情報と信頼性



はじめに

 自然は「常温常圧」から逃れることはできず、深海やマグマと地核の接点のような高温高圧のところでは原料の供給、製品の搬出がままならず、その上低熱源に熱を逃がすことができないので仕事の量は制限される。

 それに対して、人間はより強い材料を求めて地上に存在し得ないような条件を現出する。Steel, Tungsten alloyそしてスーパーエンジニアリングプラスチックなどがその例である。それに対して自然の強み、特に生物の特徴は、①強い物が残る(成績評価)、②億年単位のtry and error(創造的手法)、の2つである。
 
 考えてみると、人間の活動も論理的・組織的に見えてもそれは一部であり、肝心なことはtry and errorで進んでいるとも言える。1899年から2000年になるときから人類がtry and errorをやめ、もっぱら人間の創造力と論理で科学を進歩させてきたとしたら「相対性原理、超伝導、量子力学、DNAと生命科学、航空機、電化製品、原子力、トランジスタ、集積回路、コンピュータ、レーザ・・・」などの内、いくつが現実になっていたか疑問である。
 
 生物がその生命を守るために採用している基本的な考え方は、①材料は劣化することを「覚悟」する ②連続的に補修する ③諦める の3つである。人間はまだ「劣化しない材料」を夢見ているがなかなか実現しない。

 人間はまだ「永遠の命」を目指して子供を作った後も生き延びようとする人もいるが、皮膚は垢となって落ち、髪の毛は床屋が切断し、サケは産卵と共に自らその命を断つ(このような非論理的な表現は東洋のみに許される記述でありあまりのぞましくないが、わかりやすいのでこのような表現を使った。)
 
 本稿は生物の情報と機能体(人間のような複雑な機能を発揮するもの)がどのような関係になっているかを能動防御材料をテコにして考えてみたものである。そして文章は矛盾に満ちている。矛盾に満ちた文章にしたのは、どうしても現代の工学になにか大きな落とし穴があるように感じられるからだ。それを探求する材料としても能動防御という概念はすこし役に立つように思う。


1.  自己修復材料とシステム

 自己修復という考え方は古くからある。問題はいかにして現実に自己的に補修する材料を発見するかという事であり、それによって「何が問題か」を明らかにすることにある。

 自己修復にはDNAのような情報を持ち、血管や酵素系を有して補修する方法(並列情報補修)と、「玉突き式」に補修する方法(直列情報補修)がある。生物は最低でも10,000bitほどの情報で生命活動を維持しているが、補修系だけなら塩基数で20程度から可能なようである。しかし、並列情報補修を実際に行うのは極めて難しい。

図 1  生物の種類と情報量


 直列情報処理でも生物の補修系は複雑である。DNA上にできるチミンダイマーの補修系は、非哺乳動物ではやや直列情報的であり、哺乳動物ではやや並列情報的である。図 2は非哺乳動物のチミンダイマー補修系で、紫外線で劣化したDNAを可視光を二段で励起した活性化された化合物から電子が移動して結合を切断する。

図 2 非哺乳動物のチミンダイマー補修系



 これに対して哺乳動物では、DNA上にできたチミンダイマーを検出し、そこを加水分解で切り取り、補修する。検出して補修するところはかなり高度な作用であるが、反応自体には「命」の要素はない。もともと「命」の要素とは何であるかははっきりしない。でも、図 2にしても図 3でも、個別の反応は普通の有機化学で理解できるし、全体像も特に「神秘」なところはない。特に非哺乳動物系では単純な光反応である。

図 3 哺乳動物のチミンダイマー補修系

 そこで、研究を切り替えて単純なものを追求し始めた。try and errorの後、難しい対象物を諦めて、考えやすいものから取りかかったのがPolyphenylene etherの自己修復であり、末端濃度、触媒濃度、酸素分圧、そして補修数と排泄物の発生量などの実験を溶液系と固体系で行い、Polyphenylene etherの重合メカニズムを参考にして自己修復材料の概念を構築した。
   
図 4 酸素分圧(左)と末端濃度(右)の変化による高分子鎖の回復

  
図 5 溶媒含有量の変化による鎖の再結合(左)と修復数と排泄物量(右)

図 6 PPEをモデルにした自己修復材料の概念図


 1953年のWatsonとClickのDNA構造の解明以後、すべての自然現象は論理的に説明が可能で、人類は「犬が犬らしく、猫が猫らしいと同じように、男は男らしく、女は女らしく、人間は人間らしく行動せねばならない」を失って「何でもOK」の世界に突入した
 
