紙のリサイクル、4つの罪(改訂)



はじめに

 紙のリサイクルについて多少、過激な内容の「紙のリサイクル 4つの悪」を執筆したところ、お読みになった方からアドバイスがありました。そこで、最初に掲載した内容を第一章として、第二章にアドバイスを元にしたコメントを加えました。また題名は「悪」から「罪」にしました。



第一章  紙のリサイクル、4つの罪 (最初の執筆のもの)

 紙のリサイクルは環境を悪化させる。だから、これまでもやんわりと「なぜ、紙のリサイクルが環境を悪くするか」ということを、やや学問的に指摘してきた。でも、相変わらず、ボランティア、自治体、そして小学校などで紙のリサイクルをしている。

 紙のリサイクルに熱心な人の多くが善意の人だ。だから、批判をしたくなかった。でも、よかれと思って行動していても、環境や倫理的に良くないことを長くしていると、最終的にはその人達が傷つくだろうから、思い切って紙のリサイクルの悪を言った方が良いと思うようになった。

 耳が痛い人がおられると思うが、必ず役に立つ。



1.1.  紙のリサイクルの第一の罪

 これから人類は「石油のような地下資源」から「太陽の光の範囲で生きる」という方向に進む方が良い。それは多くの環境運動家の賛同が得られる。

 紙は樹木から作られる。樹木は太陽の光で育つ。だから新しい紙は持続性資源を原料としている素晴らしいものだ。現在のところ、樹木から取れる紙は太陽エネルギーの一番良い利用方法だろう。

 一方、紙をリサイクルするときには「石油」しか使わない。だから紙のリサイクルは「太陽の光でできる原料を使わずに地下資源を使う行為」である。

 「環境」というのは自然の営みも含めた総合的なものである。その概念を最初に示して紙のリサイクルを論じるのが適切だろう。

 紙を使うと森林が破壊されると間違って報道された。これは報道機関の不勉強である。報道機関の不勉強に影響されてはいけない。でもこのことで報道機関をそれほど非難する気にもならない。報道機関も次々と起こることを勉強ばかりはしてないので、間違うのは仕方がない。最近、報道機関が「報道」より「意見」や「指導」に重きを置いているのが気になるが。

紙の原料になるパルプをとる森林は余っている。世界で環境問題が起り、紙のリサイクルを進めた結果、パルプの使用量が減り、石油の使用量が増えたからである。多くの国でパルプに使うはずの森林が朽ちている。

植物は「とっておく」ことが出来ないから使わなければ腐る。最近では紙をリサイクルしないと森林が破壊されると誤解している人は少なくなったが、もし疑問であればこのホームページの環境のところを参照のこと。簡単に言えば、紙になる木は先進国の森林からとれるが先進国の森林は増加しており、森林が破壊されているのは発展途上国で、計画植林以外で発展途上国から日本にきている紙の原料のパルプは殆どない。


1.2.  第二の罪

 石油を使うという点では欠点があるが、使った後でも比較的、品質の良い紙はリサイクル出来るものである。だから、昔から「ちり紙交換」という商売が成り立っていた。トラックでやってきて、家庭や事務所の紙を回収し、僅かばかりだがちり紙を置いていった。

 でも、最近、ちり紙交換を見なくなった。最近になって紙のリサイクルを始めた人は、その理由を知っているだろうか?

紙のリサイクル運動が盛んになったのだから、その商売が盛んになるはずなのに、なぜか無くなった。親子三代、ずっと紙のリサイクルを業としていた人たちは今、どうしているのだろうか?

 実は、額に汗して紙のリサイクルをしている人の代わりに、税金を取ってうまい汁を吸う人たちに変ったのである。

 まず、町内会、自治会、子供会が悪い。ボランティアと称して、それまでちり紙交換の商売をしていた人たちの「原料(古紙)」を奪ってしまった。ちり紙交換の人は自分で軽トラックを買い、ガソリン代を払って紙を回収していた。しかし、自治会は違う。「何曜日は紙の回収日です」と呼びかけ、もしそれに応じない人がいると非難すれば良い。実に、よい商売だ。
 
 おまけに、多くの自治会は、最初「紙のリサイクルを促進する補助金」というのをもらい、さらに「集めた紙の量に応じた売り上げ」があった。今でも、補助金があるところもある。それを「自治会費」「子ども会費」という名目で貯金し、その多くは飲み食いに使われた。

 酷いものだ。善意の仮面はかぶっている。

 いったい、人間の労働の内、額に汗して生活をすることより尊いことがあるだろうか?それもずっと紙を倹約し有効に使うために努力してきた人たちが「ちり紙交換」の人たちである。その人達を「自分たちだけが税金をもらって環境に良いそぶりができる」として紙のリサイクル運動をしたのなら、私は許せない!!

