男女共同参画について


はじめに

 憲法では”genderによって差別をしない“とある。この場合のgenderとは性の区別だけではなく、皮膚の色、出身地、身長体重などあらゆる「本人の責によらないもの」を指す。しかし、一般的にgenderというと男女の区別を指すことがおおい。この男女共同参画というのも英訳をするとgender equalityということになる。また、男女共同参画の中核をなす人達は女性が多いが、著者は男でも女でもなく、一人の人間として本稿を執筆した。


1  反論の容認 (前提―1)

 男女参画についての議論は未だに不十分であると考えられるが、その一つの要因として、男女参画の問題について「反論は容認されない」と認識されているからである。この認識が正しいものか、あるいは単なる幻想であるかは、今後の男女共同参画に推進にあたって、反論がどの程度許され、また現実の施策に取り入れられるかによって明らかになると考えられる。本稿では、反論が容認され、反論したからと言う理由で、反論した人が特別な不利を受けないことを確信して本稿を記述した。

 また、検討の設問や問題の中で、意見が対立すると、それに対する論理的・科学的議論は許されなくなり、突如として「あなたには判らないことだ」「自分が腹を痛めた子供を持たなければ判らない」という批判を浴びることがある。仮に、互いに理解し合い、議論をし、シンポジウムを企画する場合には、それに参加する人の意見や考えが主催者と異なったり、男女共同参画を推進する上で都合が悪かったりしても、それによって排斥せず、もしその意見が正しい物であれば、論理的議論を経て採用する姿勢が求められる。さらに踏み込めば、さまざまな企画そのものが一定の方向をもち、一定の結論を期待するなら、それに参画する人の人格を侮辱することになるからである。

 人間はある程度経験しなければ判らず、哀しい環境にある人の心情を幸福な人が類推するのは困難であるが、もしそれが「言語」によって伝えられず、理解されないのであれば、アンケート、シンポジウムなどの「言語伝達」を伴う企画を後退させる必要があるだろう。

 繰り返しになるが、本論では、反論が論理的に処理されることを前提とする。


2  無関係な分類によるグループ化について (前提―2)

 著者は、「男性、60才、教授」であるが、これまでの男女間の差別などの問題についての経験によると、自らの性別、年齢、役職などを前提にしなければ議論をさせてもらえない場合がほとんどである。しかし、著者は男女共同参画という対象の検討にあたって、性別、肌の色、出身、年齢、社会的地位は無関係であり、「ある人」が述べる意見を、意見自体として聞き、理解してもらいたいと希望している。多くの場合、性別、年齢、社会的地位を明らかにして意見を述べると、その意見が性別などに分類されて認識されるのではないか?「年齢何歳の男性ではこのように考える」というグループ化された結果で聞いている人の頭に入るのではないかとの危惧が抜けない。

 前節と関係する問題であるが、男女共同参画を考える上で、最初から「身分による差別」を仮定するか、あるいは「身分によって差別をしない」ことを前提にするかは難しい問題である。ここでいう「身分」とは、1)本来、その人の生まれ育ちによって決定されている身分 2)本人に意思や努力によって変化する身分 の2つを含む。すなわち、人種、性別、生誕地、年齢、肌の色、身長などが1)にあたる。また、職業、地位、趣味、宗教、体重など本人の努力、運、能力、信条、生活などに依存するものが2)にあたる。

 仮に、上記のような定義に基づく身分によってグループ化を行なう場合には、「男女共同参画」という問題に対して、男性であるか女性であるか、背が高いか低いかなどのグループ化がなぜ必要かを最初に明らかにする必要があろう。グループ化する必要性が、将来、アンケートをまとめて報告書を作ったり、解析する時に便利という理由では不十分と考えられる。

 本論は、男女共同参画が検討される第一歩としては、まず、それを特定の人達の運動としてではなく、関係する全ての人の共通の課題として取り上げることが望ましいと考える。


3  男女の能力差について

 男女に能力差があるかという研究結果はあまり有効な成果を上げていない。それはこの設問自体が無意味であることを示している可能性がある。能力とはさまざまな要素からできているが、1)頭脳の能力(頭の良さ) 2)身体の能力(体力、健康、長寿など) 3)精神の能力(粘り、安定性など)とまとめられる。人間は動物なので個体差があり、頭の良い人と物覚えの悪い人、元気で溌剌としている人と病気がちな人がいることは事実である。これらの差は良い悪いもなく、存在自体は否定できないし、それによって人格や環境に差別をするのは不適切である。しかし、これらの能力を「男女」とか「白人黒人」とか、「民族の違い」、「九州生まれ」、「若年老年」などのグループに分類して整理することは、物理的には可能であるが、それがなにか有益な結果をもたらすかは疑問である。ある特定の女より頭の良い男、頭の悪い男は存在するが、ある特定の女と比較して子供を産める男はいない。つまり、そもそも男女という区別が「性」によっているのに、それを能力で整理することができないことを示している。もしグループ化し平均を比較しても、それが日本人12,500万人の内、その平均が誰を示すのか明確ではない。「能力のある女性」という表現はあり得るのか?その人は「能力のある人」であって女性という特定は慣習的なものではないか?