 それは、我々の前の「未知の海原」は姿を消し、「おそれ」は後退し、残っているのは岩陰のよどみに過ぎないと言う確信が科学者や技術者の間に拡がっている。Helmholtzは「科学の世界ではどんな名著でも30年たてば駄作となる。それが我々の仕事だ」といい4)、Max Weberは「学は自ら時代遅れになることを望む」と言った。その時代は去りつつある。
 
 生物が誕生してから血液の酸化還元に寄与する金属はCu, V, そしてFeが使用されてきた。水溶液中で標準還元電位が0-1.23Vの範囲にある金属元素の酸化還元対は、Ti, Sn, Cu, U, V, Fe, Nb などであるが、この中でClの存在でも沈殿を生じにくいものとしては、Ti, Sn, U, V, Feであり、弱アルカリ性になっても安定な対はU, V, Fe, 更に酸化還元に伴い酸素の授受がないものはFeである。Vはかなり優れた酸化還元対を持つので進化の過程でホヤやナマコで採用されたが、その後廃れた。

 いずれにしても研究をある程度進めてみると、自己修復材料とは、①傷の応急手当をする絆創膏、②傷の修復を行う触媒など ③傷の修復に使用する副材料 ④連続的なエネルギーを与える代謝系 ⑤エネルギー源 ⑥排泄物 が必要であることが判った。そしてこのような構成を持つことができるものは多く、また「絆創膏が必要である」という事を逆手にとって修復できない構造の材料を補修することも可能であろうという面も見出された。


2.  自己修復からみた合成高分子構造

 材料を長く持たせることは「良い」ことだろうか?石油を出来るだけ多く消費する方が良い、石油製品の売上高が多い方が良いと考えると材料が長く持つことは好ましくない。資源の枯渇や地球温暖化を考えれば石油の消費量を落とし材料は長く使える方が良いということになる。

 頭の中は資源を節約しようということになっているが体は言うことを聞かない。可能な限り性能を「良く」して多く販売しようとする。この両方が成立する条件は「自分だけは販売量を増やすが、他の人の販売量はそれに伴って減り、日本全体としては消費量が減るのだから、自分の行動は矛盾していない」というものである。

 もう一つの考え方は石油が無くなれば原子力がある、海にはメタンハイドレードというものがあるらしい。資源の枯渇を心配するといってもそれは表面上のことで自分の死んだ後のことなどを気にしていられない。また、温暖化しても実はたいしたことはない、温暖化はさらに先のことだ。そんな先のことまで考えられない、というものである。この間を揺れるので工学の研究にも迫力がなく信念を持つことができない。
 

 図 7 耐熱性から見たプラスチックの値段と寿命

 ともかく、材料を長持ちさせるためには、まず「高級品を使うこと」で汎用プラスチックに対して値段が2倍のエンジニアリング・プラスチックは10倍持つ、値段が20倍のスーパーエンジニアリングプラスチックは10万倍持つ計算になる。
 
 PPやPSは付加重合で作るので高分子末端の反応性が低く、切断された末端を繋ぎ合わせるのが難しいが、切断箇所をとりあえず絆創膏で手当をして、適当な時に接続すれば良い。修復した元の形は最初の状態とは違うが、その方が却って良い場合もある。しかし、PPやPSなどのような簡単な構造のものをどうしてあれほど大量に作るのかというと、殆どが「使い捨て」に便利だからという事である。

 その典型的なものが包装用のプラスチックで、製造してからコンビニエンスストアで販売され、家に持っていく間の商品を守れば良い、という具合である。またテレビのキャビネットもテレビを5年で捨てるならそれほど複雑なプラスチックを使わなくても良い。「包装材料はリサイクルするべきである」「過重包装は無駄だ」と一時さんざん言われたが、本当にそうだろうか?包装には二つの意味がある。
 
 一つは中の商品を守るため、第二には人の心を満足させるためだ。日本人が包装好きなのは「使い捨て」を嫌い、何事も大切にするという気持ちがあるからで、それ自体はなんら非難されるべき国民性ではない。「アメリカでは車のバンパーをぶつけて駐車する」といって日本人の包装好き、きれい好きが非難されたことがあったが、非難されるべきはアメリカの方だろう。
 
 また、クリスマスには包装紙が大切で裸のプレゼントは要らない。心の時代というのに心を大切にするのを止めて実用一本というのもおかしい。環境は大切だが自分は生産するというのと同じ両価性にかかっているとも言える。
 
 つまり、汎用プラスチックは「安く(資源を少なく、使う間だけ使う」という思想を持ったものなので、自己修復はあまり有効ではない。むしろ縮合型プラスチックで高価なものに合う。そして10万年持つ材料を100万年にしようということになる。だから、材料メーカーは自己修復自体には殆ど興味を示さない。それは正しい態度であり、企業自体の自殺行為になることをやらないのは当然だ。

