木は誰の為に生きているか?

 「環境に優しい」ということで「バイオマス」・・・つまり、樹木などのような天然の植物資源をエネルギーや材料として活用しようという動きが活発である。なにごとも「環境」と言わなければ正義にはならないご時世に、普通の人は「バイオマス」という語感から環境を守るのに大切なことと思うだろう。

 「バイオマス」という用語が、用語として新しくても、その内容は昔から人間が行ってきたことであり、それは「森林を伐採する」ということである。バイオマスの優等生は「紙」で、森林の木を切り倒してパルプを採り、それをすいて紙にする。これほど長い歴史があり、天然資源を有効に使用している例は少ない。

 でも最近、リサイクルが盛んになると、「バイオマス」より「リサイクル」が大切ということで、紙をリサイクルすることになった。紙のリサイクルはせっかく太陽の光を利用できる「紙」というバイオマスを、石油を使ってリサイクルすることだから、環境運動家は紙のリサイクルに反対すると思ったら、推進している。

 紙のリサイクルを推進しているのだから、森林を伐採するのにも反対と思っていたら、「バイオマス」という名前なら良いという。つまり紙は典型的なバイオマスだが、バイオマスという用語がついていないから森林を伐採することは環境に悪いが、同じように森林を伐採しても「バイオマス」という名前のもとなら良いと言っている。

 環境運動の多くは形式的で、「建前が良ければ環境を破壊してもよい」というのが本音らしい。かくしてバイオマスという名の下に政府は補助金を出し、森林が無意味に伐採される。

 ところで、ここでは少し視点を変えて、「バイオマス」、つまり「森林などを人類が利用する」ということは樹木側から見てどのようなことかを考えてみたいと思う。そのために、樹木の年齢と樹木がセルロースなどを生産するスピードの関係を図に示した。


樹木の年齢と総生長量の関係

 簡単な図だから解説はいらないかも知れないが、年齢が若いうちは「総生産量」、つまり木が大きくなり、セルロースなどが蓄積される。そのうち、だんだん年齢が大きくなると、生産量が小さくなる。樹木も生長して大人になっていくからだ。

 樹木はなぜ生長するのだろうか?それは樹木は生物だから、私たち人間と同じように赤ちゃんからだんだん大きくなり青年になるからである。青年になるのは、もちろん樹木自体がその「生」を楽しむためのものである。

 新緑の季節。そろそろまばゆくなった陽光の中でキラキラと風にそよぐ新緑は実に美しいものだ。それは人間で言えばちょうど健康そのものの高校生のようなもので、若いことは美しい。

 新緑の木々は風にそよぎ、その青春を精一杯楽しんでいるように見える。それもちょうどインターハイに出場した高校生が力の限りを出して試合に臨むのと似ている。経験も浅く、心も不安定だけれどそれだけに溌剌としている。

 やがて成熟すると樹木も背が高くなり、成熟してもうそれ以上、生長しなくても良くなる。そうなると太陽の光を浴びて「生活するのに必要なだけ」のセルロースを光合成で作り、それを呼吸してとり入れた酸素で燃やして生きるためのエネルギーを得る。

 このように成熟すると体を大きくする必要はないから、樹木は大きくはならない。つまり人間から見ると樹木の「総生産量」はゼロになっていく。これも人間と同じで、歳が30才にもなると、成長は止まり、余計に食べれば太るだけで相撲取りでもなければ意味がない。でも3度3度の食事は欠かさない。

 大人になって成長がとまった人間がなぜ、ご飯を食べるのか?と聞かれたら、100人が100人、「それは生きるためだ」と答えるだろう。でも、樹木は大人になるとなぜ伸びないのか?と聞かれて正面から答えられる人は少ない。

 樹木は太陽の光を浴びて光合成を行う。そして大きくなっていく。それを人間が材木にしたり、紙を作ったりしなければならない。だから樹木はいつでも成長するように錯覚しているが、樹木も成熟したら生きるだけの分の光合成をするに過ぎない。

 生長しない木はセルロースが増えない、つまり生産しない木だから、人間にとって意味がない。そこで「成長の終わった木は切って利用する」ということになる。でもこれを樹木の側から見るとどうだろうか?成長するというのは成長した後、その生を楽しむために成長するのである。人間にせっかく作った体を使われるために成長するのではない。人間でもせっかく20才になって、さあこれからという時に殺されてはたまらない。

 このように自然の生物の利用はえてして人間本意である。樹木ばかりではなく、ブタやトリなども肉を採るのにもっとも効率の良いようにと成長が終わったら殺してしまう。それが一番「効率的」と言われる。

 でも、樹木もブタも「生き物」である。人間だけの効率で考え、成長したら殺す、そう言う考え方で良いのだろうか?実に現代の人間の行動に「こころ」を感じることができない。

(写真は「新緑の北海道」というHPからお借りしました)

終わり