 このように、「男女」は「性差」によって区別される存在であり、能力や体重などで区別するものではない。「男女の内、どちらが子供を産むか?」という問いは正しい。それは性差を聞いているからである。また問題は残すが、脳の研究など特定の場合に限定して「女性は一般的に語学が達者である。それは脳の語学を司る分野が男性に対して発達している」という表現は許されるだろう。しかし、男女共同参画などの検討においては必要不可欠な性差以外の性差をあえて表示し、グループ化しても成果は期待できないと考えられる。

 繰り返しになるが、グループ化はそのグループの本来的な特徴以外にグループ化することは慎重でなければ差別を拡大する結果を生む。それは、白人と有色人種を区別するものは肌の色だけであって能力や寿命の長さではなく、従って投票権においても区別する場合には特別にその理由を述べる必要がある。20才と70才は年齢の差であって能力や生活の差ではない。20才と70才の人の間には筋力の差などの能力差があるが、筋力の差は「筋肉の強い人」と「筋肉の弱い人」でグループ化し区別するのが適切で、年齢によって筋力の差をグループ化するのは不適切である。たとえばアメリカの大学のほとんどは教員の定年制がないが、それは年齢という教育と研究に無関係の区別をもちこまないことを意味している。

 仮に社会のアンケート、調査、整理、区分が本来、区別する対象に止めれば、差別や区別はかなり減少して検討も単純になると考えられる。

 従って、「男女共同参画」という問題設定自体が差別を生む。社会は活動をする場であり、性差を取り出す場ではない。たとえば、著者は大学における自然科学の専攻であるが、自然を解明するにあたって自然から人間に対して「あなたは男か女か?」と聞かれたことはない。だから著者は「社会における全員参加」「男女差別問題」というのはあり得ると考えるが、男女の共同参画ということになると、「20才と50才の共同参画」「アレルギーの人と鈍感な人の共同参画」などあらゆる共同参画を進めなければならない。ある女性は性として女性であり、ある社会的活動では「人」である。そして「優しい人」を何人か選択したら、偶然に女性が多かったということは考えられるが、「女性は優しい」というグループとしての特徴を規定するのは間違っているだろう。


4 「男女共同参画」と「託児所」について

 男女が結婚の契約をし、家庭を営み、子供を作るのは結婚した両性の合意に基づく。しかし、いったん子供ができればその子供は家族の一員として「生命としての権利」は両親と同等である。後に述べるように18才未満の子供は親が「正しい」と判断することに原則として従うが、それは親が子供の権利をその両親と同等に認めることを前提としている。従って、親の都合で子供を託児所に預ける場合には、子供に「あなたは日中、父親か母親、またはおばあさんの居る家庭を望みますか?または託児所が良いですか?あなたは日中、家庭という場の存在は不要ですか?」と聞いた場合、子供がどういう返事をするかを誠意をもって考え、その結果に基づいて子供の(仮想的)意見を両親と平等に取り扱わなければならないだろう。また小学校にあがった子供には「あなたは学校から帰ったとき、家に誰もいないのは良いですか?」と(仮想的に)聞く必要がある。

 推定ではあるが、著者は小学校から帰った子供は「ただいま!」と声を掛けて家に入り、冷たい飲み物でノドを潤し、遊びにでるのが希望と思う。その希望と「親が働きたい」という願いとどちらが強いかは、それぞれの家庭によるだろう。著者は、この意味で託児所を大学に作るに当たっては多くの子供に仮想的に質問をして確かに親が職場で働くほうが、子供が家で寂しい思いをするより良いとの賛成をえなければならない。

 親の都合、たとえばお姑さんと一緒に居たくないから両親とは住まない、自分たちの生活を豊かにするためには夫婦で共稼ぎが良いなど、子供の希望とはあまり関係ない理由や、「夫が働いているのに、なぜ自分は働けないのか?」という夫婦間の問題のしわ寄せを子供にかぶせることも見られる。だから母親が家に・・・という思考順序が違う。

