― 人工材料の自己修復 ポリエーテルケトンの自己修復 ―
実験装置を準備し、論文を取り寄せて読み、学生と研究会を何回かして、実験を開始し、ようやくポリエーテルケトン同士の反応の実験ができるところまで到達した。
そして、最初の実験は、綺麗に精製したポリエーテルケトンを再びジフェニルスルフォンの中に入れ、さらに「修復剤」としての炭酸カリウムを添加する。今度はポリマーだからこれまでのように容易に分子量が増加するかは不明である。このところの記憶がハッキリしないのだが、最初はあまり上手くいかなかった様な気がする。
後になって簡単にできるものでも、最初は何かと躓くものである。それが温度調整の失敗や攪拌の速度が不十分だったりと原因は様々だがともかく最初の内はまずいことが起こる。でもそれは記録されない。学生にはノートを良く取っておくように言うのだが、そのノートもだいたいは学生が卒業した時点でこの世から失われる。
学生は自らの勉学のためにノートを取るのだから、勉学が終わればそのノートを捨ててもそれは仕方がない。また、よほど几帳面な学生でなければ、例えノートが残っていても他人が見て理解できるようなものでもない。このような大学の状態を「だらしない」という短慮な人がいるが、学生はまだ修行の身である。立派に教育機関を卒業して国立研究所に勤務し、仕事として研究をしている人の集団とは訳が違うのである。
学生が卒業論文や修士論文にまとめる時にはとかく「きれい事」でまとめがちである。「できなかったことはその通り書いておくように」といってもそれはなかなか守られない。また「卒業論文は40ページまでで、フォントサイズは12」とか「修士論文は60ページまででフォントサイズは10.5」などと制限が加わる。それを超えても判定には関係がないと思うが、形式要件を満足していないと論文を受け取って頂けない先生もいる。
とどのつまり、学生本人の実験記録はわずかな卒業論文や修士論文だけに残される。実に残念なことである。だからポリエーテルケトンのポリマーの反応についてもなにか最初に失敗があったような感じもするが、思い出せない。学生が記録している最初の実験結果は次のようなものだった。
320℃というかなり高い温度ではあるが、結果は良好だった。10分と20分の実験でもともとの粘度平均分子量6,500、数平均分子量2,600のものが、かなりの分子量まで上昇した。溶液中の再重合が認められたので、次に固体における再重合を試みた。
この時点で研究上の不安はもっぱら末端の問題であった。もともと「普通の化学反応」に使う分子の分子量は50から200程度が多いのに対して、ポリエーテルケトンの分子量は1万程度である。モデル実験では少し分子量の低いものを用いるがそれでも数千である。末端がカリウムに置換しなければ反応は進まないかも知れないし、非水溶媒中で電解質がイオン的に交換するのかなど未知の要因が多い。
この頃、次第に私たちの研究室の研究が知られてくると学生に雑音が入るようになった。最も大きな雑音は「まだ再重合実験をしているだけで、修復などと大げさな名前を使うな」というものだった。私は学生が余計な攻撃にさらされるのを防ぐために再重合研究などと書かせていた。
でも、このような雑音を言った人にここで抗議をしておきたい。「再重合」というのは「行為」であり研究の最終的な目的ではない。最終的にはあくまで「自然に学ぶ人工材料の自己的修復反応の研究」であり、そのために研究室ではポリエーテルケトンの実験をする傍ら、大腸菌や人間の皮膚の防御の勉強をしているのである。
それを矮小化すると、まず学生が将来の研究目的をよく考えて今の実験を計画するということがなくなり、何のために大腸菌の勉強をするのかも不明になり、ただ先生の言うとおりにやればよい、ということになる。でも工学大学の教育で大切なことの一つは長期的な目標に向かって一歩一歩自分で勉強して行くことだ。
目的が近く、それを義務でやる研究は、どうせ会社に入ればさせられる。せめて学生の時には自由な発想で夢のある研究をさせたいと思っても、このことに反感を持つ人が多かったのである。
それはともかく、固体の実験に入った。まず末端が心配なので、あらかじめ溶液の時に末端をカリウムに置換したポリエーテルケトンを使って実験した。つまり開始剤なし、溶媒なしの実験である。
その結果が上のグラフである。反応の最初の還元粘度は0.15であったが、1時間も経つと0.3と約2倍になった。なんとなく理解できないが、ともかく固体の中でもあの固いポリエーテルケトンの分子が動き回り、末端同士が反応することが実験的には明らかになった。
次に、末端を最初はHにしておき、固体内に炭酸カリウムを分散させて再重合ができるのかについて実験した。いよいよポリエーテルケトンの固体内重合、私たちの研究目的から言うと自己的な修復反応の可能性を調べることになった。
その結果を上のグラフに示す。分子量は急激に上昇し、約15分で還元粘度が0.8まで変化した。それから1時間までさらに分子量が増大することを期待したが変わらなかった。しかし、ともかく溶媒を入れないでも末端をカリウムに置換するために無機塩を入れただけで分子量が回復することがわかったのである。
現実の疲労実験や熱劣化で高分子が劣化するのは高分子の主鎖の開裂である。この開裂の時に酸素などがあると酸化劣化を伴うが、末端は必ずしも過酸化物などとは限らず、多くの縮合系高分子では末端の構造は大きく変化しない。つまりこの実験結果は明瞭に「人工的高分子材料の自己的な修復は固体中でも可能である」ということを示している。
実験サイドでは20分より長く保っても分子量が増大しない理由を考えていた。おそらくは末端の数とカリウムの当量の関係であろうと考えられたが、研究は先を急ぎたかったので、この原因を解明することなく、さらに条件などの検討に入った。
おわり