― 人工材料の自己修復 固体の反応 ―
気体の反応は早く、液体での反応速度はまあまあである。「まあまあ」とは人間が生活する時間、たとえば朝、大学に来てから実験の準備をし、実験を開始しておおよそ夕方には終わるというような時間である。反応時間は4時間ぐらいのものが多いのは人間の生活時間が本来、人間とは関係のない科学的な反応に影響を及ぼしている例である。
名古屋大学にも「定時になったら帰りましょう」というポスターがあちこちに貼ってある。おそらくは「仕事はつねにいつでも止められるもの」という前提があり、「多くの人がそうなら一部の人は我慢すべきだ」という統一主義のためだと思う。私たち研究職には「定時」なるものはないが、事務方がシステムを作るから仕方がない。
ある反応の研究を始めると、反応に2日ぐらいかかると具合が悪いので、温度を高くしたり触媒を探したりして反応を早くする。そして反応時間が4時間とか6時間ぐらいになると「反応を早くする」という必要性がなくなり、興味は他に移る。
「固体の反応」が少ないのはそれも理由の一つとなっている。液体の自己拡散係数は単位がm2/secの時、10の-10乗程度だが、固体はプラスチックで-14乗程度、金属になると10の-18乗になる。拡散係数から反応速度を推定する一番簡単な方法は、次の式で「球の中心付近にいた分子や粒子の半分が直径dpの球に拡散する時間」=τ50を計算することである。
(1)
拡散係数Dの単位はm2/sec、反応部位の寸法dp2を分子の大きさ程度(10 nm(ナノメートル)程度)とすると10の-8乗メートルの2乗だから10の-16乗の桁になる。液体の拡散係数は10の-10乗程度であるので、割り算の項が10の-6乗、それに係数がおおよそ100分の1であるので、0.01マイクロ秒程度の時間に分子は10 nmの球に拡散するから十分に反応する。
つまり溶液中での化学反応の場合、反応する分子が拡散する時間を考えないで、反応律速・・・つまり分子同士が衝突はするが反応しない・・・ということだけを心配すれば良いことが判る。
ところが金属なら拡散係数が10の-18乗だから、式の(1)の分数のところが10の2乗であり、それを100分の1にするのでおおよそ拡散時間は1秒程度である。分子が拡散しても反応するとは限らないし、分子の数が少ない(濃度が低い)場合には反応する量はごく僅かになるが、それでも普通の生活の時間で反応することが判る。
だから分子のサイズなら液体でも固体でも「傍に反応の相手がいたら」適当な時間で反応が進む。もちろん分子同士が衝突したら反応する可能性が高い・・・つまり拡散律速の時を仮定している。
現実の反応では10 nmぐらいの範囲では相手に出会わない場合も多い。たとえば濃度の低い場合で100 ppmしかなければおおよそ100 nmに1ヶ程度であるから、この分子が周囲の10ヶ程度の粒子と出会うためには300 nm程度は動かなければならないことが判る。
高分子でできている有機の固体の場合は高分子の運動領域が100 nm程度なので、これも同様である。そうすると一つの目安はdp=300×10の-9乗 m=3×10の-7乗 m程度の直径の球を「反応場」として想定しなければならないだろう。そうすると、前の式でdp2の項が9×10の-14乗、つまり10の-13乗 m2程度になる。Dは液体なら10の-10乗、 プラスチックなら10の-14乗、 金属なら10の-18乗だから、液体なら10の-5乗 sec、プラスチックなら10の-1乗 sec、そして金属なら10の3乗 secとなる。
さて、ここまで予備知識をつくっておいて自己修復の反応を考えてみよう。
ポリエーテルケトンの溶液の反応の場合、炭酸カリウムは溶媒に溶解していない。単に小さな粒子が懸濁しているだけであるから、表面反応と言うことができる。この場合、「動く物」は重合反応の場合は単量体、高分子の再重合反応の場合はポリマーと言うことになるので、「反応場」の大きさは炭酸カリウムの粒子間距離と言うことになる。
さて、ポリエーテルケトンで使用した炭酸カリウムというのがどういうものだったかをもう一度調べてみる。炭酸カリウムの写真を撮影して粒径を測定してみた。下の写真で見るように普通の粒子で「ナノテク」のような物ではないので、粒径は大きい。計算してみると平均粒径は185ミクロン、粒径の標準偏差は約100ミクロンである。