 もし100万年も持つ材料ができたら材料を一度製造したらそれで終わり、失業となる。その意味では「ゴミゼロ」という運動をしているメーカーがあるが、あれも自己矛盾である。ゴミは生産物がその原料となる。もし本当にゴミがゼロになるとすると生産が要らなくなり、メーカーは消滅する。学生は「先生、あんなの嘘に決まっているじゃないですか」というし、自己補修材料については「武田さんは頭が良いと聞いていたが、メーカーは寿命が長くなっては困るんですよ」と言われる。
 
 実は環境の時代に工業が何をすべきかは極めて難しい課題である(本当はこれを話したい。)

 このように自己修復材料というのは環境時代に工業的に意味があるように思えるが、実は反対であり、産業としては意味がないが、学問としては意味がある。それは高分子の運動そのものをある程度見ることが出来るからであるし、将来、合成高分子の中に情報をどのようにして組み込むかを考えるきっかけを与えることにもなるからである。

 高分子材料には「表面」というのがある。では「面」がどこまで小さくなると「面」は「面」で無くなるのだろうか?孔の体積分率が同一で孔のディメンジョンだけが異なる数種類の高分子を作って窒素の吸着量と水銀ポロシメーターで孔を測定する。

 そうすると孔径が5-10nm程度になると「孔があるのに測定できない」という状態になる。これは高分子鎖の運動領域と孔の大きさが近くなってきて、「どこが孔の壁か?」が判らなくなったことを意味している。私たちが「面」や「壁」と感じるのはその材料を構成しているものの運動領域に比較して大きな領域で捉えているからに他ならない。

図 8 孔のディメンジョンと孔の体積の測定値


 また、もう一つ、多孔質の樹脂を作って、それを良溶媒に十分に浸漬する。そうするとそれまで小さな孔だらけだった樹脂の孔が消滅する。それを再び貧溶媒に浸漬すると、殆ど同じ大きさの孔が出現する。

図 9 高分子の孔の記憶性


 これは高分子というものは集団としては「絡み合い」によって固体の構造をなしている事を示している。この絡み合いは、立体的なものでも、水素結合でも、イオウ架橋でも、またジビニルベンゼンのような固い架橋でも同質である。架橋点の運動性は変化するが高分子鎖自体の運動領域はそれほど大きく変化しない。

 つまり、材料を形成する化学結合として、金属結合、共有結合、イオン結合、ファンデルワールス結合などと呼ばれ、それだけで材料の結合が出来ているという教科書が多いが、材料のほぼ70%を占める高分子材料は分子自体は共有結合をなしているが、分子一つでは材料にならず、また分子の集合体も結晶性の高いものを除いて「絡み合い」という物理的な結合がなければ材料にならない。
 

図 10 高分子材料の2段構造


 分子間力という意味では高分子材料は液体であり、ある程度の広さを持つと立体障害の影響で固体となる。それが高分子材料なので、自己修復反応をデザインするときにもあたかも液体の中の反応のように考えることが出来、それは生物の細胞に近い。


3.  機能複合体の信頼性

 材料が長く持つと資源が節約でき環境に良いので、材料メーカーは興味がないので、仕方なく(工学は実用化されてこそ工学であり、産業界が興味を示さないものはとりあえず工学ではない。そこで舵をきってアッセンブルメーカーの方を向くようにした。それが「機能複合体の信頼性研究」である。アッセンブルメーカーは組み立て製品を製造している。
 
 製品はその一部に弱点があるものが多く、それを克服すれば「売れる」。その欠点の内、材料が劣化するという例が多い。例えば、高圧送電線は一部の絶縁が破れると数キロメートルの電線をそっくり代える必要がある。

図 11 機能複合体としての電線とその更新


 絶縁が破れたところを2mmとして取り替える電線が1kmとする。もしこの絶縁破壊を自己修復することができれば、寿命は50万倍になり、電機会社は採用するが電線会社やPEの製造会社は絶対に採用しない。

 現在、筆者の研究の殆どは材料自体の自己修復の研究ではなく、アッセンブルメーカーの依頼による機能複合体の部分的自己修復である。具体的なターゲットがあること、まだ自己修復反応自体を体系化するほどには実施例が少ないことなどから絶好の研究テーマであるが、どれも依頼会社の極秘のものが多く、発表が出来ないのが悩みである。
 
 しかし、これからの時代には「材料を少なく使い、信頼性の高い製品を求める」ということに社会の関心が向くと思う。だから、少しずつではあるが自己修復材料、つまり能動的に自らを補修する材料が主流になっていくと考えられる。


4.  環境と材料

 現在の材料工業、あるいは製造工業のもっとも重要なテーマが「環境工学」というこの矛盾した言葉をどのように考えれば良いだろうか?
 
