デポジットの怪
18世紀に始まった産業革命はイギリスに大きなメリットを与えると思われた。紡績機の発達によってそれまで一人一時間で10mしか生産できなかった綿糸が18世紀の終わりにはウォーターフレームなどの出現によって、1000倍にもなった。1712年にニューコメンによって発明された蒸気機関は、1788年にジェームスワットが復水器を着想し、効率の高い実用的な蒸気機関ができるようになり、さらに1803年にはトレヴィシクが高圧蒸気機関を試作して巨大な力を得た。人類の将来は洋々たるもののように見えたのだ。
それから40年後、後の共産主義の理論的基盤を作ったエンゲルスが、その著書の中で次のように述べている。
「貧民には湿っぽい住宅が、即ち床から水があがってくる地下室が、天井から雨水が漏ってくる屋根裏部屋が与えられる。貧民は粗悪で、ぼろぼろになった、あるいはなりかけの衣服と、粗悪で混ぜものをした、消化の悪い食料が与えられる。貧民は野獣のように追い立てられ、休息もやすらかな人生の楽しみも与えられない。貧民は性的享楽と飲酒の他には、いっさいの楽しみを奪われ、そのかわり毎日あらゆる精神力と体力とが完全に疲労してしまうまで酷使される。「イギリスにおける労働者階級の状態」(1845年)」
確かに産業革命も自動化装置も、そして蒸気機関もそれぞれ素晴らしいものだったが、それを人間が活かすには人間の心の方の成長が伴わなかったということを示している。当時のイギリスの炭坑には多くの婦人、子供が動員された。次の絵は地下奥深い炭坑から石炭を担いで階段を上る婦人労働者である。この人達の人生は産業革命以前より悪くなった。
(切羽から石炭を運び出す炭坑の婦人労働者)
この悲惨な状態を防ぐべく、マルクス・エンゲルスが新しい経済理論を打ち立て、それが1905年のソヴィエトの国家建設へとなる。巨大な生産力は共産主義という論理的な社会体制によって制御され、国民全体のものになるはずだった。しかし、1989年にはベルリンの壁が崩壊し、共産主義という歴史的実験は失敗に終わった。共産主義を指導したロシアのレーニンまでは良かったが、スターリンは恐怖政治をしき、多くの反対派の人達を虐殺したのはよく知られている。中国においても毛沢東の文化大革命における数々の非人道的行為は、「人間が利己的である心のままに、利他を原則とした制度を運営してはいけない」という当たり前のことを実証して終わりとなったのである。
共産主義の失敗について良く考えておく必要がある。上に示したエンゲルスの文章やマルクスの著作を見ると共産主義を創成した人達が、いかに深い人間愛に充ち満ちていたかがよくわかる。貧困な人達のこと、辛い労働の下で呻吟する人達、そして機械の一部のように人間性を否定されて生活する人・・・それらの人達に対するマルクス・エンゲルスの愛情は深かった。
そして類い希なる頭脳と努力によって20世紀初頭には共産主義体制理論が構築され、インターナショナル運動などを経て、ソヴィエトができる。ヨーロッパにもアジアにも共産主義を支持する多くの人達が生まれた。
でも1989年のベルリンの壁の崩壊で80年余の歴史をもつ共産主義というものがどのようなものであったかが白日のもとに晒された。スターリンの大量粛正のようにナチスの残虐行為に似た「誰でもが知っている歴史的なできごと」ばかりではなく、共産党員の日常的な権力行使、賄賂、秘密主義、人民には危険を教えない政府の体質、非効率的な生産システム・・・などなど、あまりにも酷い状態が判ったのである。
この共産主義の失敗は環境問題とそのシステムを考えるときに参考になる。つまり「目的が正しいからといって、その目的が達成されるとは限らない」ということ、「目的が理想的であるほど、目的に達成は難しい」ということがわかる。人間は基本的に利己的である。アダム・スミスは「見えざる手」によって動くシステムはその目的を達成することができるとしている。この「見えざる手」というのは人間の利己性や改善意欲など人間そのものの性質が発揮されることを言っている。
たとえば共産主義の失敗は「社会全体のために自分を犠牲にする」という「実施不能な見えざる手」に期待したシステムであった。そこではいくら美辞麗句を述べてもそれは「建前」であって「見えざる手」ではない。手は別の方向に進んでいるのである。