 養育は女性の問題ではなく子供をもった夫婦の問題である。現代の社会では子供の適切な養育は夫婦の共同責任なのに、「託児所を必要とするのは女性」という前提に立っている。この前提は夫婦と子供という関係を間違って捉えているし、現実問題として仕方がないという理由もあるが女性の団体がこの間違った概念を強調していないだろうか?まず、「子供の養育は妻の責任とか夫の責任とかではなく、夫婦の共同責任である」ということを明確にして、それを前提に託児所の議論を進めるべきである。

 さらに職場の託児所については別の視点も考慮する必要がある。職場は仕事をする場所であり、家庭とは違う。仮に職場が託児所を設置する場合には、「子供を育てることがハンディキャップである」としなければならない。著者は、子供を育てることはハンディキャップではなく、人生の中心的な重要事項そのものである、と考えている。従って、子供の権利を損ない、家庭の存在価値を減殺し、結婚した意義を失い、両親のもっとも重要な生き甲斐を奪う託児所の存在を否定したい。育児休暇が夫の出世の妨げになっても子供の養育の方が重要であり、物質的に豊かな生活をするより子供の権利のほうが数倍大きい。

 しかし、特定の夫婦の場合、子供を育てることがハンディキャップになることもある。しかし、それは「買い物をするお金が欲しい」「家に居るとイライラする」「ローンがある」などの理由は排除されるべきである。ハンディキャップとは両親が特別な身体的または精神的障害をもち、子供を養育する能力に欠ける場合や、特別な病気にかかり、夫婦や近親者では処理できない場合に限定するべきである。

 人間は自分にあまい。さらに声が大きい人が勝つ。子供は自分を主張できず、声は小さい。しかし、子供を作るかどうかは子供が決定したのではなく、両親が決定している。決めた人が子供が出来たからといって養育を放棄するのは同意できない。

 少なくとも「女性が働けるために託児所」という考え方は全面的に後退させ、子供の権利を無視するのなら、せめて「両親が働けるための託児所」という言い方をしたい。


5  大学における女性教官の優遇について

 大学において教員採用の時に男女の差別をして、女性の割合を高めるという動きがある。このような男女差別(女性に有利)な制度を定めたりすることはどのような結果をまねくだろうか?もとより、本来、教育と研究の場である大学に、男女の区別を本質的にもつ家庭の概念を持ち込む論理的理由はないし、むしろ、大学からあらゆる差別的、区別的表現、制度を排除していくことこそ大切である。たとえば、教員採用に当たっては、苗字だけを記載し、性別年齢を記載せず、教育および学術業績だけで判断するなどは容易になし得る方法である。また採用の対象となる人の先祖、両親、家庭環境、出生地、年齢、性別、肌の色、身長、体重などあらゆる身体的、運命的区別を排除し、それらの調査を行わないことも可能である。

 そのような身分的記載がないと教官を採用できないとすると、教官採用基準をどこに求めたら良いかが不明になる。

 まして女性教員の数の割合の目標などを定めるのは区分を明確にすることをさらに進めることであり、差別を拡大する。たとえば、女性の教官採用を特別におこなうということは、「性別を特定せずに採用を決定したら採用にならなかった人が教官になる」ということであり、女性というだけで「あの教官は劣っている」というレッテルをつける行為が正当化される。著者はもし、「女性である」ということを理由に教官採用がなされるなら、公的な場所で女性の教官に向かって「あなたは能力が劣るのに教官に採用されたのだから、発言は控えて欲しい。そうしないと学生が不利を受ける」と発言する権利を保留したい。本当はその女性教官(この呼び名を使いたくないが)は優れた人であっても、選任過程が不平等であれば「特別枠で採用した人間」という呼び名は正当であるからである。


6  区分の強調について

 女性や黒人、日本人、何々県出身、アイヌ(最近、差別語に分類されたが、新しい土着民族などの用語が定着していないので・・・)などという区分を強調すると、次のことが考えられる。

1) 区分を強調すると、その区分に属する人に不当な利益をもたらすことができる。(たとえば、前節のようにおなじ能力なのに女性であるがゆえに教官に採用されるなど)

2) 区分を強調すると、その区分に属さない人が不利を受けることがある(政治家や芸能人が「息子、娘」という理由で狭き門を通過することは、それ以外の人の夢を不当に壊す)

3) 反対に、区分を強調すると、その区分に属する文化、習慣を保存しやすくなる。(民族の特徴を残したり、「女らしくしなさい」という教育をすると、制限された行動をとるグループを作りやすい。)

4) 区分を無視すると、「人間」というひとくくりになり、個人に注目することになる。

 このことは、ある少数民族がその伝統を守ろうとすると、区分を強調しなければならず、孤立するが、他の多くの民族との差を示さなければ、伝統を守るのは難しくなるが区分による差別を受ける機会も減少する、というジレンマと同様であり、それはそのグループに属する人が判断する対象である。もし、積極的にグループを記載せず、口に出されなければ区別の方法がなくなる。そしてそのグループの人(たとえば女性)が、本来の区分の為に存在しているところで、その特徴を発揮するという方法もあり得る。すなわち、女性の教官(あまり有意義な名称ではないが)は大学では「単なる教官」であり、その人が家庭に帰ったときに女性となるということである。


