マン島レース
第三話 -DOHC-
宗一郎は勉強家だった.日本が外貨不足で汲々している時に,外国から高価な機械や部品を買う.通産省や大蔵省にとっては困りものの経営者だった。特にマン島TTに出ようと決意した頃から,ヨーロッパの車を買いあさり、高価なイタリアのモンディアル・ワークスのマシンを買ったりしていた。
このマシンは1951年のマン島TTレース125ccクラスで上位を独占した単気筒マシンで,125ccなのにホンダの250ccより速いマシーンだった。ちなみに、この頃のバイクの値段は、ホンダの125ccのベンリーは11万円,250ccのドリームは18万円である。
ところでこの時代、外貨だけではなく、ホンダ自体もついていない日々が続いていた。エンジン改良のメドもつかぬばかりか,1950年代のホンダの市販車の評判も悪かった。50ccのカブは他社から追い上げを受ける.ドリームも220ccも売り上げは伸びず、もともとあまり人気のなかったベンリーはさらに落ちこみ,新しく投入したジュノーというスクーターはプラスチックボディーを採用したがエンジンの冷却がうまくいかずに失敗作と言われた。今では圧倒的に強いホンダも当時、窮地に陥っていたのである。
ホンダが窮地に陥ると、本来は長い目で日本の産業を見るはずの霞ヶ関の官僚群はさらに冷たくなった。外務省はホンダが外国で戦ったところで勝ち目はないと踏んで,「外貨の無駄だ」となかなか外国へ行くことを許さないという.通産省は通産省で「日本の自動車会社はどうせ,禄なものじゃないから,関税でも高くして保護しなければダメだ」と独自で技術を磨こうとするホンダのやり方は気にくわない.少しでも保護してもらいたい大会社は,通産省と歩調を合わせるという状況だった。
いつの世も補助金や保護政策を当てにしてビジネスをやっていてはそのうちダメになる。
お役人にはお役人の辛さがある.毎日,毎日,国会議員と国民のわがままの相手で疲れ、平凡な発想しかできなくなるのである。宗一郎がマン島TTに参加せんとしていた直前の通産省の国産オートバイ生産計画がある.計画ができた1949年は生産実績の2倍近い計画だが,それから4年後を検証すると、通産省の計画が18,000台、実績は18万台で、10倍だから、こんなものは計画とは呼べない。産業の足を引っ張るだけになる.
オートバイの国の計画と民間の力(生産実績)
霞ヶ関がそんな状態だったから,マン島レースに出て行ったホンダのチームは,まず持ち出すことのできる外貨をそれぞれの人が目一杯に申請し,現地でプールしてレースのために使うという有様だった.レーサーやメカの人たちの衣服を洗う洗濯機は日本から運び,散髪に至ってはチームの手先の器用な人が同僚の頭を刈らなければない。
日本の官僚も酷いが、いつも先頭を走る者はそんなものだろう。ぬくぬくとしている奴は夜もよく寝ていて,なんでも新しいことは反対する。そういう奴こそうまく行くと,いつの間にか油揚だけをさらっていくのがこの人間社会でもある。
突然であるが、ここで吉田松陰の言葉を示したい。
「沢山な御家来のこと,吾が輩のみが忠臣に之れなく候.吾が輩が皆に先駆けて死んで見せたら震撼しておこるものあらん.夫れがなき程では何方時を待ちたるとて時はこぬなり.且つ今日の逆焔は誰が是を激したるぞ,吾が輩に非ずや.吾が輩なければ此の逆焔千年経ちてもなし.吾が輩あれば此の逆焔はいつでもある.忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むようなものではなし.其の分かれる所は,僕は忠義をするつもり,諸友は功業をなす積もり」
何時の世でも,鬼の留守の間に茶を飲む輩はいるもので、言葉では「日本のため」というが、本当は、単に自らの功業をなすつもりだと吉田松陰は言う。その通りかも知れない。
ところで,ホンダ・ドリームD型というホンダの基礎を築いた車は1948年に設計が始まり,2年後には完成した.宗一郎の設計製作の時の激務で有名な車だが、車体は鋼板をプレスしたチャンネルフレーム,ミッションはエンジンと一体型のユニットコンストラクションだった.宗一郎はこの車に夢をかけて“ドリーム”と名づけた.
ホンダの成功は次のドリーム,空冷4サイクルOHV単気筒,146ccエンジンを載せたドリームE型が出たときに決まった。当時は,まだ2サイクルエンジンの方が構造も簡単で出力も高かったが,なにせガソリンとオイルを一緒に入れる.オイルがエンジンルームで燃えるので白い煙を上げる.ライダーにとってあれほどイヤなものもない。
ガソリンを給油しようとすると、スタンドの隅の方に連れて行かれてみすぼらしい給油装置でチョロチョロと入れる.誇り高きオートバイ野郎には耐えられない屈辱だった.
そこに,新しいドリームの登場である.最高速度75キロでスタイルもあか抜けしてヨーロッパ・コンプレックスも感じられない.それに“ドリーム3E”がでる.146ccで5.5馬力,車体は97キロで軽量だが,OHV4サイクルエンジンの真髄を極めた作品だった.