このことと環境問題を考えてみたい。
人類の巨大な生産力と限りある資源、その分配・・・これらを調和する方法を見いだせないまま、20世紀を過ぎ、現在、人類はその文明の危機に瀕している。石油、石炭などの主要エネルギー資源は残り50年と言われ、それでも個別の生産活動を止めることはできない。むしろ、強い警告にもかかわらず、先進国ですら生産増大を伴う経済成長が叫ばれ、発展途上国の生産増をどのように考えれば良いかすら決定していない。
その中で、日本では「見えざる手」ではない環境運動が起った。環境に関して理想を唱え、「みんなで環境を守りましょう」という大合唱をする。それがある程度、行き渡った頃にリサイクルやゴミゼロという運動を始める。運動をする多くの人は真面目だが、中枢は違う。苦労して実施することでその見返りを求めるのが「見えざる手」である。だから、企業や政府が行う環境とは環境そのものではなく、その背景に「生産増」「雇用確保」が見え、リサイクルがかえって資源の浪費を増やし、ゴミを増やすことが判っても、その動きを止めることはできない。リサイクルを止めるということは消費を縮小することであり、それは企業や政府の意図とは異なる。そして、大量消費の文明の中にいる先進国の人にとっては耐えられない。
そこで共産主義が人道的なシステムから残虐な権力システムに変わったように、環境も変質していく。単なるリサイクルではなく、もう少し複雑にしてわかりにくくしようとする試みが行われる。たとえば、補助金という名のお金を出して、リサイクルの負担を低く見せることや、リサイクルに直接かかる費用を計算し、リサイクル全体の負荷を低く見せようとすることなどがそれである。リサイクルが目の前の問題を解決するだけの目的を持っているならそれでよいが、リサイクルは日本全体、できれば世界の環境の改善のために実施するものであり、目の前のゴミが減ったり、リサイクルを税金で補っても意味がない。行為全体がそれまでより少ない資源で実施出来なければならないのである。
このような複雑化の一つに「デポジット制」がある。この制度は、1)名称が英語でわかりにくく、高級に感じられる 2)ドイツが実施しているということで欧米コンプレックスの日本には受入れられやすい 3)見かけは飲料ビンの量が減るように感じられる という特徴があり、一部で実施の動きもある。ここでは、デポジット制を入れたリサイクルの目的が「環境を改善する」ということであって、「特定の人が儲かる」「形だけで自己満足する」などは考慮しない。
まず、デポジット制をとり、それがうまく行って飲料ビンなどの容器が回収されたとする。その時の回収費用はペットボトルでおおよそ一本40円程度と試算される。
デポジット制を実施すると、使用後の空の容器を持って行くと、割引になったり、お金を返してくれるのでみんなが競って空の容器を返すだろうと予想されている。ここが第一の錯覚でもあり、あまりに強い先入観があるので、説明するのも難しいが、次のことを良く読んでもらいたい。
1) 使用後の空の容器(代表としてペットボトルとする。アルミ缶でもほぼ同じ)を、回収してもう一度使うと、石油を150グラムほど使う。
2) 使用後の空の容器を廃棄物として捨てて焼却すると30グラム程度の石油で、古い容器の焼却と廃棄、および新しい容器を作ることができる。
3) このようなことが起るのは、「大量生産技術」がいかに優れているかということと同じである。油田からタンカーで運び、工場で生産する能率があまりに優れていて、それに対して小量ずつ運搬したり処理したりする負荷は大きい。
4) 容器を回収してもう一度使うと、150グラムの石油を使うので、古い容器を焼却し新しい容器を作るのに比較して約5倍の二酸化炭素がでる。二酸化炭素は石油などを使えばでるものであり、焼却しても輸送や生産に石油を使っても二酸化炭素がでる量は石油の量に比例するから。
5) 社会が正常なら、10円かかるものは10円分の物質やエネルギーを使い、100円かかるものは100円分の物質やエネルギーを要する。その支払いが個人でも、会社でも、税金でも同じ。環境は「自然への影響」なので、人間社会のなかのだれが支払うかは無関係である。
どうだろうか??ビンを回収するという行為は環境を改善するのだろうか?
