― ふたたび、油団 ―

 「油団」と書いて「ゆとん」と読む。この素晴らしい敷物についてはこのホームページでも何回か書いた。伝統的な日本の敷物で、7月、梅雨が開けたら倉から出してきて座敷に敷き、夏を過ごすと秋口には豆腐か雪花菜(きらず:おから)を使って丁寧に拭き、また倉にしまう。

 六畳の油団を巻いてしまえる倉を持っていなければならないので、庶民には少しほど遠いものではあるが、それでも伝統の智恵が詰まっている敷物である。今回は伝統に学ぶということで単に「素晴らしい」というのではなく、この敷物について少し科学的な光を当ててみることにする。

 油団は、現代風の工業製品に見られない次の特徴がある。
1) 電気を使わなくても涼しい
2) 買った時より20年ぐらい経った方が良い

 また「素晴らしい」と言いたくなるが、本当に素晴らしい。まず、第一に、環境に優しいと言うことである。現代のクーラーは電気を使って冷媒を液化し、それが再び蒸発する時に潜熱を周囲から奪う。それで冷やすわけだが、また電気を使って冷媒を液体に返さなければならないので、結果的には周囲の温度を上げる。周囲の環境は暑い季節にさらに温められ、自分だけが涼しい。利己的環境制御の典型的なものである。

 第二に、買った時には、見かけはそれほど素晴らしいものではない。あわいベージュ色であり、和紙で作られたということが一見して判る。つやもそれほどでもない。しかし20年も使うと、その上品さといったら相当なものである。油団を敷いてあるということ自体で座敷は上品になる。


(左上:制作直後の油団、右下:長年、使い込んだ油団)

 まず、第一の特徴・・・エネルギーを使わないのに冷える・・・このことを考えてみた。
 
 真夏だから外は暑い。家の中もムンムンとするぐらい暑いのに、油団の部屋だけはヒヤッとする。そうなると科学的には「油団は熱伝導率が高いのではないか?」と考える。そこで熱伝導率を測定してみた。

 そうすると「予想通り」、アルミニウムが桁違いに大きく、ガラスがその100分の1である。有機材料では、アクリル板というプラスチックの板、木材を使ったベニヤ板、それから油団と雑巾が続く。特に熱伝導率が高いわけではない。

 油団を敷いた部屋が涼しく、また子供がゴロゴロしているところを見ると、人の体の熱が「熱伝導率」が高い油団に移り、温度の上がった油団から風が熱を運んでくれる、それがまともな科学的推定だろう。そのためには油団は熱伝導率が高いはずである。

 でも、もう一つの科学的な推定は逆である。油団の構造は和紙を敷き、それを刷毛で叩いて毛羽立てる。その時、職人の手元を見ていると、和紙の繊維を垂直に立てているように見える。ということは和紙を重ねて油団を作る時に、重ねる和紙の間に空間を作ろうとしているようだ。
 
 座ったら少しふわっとした感じがする油団だから空間は必要である。そのために毛羽立てているが、その結果、空間ができるのだから保温性が良くなるはずである。つまり、
1) 現象としては熱伝導率が高い。
2) 構造としては熱伝導率が低い。
ということになるはずである。

 だから上の図のように熱伝導率が低いという結果は材料構造から言えば正しい。「正しい」というより一応、近代科学が教えることと同じであるということが判った。

 ・・・油団の熱伝導率は低い。だから保温性があるので夏に使う敷物ではない。「涼しい」というのは錯覚で、やはり伝統的なものはいい加減だ・・・
と判断する人もいる。研究というのは、現在考えていることが間違っていることを見いだすことなのだが、同時に研究者は現在の科学に依らざるを得ない。だから熱伝導率を測定してそれが低いとガッカリして研究を放棄する。

 しかし私は違う。私はいわば百戦錬磨の兵士のようなもので、今、自分が相手にしているものがそれほど柔なものでないことを知っている。なぜなら、もし簡単な科学で夏を涼しく過ごそうと思えばエアコンを研究すれば良く、夏の暑い日に敷物を敷いただけで涼しくなると言うこと自体が近代科学ではおかしいからである。

 「伝統に学ぶ」ということを私流に解釈すると、単に伝統をまねるのではなく、伝統を学ぶことによって、現在、考えていることに間違いが無いかどうかを調べることである。伝統というものは数世紀に渡って人間が使ってきた物、それに価値を見いだすことが出来た物である。

 いくら迷信や思いこみがあるにしても、人間は結構、からい面がある。役に立たない物を長い間、しかも値段が高いのに買ったり使ったりはしない。次第に使わなくなるはずである。だから油団のように六畳で60万円もする敷物が「座ったら暑い」というのなら使わないはずである。

 伝統を学ぶということはこの現象に対する信念であり、調べようとする目的と反対の結果が出ても1回や2回ではへこたれない。それが百戦錬磨の研究者というものである。

つづく