7 兵役と妊娠

 日本を除く大部分の国、および50年前までの日本には兵役があった。兵役の期間は国によって異なるが、おおよそ2年から3年であり、年齢は18才から25才程度となる。この数年のブランクは青年期の男子にとって痛手であるが、国を守る義務と女性の妊娠出産とのバランス上、認められるものである。女性は妊娠が判明する3ヶ月目から10ヶ月までの7ヶ月と、乳を飲ませるなど身体的拘束を伴う半年程度は、子供を生むという民族的義務のもとで個人の活動は制限される。そして平均2人の子供を作るとすると、男女の社会分担は平等になる。

 しかし、戦後の日本は平和憲法のもとで男子兵役の義務がなくなった。このこと自体は平和に向かう事として評価するべきだが、女性の妊娠との関係において不平等が生じている。現在一人の女性が生む子供の数は1.3人なので、女性の社会的義務による損失は約1.5年だからである。これをどのようにカバーするかについて男性の育児休暇などが考案されているが、育児は本来、夫婦の相談で決めるもので、大学から見ると男性と女性の区別は不要である。「夫婦」に「子供」が出来たとき、それをプライベートと見ずに社会的義務としてみて、それに対して大学がその社会的責任として特別な措置をする必要を認める場合には、病欠と同等の処理をするのが適当であろう。

 男性の兵役が無くなったことに対して、女性がその分の補償を求めるのは危険も伴う。仮に「子供を産まない」ということが理由で、なにかの具体的負荷を男性にかける場合には、子供を産まない女性、結婚しない女性は男性と同じ負荷を掛ける必要が生じる。


8  過渡現象としての対策

 男女共同参画は現在の社会において男女の不当な性差別が行われており、それが「性を表示しない」という本来の方向では解決が無理なので、とりあえず「過渡的現象の緩和」が主目的である可能性として実施する場合もある。もし、男女共同参画が過渡的現象であれば、それを明示することが望ましい。そして、どのような状態になった場合に、過渡的措置を中断するのかについても明示が必要である。たとえば女性であるが故に教官に就任した人は過渡的措置が終了するとともに退職しなければならない。


9  (追記)人生の価値観について

 男女共同参画を考えるときには、人生に対する価値観が常に判断の基準になる。この問題について本稿では、人生の価値観は多様であって、法に違反するような場合は別にして、他人や社会に影響を及ぼさない範囲で、その人、それぞれに異なった価値観をもち、それを尊敬することを前提とする。つまり、「正しいこと」を決定するものは、神(宗教)、偉人(道徳)、王(法律)、相手(倫理)、自分(信念)であり、子供が小さいときには親(教育)と分類できる。このうち、他人に強制できるのは、子供を養育している時の親を除けば、法律だけであり、他の「正しい基準」を用いて、他人の人生観に異論を挟むことは望ましくないと考えられる。

 一般的にヨーロッパはキリスト教の信者が多く、歴史的にも聖書に記述してあることをもって普遍的な真理と考えるが、宗教の自由が保証され、異なった宗教が存在するので、特定の宗教観に基づく論議は適切ではない。また道徳は偉人であっても人間が作ったものであり、ある小さな人間集団などの場合には強制力を持つこともあるが、日本全体などを考慮すると「親に孝行するべき」「女性は家にいるべき」というような道徳を適用するのは不適切であると考える。また、自分の信念を自分の人生観や行動規範にすることは良いが、それを他人に強制するのも相応しくない。親子の関係では、18才以上の子供に対して親の信念を強制することは適切ではないと仮定して本稿を進める。


おわりに

 日本では大学の議論でも、不意に「先生、女はそのようには考えませんよ」という発言が女性側から述べられることがある。そう言う時、私は私が相手にしていた人が学者ではなく、町の女性と同じであったことに気づく。何故かというと、私は、学問は性別や人種に関係なく議論できるものであり、それによって真実に近づくことが出来ると確信しているからである。もし、議論の中に「女性」といういわば特別にグループ化しなければならない人が入ることによって結論が変化するなら、我々の学問の基礎ははなはだ怪しいと認めざるをえない。

 それに対してよく外国では「見かけは女性」であるが、議論そのものはそれを全く感じさせず、きわめて厳格に学問の検討ができることがある。本論でしばしば述べたように大学の中に「女性」という性別を表示することは止めた方がよいと思う。