 今、紙のリサイクルは少しずつ業者に移っている。でももう、「額に汗する業者」は少なくなり、いかにして自治体が集めた紙をうまくもらうかに長けた業者が幅をきかせている。これ以上は言うまい。なにを言いたいかは判るはずだ。


1.3.  第三の罪

 小学校や中学校の教育を知っているだろうか?

 「紙のリサイクル」は環境に良いと言うことで教育が行われている。小学校ではリサイクル紙でなければ補助金がでない。補助金が出なくても教育が大切だからという気骨のある校長先生は今の日本にはほとんどおられない。だから、小学校はリサイクル紙を使う。

 リサイクル紙を使えば、紙のリサイクルは「善」であると教えざるを得ない。いくら世界の森林が利用されずに枯れていようと、紙のリサイクルが石油を使おうと、小学校の紙のリサイクル運動が額に汗している人を追いやっていても、それは全く教育できない。

 紙や森林の状態は今後も変っていくだろう。その時、小学生になんと教えるのだろうか?遮眼帯をかけさせ、次世代の日本人に事実を知らせず、建前を教える教育は望ましくない。

 かくして小学生は「紙を使用することで森林が破壊される」「紙のリサイクルは正しい」「お金(税金)をもらうために紙のリサイクルをしてなにが悪い」と固く信じている。

 そして、小学生が「リサイクル」をするのではない。リサイクルするかしないかという点で小学生がわかるのは、リサイクルするときには「リサイクル回収箱」にいれ、捨てるときにはゴミ箱に入れるという差でしかない。

 リサイクルの苦労はまったく分からないまま、「リサイクルしているの。お利口さんね!」と褒められる。

 だから、よけいに紙の使用が乱雑になる。これで終わりと思えば紙の裏表を使うが、リサイクルでもう一度使えると思えば、乱雑になる。それが製紙業者の狙いでもあるが。


1.4.  第四の罪

 紙のリサイクルは、「持続性資源が得られるのに、非持続性資源でリサイクルをする行為」という事では論理破綻があるが、リサイクル率の目標というのを立てると、リサイクルした方が資源を多く使う紙までリサイクルしようとする。

 もともと「目標を立てて頑張る」「それで業績を上げる」ということ自体、「環境」とは無縁である。リサイクル率を決めてそれが達成されると自治体の役人の功績になるが、そんなこととわたし達が守ろうとしている大切な環境とを交換することはできない。

 現実には、紙のリサイクルに目標値があるので、とにかく何でもリサイクルするようになる。石油の使用量は増え、ゴミも増える。いったい、環境運動は何を目指しているのだろうか?

 人間が自分の利益しか考えられないのは、動物らしくて良いとも言えるが、人間はすでに動物の域をこえて巨大な力を得た。だから、動物的な利己的行動を押さえなければならない。それが環境の基本中の基本である。

 紙のリサイクルを進めている自治体、子ども会、小学校の皆さん、この際、メンツがあり、行きがかりがあり、補助金があるとは思うけれど、思い切って止めてもらいたい。そうして、紙を使う量を減らすという本来の運動に立ち返ってもらうことを切に願う。



第二章  紙のリサイクルを別の視点から考える

 読者の方のアドバイスは次のような内容でした。(一部、文章を変更しています。)

「再生紙の製造には石油が消費されると記述されているが実際その通り。しかし紙を原木から製造するのはさらに石油を多く消費する。それは原木を紙として利用するには、まずパルプ製造工程を経なければならないからだ。

パルプ製造工程では大量のエネルギーや薬品を消費し、さらにリグニン由来の産廃が発生する。これに対し古紙を利用した場合はパルプ製造工程を省略できるので資源の節約になる。

古紙を利用した場合バージンパルプを利用した時に比べ、紙の強度を補うために薬品を多く使うが、それでもパルプの製造に比べると資源の消費量は少ない。」

 まずはアドバイスをいただいた方に感謝を申し上げます。そして私もほぼ同じ計算をし、同じ考えであることを最初にお断りしたいと思います。私の著書にも書いてありますが、紙のリサイクルはもともと「ちり紙交換」というビジネスが成立していたようにリサイクルでは優等生で、鉄、紙、胴、貴金属など昔から行われていたリサイクル品目にはそれなりに合理性があるのです。

 そこで、私は次の2つの疑問があります。それが私が紙のリサイクルに厳しい原因です。


2.1.  なぜ、ちり紙交換を盛んにしなかったのか?

