しているとする。その学生は大変、環境に興味があり、買ってきたものはできるだけリサイクルして使うようにしている。それでもやはり生きていくためには買い物をしなければならない。そして1ヶ月にその六畳間に一度持ち込んだものが10kgなら、必ずその六畳間からゴミとして出る量は10kgである。「リサイクルする量」と「廃棄物量」は関係なく、「購入した量」と「廃棄する量」が一致するのである。だから「リサイクルして購入する量が減った」ということになると廃棄する量も減るが、「リサイクルしても買う量は変わらなかった」という場合にはゴミになる量もかわらない。
つまり日本全体でも、リサイクル量と日本国内に現実にどの程度の物質が「出入り」しているかは別のものであることをまず理解しておく必要がある。リサイクルや、いわゆる「循環型社会」という目標は国内で循環することによって毎年消費する20億トンを限りなくゼロに近くしようとする試みである。そしてリサイクルが本格的に始まって5年になるが、日本社会が「購入している物質の量」は毎年僅かながら増え続けている。つまりリサイクルの本来の目的の一つである「資源の買う量を減らし、その結果としてゴミを減らす」ということはまだ達成されていない。
その理由としては、
1. 経済成長が続いていること、
2. リサイクルをするのに資源を使うこと、
3. 一般廃棄物をリサイクルの方に回すと産業廃棄物になり廃棄物総量の増減に関する集計ができないこと(検証手段が無いこと)、
にある。会社に勤務している人はよく分かるが、多くの会社は「売り上げ」が上がらないと収益が上がらない。だから少しでもものを多く売ったり、またサービス量を増やす。サービス量もやはり物質に比例するので、経済を成長させると物質の使用量が増える。これが逆になる活動はまだ知られていない。
 またリサイクルするのに資源を使うこと、そして正しいリサイクル率そのものがあまり公表されていないので、どのリサイクルがどの程度、資源を減らしたり、廃棄物を減量させたかが判らないことも原因の一つになっていると考えられる。このことを考える前に、廃棄物そのものについて少し整理をしてみる。


図 3 一般廃棄物(左)と産業廃棄物(右)の内容

 常識的な用語として「ゴミ」というと「使ったものがゴミになる」と考える。常識的、学問的にはその通りであるが法律的には必ずしもそうではない。例えば、一般廃棄物は家庭や事務所から出る「普通のゴミ」であるが、図 3に示すように紙、プラスチックが主である。でも家庭で使っているものは紙やプラスチックばかりではない。それでもこのような結果になるのは「容器」というのは購入してきて中身を取り出し、容器は捨てるので容器が直ちにゴミになるのである。容器以外のゴミはあるいは空中に散逸し、下水に流れることになる。
 産業廃棄物はさらにその傾向が強い。産業では石灰石、鉄鉱石、非鉄鉱石、石油、石炭などを使うが、廃棄物として多いのは、汚泥、動物の糞尿、がれきなどが主で、資源と廃棄物の間に関係が少ない。このことは、「廃棄物は資源となる」「分別すれば資源」という話とは違う。廃棄物が資源と異なる内容を持っているので、分別しても資源にはならないのである。
 また量的関係にも注意しなければならない。一般廃棄物は年間5000万トン程度、産業廃棄物は5億トン程度であり、その比は10倍に達する。そして「廃棄物処理場の逼迫」と言われる時の廃棄物処理場とは自治体が管理している一般廃棄物処理場のことであり、その10倍になる産業廃棄物ではない。またさらに資源として使用したものがどこに行っているのか統計上は記録されていないのである。また「リサイクルで一般廃棄物量を減らし、廃棄物処理場が逼迫したことを防ごう」という施策は学問的というより政治的、社会的に成立する方法である。すなわち、一般廃棄物として家庭から出るゴミを、まず分別させる。分別すると「資源」になるので、産業資源となり、それをそのまま廃棄しても今度は産業廃棄物になるので、「リサイクルするということで分別して収集すればゴミは減る」ということになる。


図 4一般廃棄物貯蔵所の継続的逼迫(平成15年版循環型社会白書)

