大和撫子 そのさん    独立人格


1.  紫式部

 ヤマトナデシコはナデシコ科で、唐からのセキチクがカラナデシコだから、それと区別するためにヤマトナデシコという。エゾカワラナデシコの変種で、大和撫子と漢字で書く。



(Dianthus superbus var. longicalicinus)



 9世紀になると、政情も安定して、取り入れた中国の文化も咀嚼が終わった。そして記録の世界では「議」が出てくる。「議」とは朝廷の会議録で、中国古典と日本の現実を勘案して論理的に議論を展開した記録である。このような「現実」の世界は男が担当した。

そして男が漢文の記録に進んだのに対して、女性は創作の方に進んでいく。



学名をCallicarpa japonicaというこの花は、俗名をムラサキシキブという。



・・・早うより、童(わらは)友だちなしり人に、年ごろ経て行きあひたるが、ほのかにて、七月十日のほど、月にきほひて帰りにければ・・・
「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな」

 源氏は登場人物400, 年月70年という壮大な宮廷ドラマで、もちろん日本古典文学の最高傑作という評判は確定している。人間関係、人生模様、性格描写、そして日本文化の粋「もののあはれ」を根底においている。文章も流れるように美しく、申し分ない。

光源氏、桐壺の更衣、藤壺、葵上、明石の君・・・雄大な作品ではあるが、あまりに源氏が語られ、最近の日本古典文学の学生は卒業論文に困っているという話もあるくらい、日本古典文学の中心でもある。

もともと源氏は8世紀頃からの文学の集大成という内容を持っているが、仮名文字による日記文学の最初は紀貫之の『土佐日記』である。このころ、仮名混じりの日記を男が執筆するのは認められなかったので、紀貫之が女性を名乗ったのは有名な話である。

右大将道綱の母の『蜻蛉日記』、和泉式部の『和泉式部日記』、それに紫式部も『紫式部日記』と、有名なものは女性の筆によっている。そして原孝標の女の『更級日記』辺りまでが日記文学の最盛期であり、『土佐日記』から130年間が日記文学の最盛期だった。


2.  戦国からの女性

 しかし、日本は平安時代の末期から戦争がうち続く時代に入った。平家と源氏の争いから第二次世界大戦までの800年間は戦争の時代であった。そこでは、社会は戦争で動いたので、女性の出番が減少した。しかし、その中で女性は常に「虚」の世界は担当していた。

例えば建礼門院徳子と尼将軍北条政子などが上げられる。徳子が1155年、政子が1157年生まれで同時代であるが、前半生は徳子が高倉天皇の后になったのが16才、一方の政子は伊豆の片田舎と徳子が断然、華やかだった。政子16才の時に頼朝に会い、蛭が小島(ヒルガコジマ)から伊豆山権現へ駆け落ちする。平家が頂点に上ろうとしていた頃である。

 頼朝は、政子に言い寄る少し前に伊東祐親の娘とややを作っていて、このややは祐親によって生まれて間もなく殺され、直後の政子が出現するのである。

 建礼門院徳子の方は安徳天皇と産み、栄華の頂点を極め、そして壇ノ浦の露と消えんとしたが、引き上げられ、生涯を寂光院で終わる。そして、北条政子の方は鎌倉幕府の尼将軍としてその生涯を終えている。



(入水したが引き上げられる建礼門院徳子(源平合戦図))



 下って戦国時代になるとますます女性が軍事や政治のような「実」に巻き込まれる。

『山本藤枝の太平記』の著者である山本藤枝が、佐田稲子が主催したシンポジウムで「道具としての女・・・戦国女性の運命」という講演をしているが、戦国になると暴力が第一だから、政略結婚の材料に女性が使われたというのが彼女の講演内容だった。例として武田家、織田家を挙げている。

しかし、確かに戦国の女、城主の女は政略結婚に使われたし、それは暗い時代だった。そして同時に、その夫はほとんど戦死している。男が死に、女が泣いたのが戦国であった。男の死は当然、女はそんな時でも笑いが絶えないような幸福な人生を送るべきだという山本藤枝の願いは、悪くはないが、多少突出している。

 関ヶ原の後には、大阪の陣で討死した木村重成の妻。辞世の手紙がある。

「一樹の陰、一河の流れ、これをも他生の縁ということですが、一昨年より私は貴方と夫婦の契りを結びました。私は今までただ貴方の影によりそうようにして生きてまいりました。聞くところによりますと、此度の合戦は、この世限りのことでございます由、中国の項王とか申す人は、世にも勇猛な武士でしたが、虞美人のために名残を惜しみ、木曽義仲は松殿の局との別れを惜しんだと言います。この世にもう何の望みもない私は、せめて貴方が生きておられる間に最後の覚悟をいたし、貴方を死出の道とかいうところでお待ち申し上げております。(新渡戸稲造著『対訳 武士道』から)」

新渡戸稲造は、男が戦に死に、女が自刃して果てることこそが、女が独立していた日本の夫婦の真実を示していると言っているが、それも一理ある。ヨーロッパのように女性が男の所有物という関係では、妻は自刃しない。


3.  ヨーロッパと日本の違い

 多少視点は異なるが、現代までヨーロッパは女性の地位が低かった。例えば、婦人参政権も最初はフランスではない。フランスは大革命(フランス革命)の時に人権宣言を発し「人類みな平等」としたが、このときの「人」は白人の男を指している。女も有色人種も人には入ってはいない。だから、フランスが婦人参政権を認めたのは1946年だが、それに先立つこと12年前の1934年に、アジアではトルコのアタチュルクが婦人参政権を認めている。

 つまり、歴史的に見ると、世界で最初に女性の権利を認めたのが日本、それからトルコ、そして最後がヨーロッパという順序になる。新大陸のアメリカは、まだ女性が下位になっている。

その意味で、ジェンダーという英語を使って女性の地位向上を図るのは問題であろう。そして、トマス・ラカー「セックスの発明」、ロンダ・シービンガー「女性を弄ぶ博物学」、ロンダ・シービンガー「ジェンダーは科学を変える!?」、D・トルブホヴィッチ=ギュリッチ「二人のアインシュタイン」、アン・ファウスト=スターリング「ジェンダーの神話」、コンスタンス・ペンリー「NASA/トレック」など、女性に関する差別的書物の多くは欧米のものである。

 日本はもともと、ジェンダーなどの考えもない。女性と男性の対立もなければ、女性を所有物などと見たこともない。このことから考えると、現代のジェンダー論争は、「事実を西洋に求めて行為を日本で実現しよう」としている。もともと日本には欧米の様な差別など存在しないのに、まず欧米の差別の例を持ち出して日本の男に迫っても、議論はすれ違いになる。

日本男子は女性を深く尊敬しているからである。

つづく