 仮に樹木からパルプを作りそれを紙にすることに対して、民家から集める古紙の方が紙を製造する時にコストがかからないとします。紙を製造するときのコストは、それを作る為の石油は消耗品、機械類、建物、管理費、労務費などですから、結局すべて日本の環境に負荷を与えます。

 またコスト(紙を製造するために使った経費)はプライス(紙の値段)とは違いますから、あまり市況の影響をうけず、紙を作る為の環境負荷に比例しているとできるでしょう。

 社会が環境に関心を持ち、紙のリサイクルに賛成する人が増えれば、従来から「ちり紙交換」をしていた人が繁栄するはずです。古紙を出す家庭も協力的になって、従来は家の玄関まで取りに来なければならないものを外に出しておいてくれるかも知れません。だから収集の手間は省ける方向に行くはずです。

 一方、製紙会社も紙のリサイクルが環境に良く、原料としても優れていれば、パルプよりも古紙を高く買うでしょうから、ちり紙交換の人は、「集めやすく、お金になる」ということになりさらに繁栄するはずです。

 それでは、なぜちり紙交換の人がいなくなったのでしょうか?そのことはすでに第一回の執筆(第一章)に書きました。

 そこでここではさらに踏み込んで、「もし、パルプより古紙の方が紙の原料として優れているなら、なぜ製紙会社はパルプの買い付けをするのか?」という疑問に踏み込んでみたいと思います。

 ある製造会社があり、原料の仕入れ先がA, Bと2種類あるとします。この2種類の原料の仕入れ価格は同じですが、製造工程に差があり、AよりBの方が少ないコストで製造できるとします。その会社の社長はどちらを選ぶか?

 言うまでもなく原料Bを選択するでしょう。製紙会社が紙を製造するときにパルプと古紙という2種類の原料があり、古紙の方がより安く紙を製造できるなら、古紙を買い付けるのではないでしょうか?それなのになぜ、古紙の回収にはボランティアや自治会なのが必要なのでしょう。

 ちり紙交換から古紙を買い付けても良いし、本当に原料として望ましいなら製紙会社が家庭まで古紙を取りに来るはずです。これはアルミ缶やスチール缶もそうで、本当に良い資源なら製造会社が集めに来るはずです。

 ある時、環境に熱心な大学生が私のところに来て意外な質問をしました。
「先生、先日、あるアルミ缶の会社のホームページを見ていたら、ボーキサイド(アルミニウムの原料)からアルミを作るより、リサイクルアルミ缶からアルミを作る方が6分の1のコストでできると書いてありました。」

武田「え、そう?前からアルミの会社は「ボーキサイドからアルミを作る時の電気に比べて、リサイクルアルミ缶の場合、わずかに3%で済むと言っていると思うが」

学生「ええ、どちらでも良いのですが、もし6分の1でできるなら、アルミ缶会社はリサイクルが始まって大儲けしているのですか?」

武田「いや、アルミメーカーもアルミ缶メーカーもそれほど利益を上げていないよ。特にアルミメーカーは赤字の所もある位だ」

学生「おかしいですね??」

 この議論を通じて学生は「環境というのは偽善なんだな」と思い、それ以降、環境を守ろうなどとは考えなくなりました。環境のウソはこのようにして次第に支持者を失っています。だれが考えてもリサイクルアルミ缶を使えば6分の1のコストでできるなら大変な収益が上がるということは判るからです。

 そしてもし6分の1なら「なぜ、アルミ缶を取りに来ないの?」という質問ももっともですし、「アルミ缶の会社はずるい。自分たちで集めずに「環境」とかいって他人に集めさせている」と思うのも人情でしょう。

 紙のリサイクルも単に数字を示すだけではなく、「行為」でリサイクル紙の方がコストが安いことを示すべきと思っています。本当に製紙会社が環境を大切にするなら補助金制度を断るぐらいの気概が欲しいものです。