炭酸カリウムの粒子も少しは運動するがなにしろミクロンオーダーなので分子などに比較したら運動は遅い。溶媒として使ったジフェニルスルフォンを2グラム、炭酸カリウムを0.08グラム入れると、炭酸カリウムの比重などを換算して、一つの炭酸カリウムの粒子と隣の粒子の平均的距離は500ミクロン程度になる。
次に反応温度が高いので、拡散係数も大きくなる。どのくらい早くなるかはEyring以来の式があって、反応速度は式(2)で示される。拡散係数は反応速度とは同じではないが、温度に対する影響は同じだから、温度の異なる溶媒中の拡散係数は式(3)で示すことができる。
(2)
(3)
ここで「ジフェニルスルフォンの中の炭酸カリウムの拡散係数など知られていない」という初学者がいる。また学問が真実に到達することができないことを知らない人は厳密にやろうとする。でも、今計算しようとしているのは、おおよその反応時間を出そうとしているのであって、厳密な拡散計算をしたいというのではない。
それならデータは要らない。もともと物の拡散係数というのがあるのは、駅に着いたときに混んだ電車の中から「すみません」といってドアーに近づくようなものである。前に人に少しのいてもらってこちらも若干身をよけながら傍をすり抜けていく。
この動作が拡散である。この速度を決めるのは相手が巨漢かやせているか、こちらも動きやすいかによる。性質も多少は影響するがそれほどでもなく、単に大きさだけで決まる。物質の拡散もそうだから、分子や粒子の大きさできまり、その大きさもあまり違わず、まして温度が変化したときの変化率などはさらに影響が小さい。
かくして拡散係数の活性化エネルギーはほぼ12 kJ/molとなる。それを式(3)に入れると25 ℃(約300 K)と320 ℃(約600 K)では、11という倍率が得られる。つまり拡散係数はだいたい10倍になるから、液体なら10の-9乗程度の拡散係数ということである。そして粒径が200ミクロンだから、
(4)
と言うことになる。反応時間としては短い。
また、これを固体側から見ると10の4乗だけ遅いから、τ50、つまり半分が拡散する時間は3000 sec程度になる。3000secと言うと50分だから、まあまあの反応時間と言うことになる。反応する物質の量が少ない時には反応の量はそれほどにはならないかも知れない。
ここでお話をしたかったのは、「固体だから遅い」とか「こんな条件では反応しないだろう」と簡単に決められないということである。固体といっても相手が液体だったら液体の方が拡散していくだろうし、固体同士でも固体の表面というのは案外、活性である。分子は動きやすい。
たとえば高分子の場合、固体でも拡散係数は10の-14乗程度である。それに可塑剤のようなものが入れば、すぐ一桁ぐらい大きくなって10の-13乗になる。さらに温度が上がれば10倍だから10の-12乗。そして反応する場所の大きさの方は粒子を小さくしていって200ナノメートルとすると、10の-7乗メートルの桁である。式(1)の分子が2乗なので粒径の寄与の桁は10の-14乗となる。だから分数のところが実に0.01となり、それに0.01(正確には0.0075)をかけると10の-4乗 secになる。十分に短い時間であることがわかる。
自己修復でも生体内の反応は細胞が半液体だから拡散係数が大きいのに対して、工業的に使われる高分子材料のほとんどが固体である。その拡散係数の差は1000倍程度あると考えられる。だから生体と全く同じ時間に修復を行おうとすると、反応場の大きさを1000分の1にしておかなければならない。
一般的な細胞の大きさは、10ミクロン程度だからその1000分の1というと10ナノメートル、その程度の反応場が得られれば、生体内の自己修復速度とおなじような速度で人工的な材料も反応が可能であることを示している。
さらに人工的材料の有利な点がある。生体が皮膚ガンからその体を守るためには毎分見回って修理しなければならないが、人工的材料は1ヶ月とか1年という間に劣化する。だから1ヶ月で修復できれば十分である。1ヶ月とは1日が24時間で1時間が60分だから、1日で1440分である。つまり先ほどの1000倍のハンディキャップはこの時間差で解消できることも判る。
終わり