大和撫子 そのいち
戦争が続いた時代が終わって、やっと本格的な男女共同参画の時代が来た。日本で男女共同参画を進めている人たちは長い苦労の末のことであり、尊敬できる女性も多い。でも、女性は男性の所有物であると考え、蔑視してきたヨーロッパやアメリカを追従しているように見えてならない。
男女平等や機会均等などの問題を「ジェンダー」と呼ぶ。ジェンダーというのは直訳すれば「性」であるが、その意味としては社会的文化的な性による差違や特徴を指す。でも「英語」を使うのでわたしはどうしてもなじめない。
男女が同じ立場で人生を送り、社会との関係をもつのはもっとも大切なことの一つである。だから、ヨーロッパやアメリカの真似をするのではなく、日本の長い歴史の中で男女の共同参画はどのように進んできたのか、それをこのシリーズでは考えてみたいと思う。
1. Aphra Behn
"All women together ought to let flowers fall upon the tomb of Aphra Behn, for it was she who earned them the right to speak their minds". by V. Woolf,
"Oroonoko, or The History of the Royal Slave"・・・夫の死から22後の1688年に出版されたアフラ・ベーンの代表作で、彼女は1640年頃の出生と推定されている。
当時としては活動家の女性で、1655年から1667年にかけた第二次イギリス・オランダ戦争で秘密諜報員をしたこともある。夏目漱石の三四郎にも出てくる人物だけれど、ヨーロッパではほぼ初めての女流作家である。そして現代の女性の中には彼女が「世界で最初に文学作品を書いた女性」としている人もいる。
確かに、アフラ・ベーンに高い評価をして不思議ではない。ヨーロッパでの彼女に続く女流作家はCharlotte Smith(シャーロット・スミス)であり、彼女の代表作はアフラ・ベーンからちょうど100年後の1788年に出版された" Emmeline, or the Orphan of the Castle"である。
「さすが文化花香るヨーロッパ。もう17世紀から女性が活躍している。日本もヨーロッパに真似なければ!」と欧米好きの人たちが言うことがある。もちろん、間違っている。日本とヨーロッパでは女性に対する社会的地位は圧倒的に日本が高かった。日本の方が高い。それは歴史的な事実が示しているのである。
2. 小野小町
「・・・花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに・・・」仁明天皇の更衣・小野小町、アラフ・ベーンの処女作から844年も前の844年の作である。同じ数字が続くが、計算間違いではない。小野小町がこの和歌を詠んだとしは西暦844年であり、アフラ・ベーンが代表作を書いたのは844年前である。
(小野小町)
小野小町は才色兼備で和歌も優れ、「世界三大美人」の一人とも言われる程だったので、全国には小町ゆかりの地が多い。熊本県の植木町には小町の産湯、岐阜県福岡市には小町がお化粧を直した井戸、茨城県新治村には小町が休んだ石、そして秋田県雄勝町には小町臨終の地などが知られている。
それほどの美人だから、どの地方も「小野小町は自分のところで産まれた」と言いたくなる。その結果、「小野小町生誕の地」は熊本だけでなく、北は秋田県小町塚、山形県小町池、群馬県小野塚、千葉県小町塚、そして熊本県と5カ所に及ぶ。美人は産まれた途端に全国旅行をしなければならないから、大変だ。
さて、本題に戻ると、文学分野で女性として活躍したという意味では、小野小町は圧倒的に古く「人格の独立した女性」として登場する。確かに、和歌というのは短い作品だが立派な文学作品であり、ヨーロッパのように「女は男の所有物」という考えでは生まれない。
小野小町は古今和歌集という醍醐天皇が命じた公的な和歌集に18首も採用されてる。女性としては伊勢の23首など、なんら男性と変わらない取り扱いがされている。西暦844年というとまだヨーロッパは中世のさなか、イスラムも「誰かの妻」「誰かの娘」などを別にすると独立した女性が登場しない時代である。
3. 枕草子
清少納言の「枕草子」が世に出たのが996年。小野小町からは152年遅れているが、アフラ・ベーンに先立つことおよそ700年である。
「・・・春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
夏は、夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。
秋は、夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音(ね)など、はた言ふべきにあらず。
冬は、つとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりて、わろし。・・・」
日本の素晴らしい四季と彼女の感性が見事に溶け合って「枕草子」という傑作を生んだ。このような文学が生まれるには女性の人格が独立していなければならない。つまり日本では800年には女性上位か男女均等であったと思われる。まだ男性の文学作品は出てこない。
平安の文書関係では、「歴史の記録文書」の類は男が書いたが、記録文書はできるだけ事実を忠実に書くのだから、個性や人格はそれほどの意味を持たない。「著者がはっきりしておる散文の創作物」で男性の作になるものは1170年の藤原為経の「今鏡」が最初であり、これは清少納言の「枕草子」に遅れること180年後である。
文学というのは素晴らしい芸術である。トルストイが「学問は人生のなんたるかを教えてくれないので無意味である」と言ったように、文学こそは人間の創造物として価値のあるものである。ここでは男女共同参画の歴史を振り返る上で、まず文学からスタートしたのはそういう理由である。
日本は女性上位、男女共同参画で世界をリードしてきた。常勝ニッポンの裏にこれも大きな力になっていただろう。
おわり