2.2.  自然との関係

 紙はリサイクルの優等生で、多少、市民が協力すれば環境負荷という意味でも有効に使った紙を利用するべきであると著者も考えています。でももう一つ踏み込み、わたし達が本当にめざしているもの・・・これから長いあいだ自然を破壊せず、資源を大切にした暮らしをするのにはどうしたら良いか?という真剣な問いに答えることです。

 それは「補助金がもらえるからリサイクルしよう」というような低次元のことではないので、やはり議論を分けなければならないと思っています。

 3つのケースを考えてみます。

1) 紙をリサイクルした方が環境負荷が小さい場合
2) 紙をリサイクルしても樹木からでも環境負荷が同じ場合
3) 紙をリサイクルする方が環境負荷が大きい場合

 まず2)が簡単ですから2)から考えてみます。

 紙を樹木からパルプにして使う時もリサイクルでも同じ環境負荷として、その環境負荷を石油の量としますと、どちらも同じ量の石油を使うことになります。この場合の「使用する石油の量」というのは

1) 樹木からの場合は森林から伐採して種々の工程を経て、最終的に製紙工場を出荷するまで
2) 家庭で紙を使ったところから、最終的に製紙工場を出るまで

で考えてみます。このとき環境の計算では「家庭の人は環境に関係ない」「労賃をもらっている人は環境負荷に入れるが、ボランティアは入れない」という考え方がありますが、確かに経済学的にはそのような取り扱いも納得できるのですが、「環境」ということを経済活動などと切り離して、「資源」「大気の汚染」などとして捉えた場合には、誰がやっても、また労賃をもらっているかどうかとは無関係です。

つまり資源の枯渇や環境の汚染という尺度を問題にすれば、労賃などの区別は入らないことになります。家庭からでる古紙が森林からの資源と同じ場合には、「環境」という視点からは森林からとってもリサイクルでもどちらでも良いことになり、もし製紙会社がリサイクルが良いなら戸別の家庭に古紙を回収に来ると思います。

さてこの場合、森林を使っても古紙をリサイクルしても同じ量の資源(多くは石油)を使うことになりますから、「自然のものを使っている」ということにはならないことになります。わたし達の最終的な望みは「太陽エネルギーを使った文明」ですから、限りある地下資源としての石油をできるだけ使いたくありません。

もし樹木を切ってパルプにし、さらにそれを紙まで持って行くときのエネルギーや装置を石油を使わずに行うとすると、また木を切らなければなりません。地球上の炭素資源(炭素のエネルギー)は森林と石油、石炭、天然ガスに限られますから、地下資源を使わなければ森林を伐採しなければならないことになります。

現在、製紙に要するコストの内、森林の木という意味では10%もいっていないでしょう。あとの90%は石油を使ってパルプにし、運搬し、製紙していると考えられます。そうすると新品の紙もリサイクル紙もともに石油で出来ているようなものと言えます。

実は私が紙のリサイクルは、リサイクルとしてはかなり優等生だけれど、わたし達が目指しているものとかなり違うのに「補助金」とか「小学校の教育」、そして「人への強制」などをするのはどうか、と思うのはこのところに疑問があるからです。

私は「現在の生活を太陽エネルギーでまかなうようにするためには、容易なことではない。もちろん紙をリサイクルしたぐらいでなにか変化があるほどでもない。物を大切にするという習慣を付けるというならもっとまともで論理的な方法を選択した方が良い」と思います。そして紙の使用については、リサイクルでも森林でも良いのですが、紙の使用量を現在の10分の1にするように努力するなら、一緒にやれます。

ここまで一気に話を進めてきましたが、先の3つのケースで2)をまず話をしてきましたが、実は紙はリサイクルの方が良くても、森林からとった方が良くても、パルプから製紙にかけて多くのエネルギーや装置、遠いところからの輸送などがある限り、問題は潜んでいるのです。わたし達はすでに「大量消費」の中にいて、その生活を捨てられないでいます。この生活が自然と調和しないこともよく分かっているのです。でも止められない、だからせめてもの罪滅ぼしになにか少し形を整えようとするから、そこから「罪」がまた新しく生まれてしまうと私は思います。

1) でも2)でも3)の場合でも、正しいのは紙の使用量を10分の1位に減らそうではありませんか!!