次に「デポジット制」やそれに類似した「ビンを返したらお金がもらえる」というシステムを考えてみる。
仮に、ある容器を回収すると、現在のようにビンを廃棄物にしてそれを処理するより16円安くできるとする。ペットボトルが平均150円程度という値段は、リサイクルも始まっていない頃の料金だから、廃棄する料金も入っている。その後、リサイクルなどが始まったが、何故か150円が据え置かれている。もしみんながペットボトルを返却してそれが再び使えれば、安くなる分だけは消費者に返ってくるはずである。それが16円とするとコンビニなどで手数料を4円程度とったとして、12円は消費者に戻ってくるはずである。
昔のビール瓶などはそうだった。「デポジット制」などを始めなくても、ビール瓶自体が価値があったので、飲んだ後のビール瓶を酒屋さんに持って行けば5円程度くれた。つまりビンに価値があることを示している。
最近、よく「昔はビンを返した」という話があるが、それは法律や強制力でやっていたわけではなく、捨てるより再利用する方が有利(環境にも良い)であれば、自然にそのビンには価格が付く。だからビンを返せば、返したところが少し手数料は取るけれど、お金が戻ってくる。
これに対して、ビンをリサイクルする方がお金がかかるとする。その場合は、150円のペットボトルをあらかじめ170円にしておいて、リサイクルすると余計にかかる分を上乗せしておく。そして回収する時に12円ほど返し、4円を手数料、後の4円を余計にかかる費用に充てる。12円とか4円という数字は一つの例であって、13円の時もあれば5円の場合もあるだろう。しかし、基本的な関係はかわらない。
このようにリサイクルをすると、かえって物質や輸送量、エネルギーなどを使うことになると、ビンは価値を失い、デポジットという名前であらかじめ消費者に支払ってもらう必要が生じる。これがデポジット制の存在理由である。
デポジット制が都合が良い人達にとってはさらにもう一つの理由がある。150円のペットボトルにデポジット料金20円を加えて販売する。「デポジット制は環境に良いから、皆さん協力してください。買うときには20円高いのですが、返せば戻ってきます。もともと使い捨てするほうが悪いのですから」と言われると反対をしにくいので、仕方なく170円で買う。しかし、現実問題としてボトルを返す人が50%とすると、販売したボトルうちの半分の20円分は誰かがポケットにいれる。それは10円の値上がりとなる。
デポジット制の真なる狙いは値上げであることが多い。しかし、多くの値上げがそうであるように、何か正当な理由をつけなければ値上げは難しい。その点、環境のためにという値上げの理由は格好が良いし、これまでもいろいろなもので成功している。
さらにもう一つ怪談話がある。リサイクルが盛んになり、かなりのゴミが減ったように言われる。もしゴミの負担が大きく、リサイクルがゴミの減量になるなら税金はかなり減ったのだろう。その浮いた税金は今、どこに行っているのだろうか?日本の自治体の多くは、大きな力を入れてリサイクルに取り組んでいる。ゴミはかなり減ったはずであるし、リサイクルでものが少なくなったはずだ。焼却や廃棄の手間も少なくなり、大いに税金が余っているはずである。
なのに、なぜ減税されないのだろうか?
実は、環境に力を入れている自治体は「環境の負担が大きく、財政が苦しい」と言っている。本来、環境対策が成功するということは環境の負担が小さくなるはずである。それ自体が環境の努力の目的だからである。
「我が自治体は環境に熱心だから、環境にかかる費用が多い」
という話はデポジット制の怪と同じように環境の怪の総合版である。
「環境」という響きは美しい。だから環境運動家はみんな、誠意があり、正直だ。だけれども、人間社会はそれほど単純ではない。自分の誠意がかえってアダになり、社会全体を悪い方向に向かわせていることもある。きれい事だけではなく、事実をしっかり見ること、そしてリサイクルが行われ、それが環境を改善するなら、結局のところ税金が減らなければならないし、デポジット制が環境に良いなら、それはペットボトルやビールの値段が下がるはずなのである。
私は多くの共産主義を支持する人を知っている。その人達は、人間として立派で、人に対する愛情も深い。だからこそ共産主義に共鳴する。環境もそうだ。環境を大切にしようとする人に悪い人はいない。
でもだからといって環境の施策がその目的を達成するとはかぎらないのだ。実際、名古屋では廃棄物を26種類に分別している。お父さんが努めてお母さんが家事をしている「標準的」(これが現代の標準ではないが)家庭ではそれが可能であるが、多くの家庭は単身、あるいは家族で忙しく働いている。
その人達に分別を強いる。出張が続くと1ヶ月も出せないゴミがでる。その分別したゴミの8割は焼却(溶鉱炉での焼却も含めて)している。プラスチックを分別しても、悪いプラスチックを使用する用途がないし、余計な費用がかかるので品質の悪いプラスチックが高いということになり、誰も使わない。環境に良いということは「値段が安い」ということとほぼ同じであり、さらに分別などは無料で行っていることを考えれば、実に馬鹿らしい。でも、「理想」だけはしっかりしているので、この制度が中止になるには大きな矛盾と犠牲がでなければならないだろう。
「環境」という大義が、「悲惨な人を救おう」という共産主義の大義の失敗を覆すことができるだろうか?「見えざる手」が必要というアダム・スミスより我々は優れているのだろうか?そして「利己的人間の集団が利他的社会システム」を実施するほど高い人格を持っているのだろうか?
名古屋大学 武田邦彦