生物の体はそれほど丈夫な材料で出来ているわけではない。体を作っている筋肉はポリアミドだからアミド結合でできている高分子であり、酸やアルカリに弱い。ポリアミドは日常生活でも女性用のストッキングなどに使われているが、すぐ「伝線」したり、お酢でもかけようものならボロボロに穴があく。
ストッキングなら捨てればよいが、人間の体は簡単には捨てられない。
「人間の体は、なぜ弱い材料を使っているのに、80年も保つのだろうか?」
新しいことにチャレンジする時には勉強する内容も方法も違うので、なにか疑問に思ったらそれを毎日、唱えなければならない。そうすると段々、疑問が自分の体の中に入ってきて、考えようと言う気持ちになる。
私は焼肉が好きだから、学生と良く焼肉屋に行った。狂牛病で社会が騒いでいる時には焼肉屋も空いていてゆっくり食べられたし、それまで威張っていた店の人も腰が低くなっていて快適だった。
焼肉というのは不思議なもので、日本食なら上品に出される豆腐でできた頼りの無いおかずを「美味しい」と言いながら食べる。量も少量なら材料も植物系が多い。ところが焼肉屋に行くと闘志が湧いてくる。「よーし、今日は食ってやるぞ」と威勢が良い。
それも学生と一緒に行くとなおさらそうなる。いつも腹を減らしている学生だ。この際、思いっきり食べさせようと思うと、こちらも負けずに食べてしまう。家に着く頃には深く反省し、もたれた胃を抱えてベッドにつく羽目に陥る。
夜中にふと不安になった。あんなに牛肉を食べたら、胃の中は牛肉だらけだろう。胃はおそらく私の胃壁の肉と胃の中の牛肉を区別はしないだろうから、あんなに食べたら胃は牛肉を消化しようとして自分の胃に孔をあけないだろうか?
だいたい、夜中に心配になることは妄想が多い。お天道様が照っている時には考えもしない奇想天外なことを深刻に考えてしまう。夜というのは恐ろしいものである。ともかく、自分で自分の胃を溶かしてしまう妄想に駆られた一晩だった。
胃はなぜ自分の壁の肉は消化しないのに、ウシの肉は消化するのだろうか?胃の中に入ってきた肉のDNA鑑定をするわけではないし、ウシと私の肉は同じポリアミドでできているので、胃酸も分解酵素も区別は出来ないはずだからである。
調べてみると、胃壁の防御は、胃の中に入ってきた物が牛肉かどうかなどは関係なく、もっと泥臭い方法でやっていることが判った。
ともかく胃の中に入ってきた物を消化するために胃酸という名の塩酸を出す。pHは1.0程度だから濃度は0.1Nで、かなり強力である。それが直接、胃壁を攻撃したらやられてしまうので、胃の上皮細胞は粘液と炭酸水素イオンを分泌する。
粘液は胃酸が物理的に胃壁に到達するのを防ぎ、炭酸水素イオンは胃壁近くの塩酸を中和する。せっかく高濃度の胃酸を出して胃の内容物を消化しようとしているのに、それを中和するアルカリを分泌するのはいかにも矛盾しているが、胃の中を酸性にし、胃壁付近を中性に保つためには強酸を分泌して、さらに胃壁付近に弱塩基を吹き出すことがもっとも効率的なのだろう。
炭酸水素ナトリウムは、その昔「重炭酸ソーダ」と呼ばれ、それをさらに縮めて「じゅうそう:重曹」と呼んでいた。昔は、胸が焼けるとすぐ「重曹」を飲んだものである。この重曹の分泌によって胃壁付近のpHは7まで中和される。
また胃の粘膜自体の構造も工夫されている。胃の粘膜の表層には燐脂質層があり、若干、親油性なので酸性水溶液をはじく。それによって接触を防いでいる。つまり、3重に防御している。
1) 胃の表面に粘膜を張り、
2) 胃壁に沿って重曹を分泌し、
3) 粘膜の表層を親油性にして酸性水溶液をはじく
ということである。
でもこのような「化学的」防御だけでは不十分であり、それを補うためにさらに3段階の工夫をする。
4) 消化液を分泌する時に胃壁に対して垂直に勢いよく噴出させて、胃壁に返って来にくいようにする、
5) 粘膜を流れる血流量を増やし、血の中に酸を取り込んで流し出す、
6) それでもやられるので細胞分裂を盛んにしてやられた細胞を交換する(数日内)
という手段をとる。
少し専門的になるが、これらの防御機構はカプサイシンが深く関与しているらしいことが判っている。いずれにしても胃に牛肉が詰まっても、何とかやってくれると安心した。でも、どうも胃に満杯になるまで牛肉を食べるのは望ましくないような気もする。
若いうちは細胞分裂も激しく、牛肉を満腹食べて胃壁が多少荒れてもすぐ補修してくれるだろうが、ロートルになると速度は鈍くなっているだろう。あまり気が若いだけではダメだと反省しきりであった。生物に学ぶ研究もたまには良いことがある。
おわり