― 胼胝 ―

 

 ポリフェニレンエーテルやポリエーテルケトンなどの研究を通じて、初歩的ながら「人工的な材料も「生体と同じように」自己的に修復できる可能性がある」と言うところまで来た。実験もまだ初歩的だったし、学問的な成果としてももう一歩だったが、ともかく、「人工的材料の自己修復」という概念は作ることができた。

 でもその段階で一つ、引っかかることがあった。それは漫然と「生体と同じように」と言い、生体は自己的に体を修復すると思っているが、それは本当か、修復するとしたらどのような修復を具体的にしているのかについて、それほど良く理解していなかった。

 新しい研究は常にそういう物だが、最初に始めた頃は何かの思いこみがあって、熱中している。そしてある程度データが出てくると、待てよ?といろいろな事が疑問になる。たとえば、人工的な材料でも紫外線防止剤は本当に「自己的に修復していないのか」とか、「高分子の主鎖をつなぐのが修復か」などの疑問であり、これは研究の段階として当然の成り行きでもある。

 そこで一度、頭を冷やすために「自然に学ぶ」と「伝統に学ぶ」を少し掘り下げてみたいと思い、実験の速度を緩めて調査を始めた。自然に学ぶという方は主として書籍を調べ、伝統に学ぶは実際に伝統的な文化を守っている場所に行くことにした。

 「自然に学ぶ」でもっとも詳細に勉強したのは皮膚の修復だったが、最初の頃、「これは面白い!」と思ったのは、「自然に学ぶ」では胼胝、牛肉と胃壁、イボタ蛾、「伝統に学ぶ」では油団、材木だった。そこで系統的な自己修復や自然に学んだことを整理する前に、自然や伝統で印象的なことを2、3まとめてみたいと思う。

 かつて「ペンダコ」は執筆を業とするものの誇りだった。朝から晩まで万年筆を手にして原稿用紙を相手に字を埋めていくと、そのうち利き腕の中指の内側に上の写真のような「胼胝」ができるのが普通だったからである。胼胝というこの難しい漢字の読み方は「タコ」である。

 毎日、ペンを強く握っているとペンダコができることは知っていた。そしてそれが文筆業としてのプライドであることも納得していた。でもなぜタコができるのか、タコはなぜ硬いのかをそれほど深く考えたことは無かったが、生物に学ぶという研究を初めて調査し、そして感心したものである。

 人間の皮膚はそれほど強くない。だから太陽の光が当たると皮膚ガンになったり、ペンを強く握れば、そこの細胞が傷む。そして傷んだままにしておくわけにも行かないので、傷んだ細胞は治しておかなければならない。

 人間社会と同じではないが、修理をするには材料もいるし、エネルギーも必要である。文筆家が筆を持てば、細胞は強く握られる度に細胞を修理するという具合である。それも一日中、修理に追いまくられる。

 そんなことが暫く続くと、強く圧迫を受ける細胞は考える。
「どうも、この人は毎日、ペンを握るらしい。それもすぐ止めることもないようである。それなら修理してもらうのも申し訳ないので、私はしばらく死ぬことにしよう」 

 そして自ら死ぬことを決めた細胞は、まだ皮膚の下の方にある時から死ぬ準備を始める。徐々に細胞内にケラチンという硬い物質を溜めて細胞は徐々に硬くなり、そして生きるための活動を少しずつ抑えていく。皮膚の内側の細胞は徐々に表面の細胞がアカとなって落ちていくと表面に移動する。

 やがて、細胞が表面に出る頃には細胞は角質(ケラチン)を一杯に溜めた状態になり、こちこちである。そして細胞は自ら死ぬ。硬い角質に覆われた細胞が皮膚の表面を覆った状態、それが「胼胝」である。

 自ら死んで体を守る・・偉いものだと感傷的な気分になるが、生物の体の一部が全体のために死ぬ現象を「アポトーシス」といってペンダコ以外にも例が多い。一つの生命体を維持するには様々な工夫を要する。でもこの現象をただ「自然は素晴らしい」と感嘆するだけではなく、人間社会に役立てることは出来ないだろうか?

 第一に考えられるのは、材料の感圧反応を持たせることである。材料の中の圧力が高くなると反応する材料を入れておき、普段は柔らかいのだが、圧力がいつもかかると少しずつ反応して材料が硬くなる。圧力がかかって凹んでは困るような場合、良い結果をもたらすだろう。

 第二に工業製品の中に「変質する部分」を組み込んでおくことである。たとえば、漏電しやすい製品があるとする。漏電すると電流が流れるので、その流れた微弱電流に反応して絶縁体を作る仕組みがあり得る。このような仕組みを持つと漏電の危険性は非常に小さくなるだろう。

 第三に人間社会においては「刑務所」は一種の胼胝現象だろう。社会には悪い奴がいる。それがいると他の人が迷惑する。それならいっそ、裁判にかけて刑務所に入ってもらえば、その人自身は自由な活動はできないが、社会は安全になる。

 胼胝はいろいろなことを教えてくれた。

つづく