Honda DREAM CB72(1959)
かくしてホンダは日本で成功を収めた.それは4サイクルOHVのエンジンとスタイルだったが,それでホンダがTTレースで勝ちはじめたのではない.ヨーロッパにはもっと優れたエンジンが作られていて、たとえばイタリアのエンジンは4サイクルで高回転高出力で125ccとか250ccなどの小振りなエンジンが得意だった.ドイツもすでに1920年代にはOHVのエンジンを自由に使い回していて、ホンダの第1号が1947年だが,その20年前のドイツのサンビーム(OHV)の写真と並べて見るとホンダA号は20年もおくれを採っていることがわかる。彼我の差は大きかった。
ところでドリームの成功して1954年,いよいよマン島TTに参戦するためにホンダはDOHCのエンジンを開発しはじめる.目標はイタリア・モンディアルやドイツ・NSUレンマックスのリットル当たりの出力が100馬力クラスであった。
試作エンジンXReから初めて,ストローク,ギヤトレーンバルブ駆動,点火プラグ位置,ピストンリング幅,クランクシャフト支持,コネクティングロッド材質,クランクケース成型,カムシャフト起動,吸排気バルブ形状,ピン差替え割り出しシャフト,バルブスプリング,クロスロータリーバルブエンジン,ロータリーエンジン,ロータ表面ハードクロムメッキ処理と新しいアイディアを入れた。
1957年には単気筒125ccのショートストロークエンジンRC81で,①半球型燃焼室で2バルブSOHC,カムシャフトの駆動からベベルギヤ方式に,②2プラグ,③ヘアピンタイプのバルブスプリング,④中空クランクシャフトと精一杯頑張ったが,それでも目標のリットル当たり100馬力が出ない.
1947年ホンダA型
1927年ドイツ,サンビーム
結局,1957年までの研究はことごとく失敗に終わり新機構のエンジンは断念してしまった.
1958年,試作エンジンRC141を経てペントルーフ型燃焼室の4バルブエンジンRC142の研究を開始,バルブ開口面積が大きく,バルブ重量を軽くし,点火プラグは燃焼室の中央につけ,125ccで回転数13,000rpmで7.3馬力,リットル当たり138.4馬力を出した.これが谷口が6位でシルバレプリカ賞,7位と8位の2人がブロンズレプリカ賞を獲得し,ホンダはメーカチーム賞をとったエンジンとなる.
1961年の驚くべき勝利は次のエンジン2RC143でもたらされたもので、シリンダを直立から35°前傾,クランクケース下部にオイルパンをつけ吸排気バルブ径を大きくして21.0馬力を出した.このエンジン2RC143は世界GPの第3戦から参戦してただちに勝ち,続いてマン島TTレースであの奇跡を実現した.もちろんレースに勝つにはエンジンだけではなく、サスペンションやその他のメカも大きな要素になっている。総合力の勝負でもある。
それに,レースは素晴らしいマシンだけで勝つことはできない.宗一郎の「マン島出場宣言」から5年目の1959年5月3日,レーシングチームは6月3日からのマン島に備え羽田を出発した.幸運と不運は互いに綾が織りなすように進み、ちょうどその時、本田宗一郎の方は成功物語として「妻の勲章」という映画の撮影が始まっていたが,そのロケでマン島TTレースのライダーのはずだった秋山邦彦が撮影中に事故死する.
悲劇を乗り越えて、ホンダチームはマン島のナースリーホテルに居を構える.“nursery”とは英語で「子供部屋」か「養成所」だから,初めて世界に挑むホンダチームにふさわしいホテルの名前とも言えよう。ホテル側も日本人は初めてだったが丁寧に迎えた.日本人はベッドを使わないからと言ってベッドを部屋から出してマットレスを床に敷き歓迎してくれたとされている.
ナースリーホテルでの第1回遠征団
(栄光のライダー、谷口尚巳氏は2004年にはBMWモトラッド芝浦で活躍しておられる。)
「若いのにいい人ばかりで,口数は少なくって.とても折り目正しいし,何をするにもとにかくきちんとしてたわね」
とはホテルのアームストロング夫人.そして,
「日本人はみんなおおらかで,トラブルなんかなかったね」
とハント.礼儀は正しい,控えめ.そしてファイトを内に秘めてチームは栄光を目指していた.
それにしてもその後のオートバイレースでの日本のメーカーの活躍は目覚ましいものである。最初はホンダ,それに刺激されてすぐスズキが続き,ヤマハ,カワサキと戦列に加わった.かくして日本のメーカーに勝てるヨーロッパ勢は世界には皆無となり、「日本勢の独占」の年が続いたのである.そしてオートバイ世界GPレースが始まって100年後になると,世界のGPレースの勝利の累積合計数は日本勢が上位を占めるに至る.
世界GPのグランプリレースの累積勝利数
世界はオートバイの発祥地でもっとも歴史の深いヨーロッパとアメリカだけではない.それも西ヨーロッパだけではない.カナダ,メキシコ,ブラジル,アルゼンチンなどの南北アメリカ勢,ロシア,ポーランド,ギリシャなどの東および南ヨーロッパ,トルコ,イラン,アフタニスタンからインド,ビルマ,そして東南アジアにインドネシア,フィリピン,中国から台湾に至る領域,それにアフリカ,オーストラリアが参戦している。
それなのに、なぜ日本??なぜだ??なぜ、日本は常勝するのだろうか?
(この章おわり)