 現実的にも図 4に示すように一般廃棄物貯蔵所の寿命は少し延びている。もちろん新規の廃棄物処理場を作れば寿命が延びるが、それ以外にもリサイクル運動を進めて分別すれば、現実の廃棄物が減量したかどうかは別にして統計上の一般廃棄物の量は減る。本来、廃棄物は自分たちが出したものだから、廃棄物処理場を「迷惑施設」と表現するのは不謹慎であるが、自治体などにとっては住民の反対にあうので現実的には迷惑施設という感じになる。一方では迷惑施設と言っている住民自身が毎日、ゴミを出すのでそれを自治体は処理をしなければならない。自治体職員に採ってみれば踏んだり蹴ったりで住民の態度はヤクザのようなものである。
 そこで現実的でなくても住民が納得するような方法を選択しなければならない。それがリサイクルであった。もともと大量にものを使えば廃棄物が大量に発生するのは質量保存則から必然的結果であることはすでに示したし、通常の手段ではこの原理を覆すことができない。しかし環境や廃棄物について急速な社会的問題と、市民の権利意識の高まり(義務感は薄い)により、リサイクルによって廃棄物量を減量したいという要求が社会に蔓延してきた。
リサイクルをして廃棄物や資源の消費量が減るかどうか、一概には言えない。個別のリサイクルを実施するのに、どの程度の資源を使うかにかかっている。例えば、1kgの廃棄物をリサイクルして再利用するのに2kgの物質を使うと、結果的にリサイクルすることによってゴミが1kg増えるという変なことになる。ペットボトルのリサイクルはその典型的なもので、ペットボトルが「軽い」ので集荷するのにエネルギーや物質を使い、おまけにプラスチックなので劣化しやすくそのまま繰り返し使えない。その結果、ペットボトル1本をリサイクルすると回収したり再生したりするのにかなりの石油を使う。その石油の量は、石油からペットボトルを3本作るのと同じになる。
でもペットボトルをリサイクルするのだから、ペットボトルという形のゴミは発生しない。その代わりに「排気ガス、タイヤ、トラック、回収袋、洗浄のための水道や下水、道路の建設廃材・・・」などの形をしたゴミが増える。


図 5 循環によってゴミが増えるリサイクルも多い。

ちり紙交換、くず鉄商法、貴金属回収などが昔から知られているように昔から商売として成り立っていたリサイクルは現在でも意味があるが、リサイクル法が成立してから新たにスタートしたリサイクルで成功を収めているものはない。残念ではあるが、これは原理的なものなので仕方がない。
リサイクルがうまく機能しない原因はリサイクルの技術やシステムが未成熟であるからで将来ともリサイクルが成立しないということではない。少なくとも現在のところは物質量を減らすには「使う物の量を減らす」ということ以外には有効な方法は見つかっていない。その大きな原因は、
1) 資源は「品位」によってその価値が決まる。
2) 材料は使用することによって劣化する。
という二つの原理によって支配されているからである。図 6は天然資源の品位とその資源から獲得される材料の価格(アメリカの価格をドルから円に換算)であるが、資源品位が低い方が材料の価格が高いことがわかる。また図中の緑の線は著者がSWU理論(separative work unitという概念の分離理論)を使った理論計算線であるが、よく現実の価格を説明することができる。


図 6 資源の品位(横軸)と材料の価格(縦軸)

 また図 7に示すように人間が使用する資源はこれまで「資源を獲得するのにそれ以上の資源を使う資源は、資源として見なさない」という原則で行ってきた。将来、資源の枯渇が予想されているが、まだ地上に資源が存在する。資源が存在する間は天然資源も廃棄物からの資源も、環境という点では区別はつかない。
以上のことを簡単に言うと、現時点ではまだ「これまで資源と見なされない状態のものを資源化する理論も実績もない」というのが現実である。