 100万トンの汎用樹脂を製造していたメーカーが、製品の寿命を10倍に延ばして「高機能化」をはかり10万トンの製造にしたとする。メーカーがこの研究に投資するためには、高機能化製品の価格が汎用樹脂の10倍以上であることが求められる。そうでなければ研究費を出す意味がない。
 
 一方、価格は特別な場合を除いて、それに使用する物質量に比例する。極端に生産性の悪い産業は競争力を失うので、人件費で価格の優劣が決まることは少ない。だから、「安いもの100万トンで、売り上げ1000億円」というのと、「高いもの10万トンで、売り上げ1000億円」というのは日本の総物質使用量は同一であり、資源もゴミも同一である。
 
 問題はむしろもっと深刻である。例として携帯電話を考えてみると、この極端に効率の良い製品は「通信」という手段で人間の活動力を飛躍的に高くする。活動力を高めるということはそれだけ活動するので物質を使用するようになる。「手紙が着くまで待とう」から「ファックスだからすぐ届く」になり「今、商談がまとまる」ということになるのだから、これで物質が増大しないことはない。つまり、技術革新の真なる意味は効率改善であり、それは物質拡大、資源消費、ゴミ増大が結果としての必然である。

 リサイクルはもちろん「すればするほど資源を浪費し、ゴミを増やし、国際競争力を落とす」という点で最近、コンセンサスを得てきたが、「リユース」にはまた本質的な問題点がある。「リユースと技術革新が併存する方法」が発見されていないことがそれである。

 地球温暖化を防止する市民の行動綱領にも矛盾が見られる。「一日一時間テレビを消す」という方法は、それに加えて「その時間なにもせずに寝ていること、浮いた電気代に相当する紙幣を土に埋めること」を付加する必要がある。

 環境の時代は「一人の行動が一人にとどまらない。全体のことを考えて自分だけがという意識を捨てる」という意味を持っており、そのためには「競争の単位」を決めなければならず、それは徐々に「国」になってきつつある。そこに筆者がいう「愛国的環境論」の発想があるが、日本は世界の工業製品の約10分の1を生産しているので、世界を相手にすれば高価なものを作り生産量を落としても国際競争力があれば外貨を稼ぐことができ、それでいて日本の環境はある程度守り、資源を他の国から買ってくることができる(その資源は日本で蓄積しなければ意味がない)。

 そのためには日本で製造する製品はともかく、高い技術力に支配されたものである必要があり、製造量を拡大する技術開発は方向性が違うのであろう。
 
 スーパーエンジニアリングプラスチックを自己修復して100年持つ材料を作る。そういう技術が出来れば近未来に予想される石油の高騰の打撃は幾分か解消されよう。具体的で総合的な手段は教育に現在の4倍以上の資金を流すことであり、産業界の反映は技術者の教育にあるということが「リサイクルをすすめろ!」より大きな声になる必要がある。


おわりに

 日本は高い工業力のおかげで外貨を稼ぎ、豊かな生活を現出した。日陰で努力している技術者以外では日本に資源がないことに気がつかない人も多いくらいである。「技術が社会の奴隷である」という時代に終わりを告げたい。

 これまで虐げられてきた技術者が目覚めるときでもあり、「環境」は技術者以外には真に理解することはできない。その意味で技術者が哲学を持ち、将来を見据えて毅然とした態度を社会に示すときだろう。
 
 それが環境の時代と思われる。



参考図書

1) Brown H, The Wisdom of Science, Cambridge University Press.(1986)
2) 石川統,”生物学”, 東京化学同人, pp.85 (1994)
3) Hermann von Helmholtz, “Erinnerungen” (1891) (ヘルムホルツ,「科学者の回想」,郁文堂 (1961))
5) Max Weber, “Wissenschaft als Beruf”,(1919)(マックス・ウェーバー,「職業としての学問」,岩波書店 (1936)
6) Takeda K, Separation Science and Technology, vol.28, no.1-3, pp.487-505 (1992)
7) 武田邦彦,「エコロジー幻想」,青春出版 (2001)
8) 武田邦彦,トリガー効果の理論,ハイテクリサーチセンターシンポジウム講演要旨 (2001)
9) 武田邦彦ら,「産教連携とその将来」, 丸善 (1999)
10) Ferguson E S, Engineering and the Mind’s Eye, Massachusetts, The MIT Press. (1993)
11) 武田邦彦, 実践教育, vol.16, no.4, pp.41-44 (2001)