図 7 資源の品位と資源の定義

さらにこのような基本的な原則の他に、現代の日本においては、
1) 製品が細かく分かれており、膨大な種類の材料が使用されている。
2) 廃棄される理由は必ずしも製品の寿命ではない。
3) リサイクルに適した商品を販売する人、扱う人、回収する人などの「低所得者」の絶対数が減少している(良いことであるが、物質循環は難しくなっている。)
という現実にも注意する必要があろう。もちろん将来、製品の数をできるだけ統一したり、そこに使用する材料の種類を少なくしたりする努力がなされると思われるが、現在の商品体系はそうなっていないので、リサイクルが不能率になる原因になっている。
 リサイクルが法律のもとで行われるようになってから5年を経過するが、法律成立以前にも行われていた材料を別にすると、未だにリサイクルされた材料が使われる例がほとんどない。自治体によっては市民が分別したものを再び混ぜてセメント工場や製鉄に回したり、あるいは焼却したりしている。その結果、住民の不信を買ったり、時には訴訟になる場合もある。法律を遵守するのが公務員であるからそれもやむを得ないが、問題は廃棄物を利用しない市民の方にある。ある時に学生から「どうしてリサイクル材料を利用しないのか?」という純粋な質問が出たので、著者は「同じものが片方は100円、片方は150円で買えるとすると君はどっちを買うか?」と聞いた。補助金もなにも無ければ天然の石油から作られたペットボトルの原料は、リサイクルで得られた原料の3分の1の値段になる。ペットボトルを作る人の立場に立てば、やはり安い方を選ぶだろう。
 リサイクルが当初の計画通りには進まないことから3R(リサイクル、リユース、リデュース・・・循環、再使用、減量)に重点を置くことが言われてきたが、リサイクル品を使う人が少ないように、問題はリユースが良いかどうかより、リユース製品を自分が使うかどうかにかかっている。
図 8に現代の日本の製品寿命を使い捨ての場合と、循環の場合に分けて定性的に示したが、現代の日本の製品で材料工学的に劣化によって廃棄されるものは少ない。多くは規則などの社会科学的要因や飽きや流行などの人文科学的要因によって廃棄される。従って循環型社会の構築に当たっては「使い終わったから捨てる」という類型的な考えではなく、製品寿命とはいったいどういうものか、現代社会において寿命はなにによって決まっているかなどの基礎的研究が必要とされる。


図 8 現代日本の製品寿命

 以上のように、リサイクルを国策として位置づけるかどうかを議論する過程においてはここで述べたような理論的な検討が必要だったが、法制化を急いだこと、物質循環に関する学問が進んでいなかったことから、不十分な状態で法律が成立した。また、リサイクルが社会的に法律をベースに行われるようになってすでに5年を経ているので、現実的に人工的資源、つまり廃棄物資源を用いた製品が増加したかという事実を検証しうる段階にある。鉄、紙、銅などリサイクル法が施行される前からほぼ現在と同量のリサイクルが行われていたものを別にすると、その他の材料は残念ながら循環資源は使用されていない状態にある。特に、ペットボトルやアルミ缶などリサイクル法の象徴的な存在として行われたものも材料のリサイクルはほとんどなされていないことや、自動車のように個別のリサイクル法のもとに行われるものも自動車を構成する材料のごく僅かに循環資源が使用されているに過ぎない。
一方、公的に発表されるリサイクル率の数値は比較的高く50-80%のものが多いにも関わらず、現実に製品を構成する材料の90%が天然資源というねじれ現象が見られる。また分別したゴミを焼却して熱や電気を得ることをサーマル・リサイクルと呼んでいることもリサイクル率を高める原因になっているが、国際的に見て日本だけの呼称であり、このような呼称は真にリサイクルに価値を認めている人にとっては誠に困る方法である。新しい方法はその結果に対する正しい評価方法があって初めて効果を示すものである。人間の試みはそれほど成功はしないので、結果を見ながら修正が必要だからである。
しかしさらに冷静に考えると、ここに現代の環境の基本的な問題と悩みがある。生活全体を文化的な生活に変えていくことによって物質量を減少させうるとする考え方もあるが、必ずしも成功していない。生産工場が中心となっている日本の場合、景気を維持しようとすると生産量を低下させることは難しく、作ったものはやがて廃棄物になるという基本的な関係が理論的にも現実的にも解決していない。本稿の終わりに情報と物質の相関関係を示したが、現在のところ確定的な物質削減効果は情報のみであると言っても良いだろう。


                                               

第一回 終わり

名古屋大学 武田邦彦